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![]() 松島 H17.4.19撮影 |
| 嫁と姑−−同居するには永遠の課題といえるでしょう。もともと、生まれも育ちも経験も違うのですから、考え方が違うのは当然です。ところで、かつては嫁と姑がケンカになったらお嫁さんが負けていました。お姑さんは長生きの知識もあり嫁の立場は弱く、お姑さんの理不尽な態度にもガマンし続けていた場合も多かったにちがいありません。ところが、、この頃はたいていお嫁さんは負けません。 女性は強くなり抑圧どころか「嫌いな言葉は努力・辛抱・根性」とズバズバです。今時はお姑さんのほうが智慧と辛抱で争うことを避けているようにも思います。 それでも、お姑さんは気遣いで「お茶碗は持って食べるほうが・・」とやさしく申すも、「いいじゃないのそんなことぐらい・・実家ではそんなこと言われたことない!」。ちょっとしたアドバイスにも「これは愛嬌よ。イチイチ!」「私が親切でやっているのよ!」「私は正直ですから」と言いたいことをいう。しかし、それは正直とか率直というのではなく「あからさま」、いくらタレントの毒舌が好きとはいっても、毒舌の心底に気配りの自覚がなければイヤなヤツというだけのこと。利口なお嫁さんはそんなことでケンカはしないものです。 一方、夫が妻ひいきになれば家族がギクシャクするし、自分の母と妻の間に問題が生じていると気づいているのに、妻に寄り添うこともできない夫であれば夫婦問題はこじれてしまいます。 では、どうしたらいいのでしょうか? まずは、北陸のこんなむがす話など・・
嫁は、どんなことでも姑の言うことをきいていたが、毎晩仕事が全部終わったあとで、お寺参りをするのを何よりの楽しみにしていたそうな。 ところでこの嫁を何とかしていじめてやろうと思っていた姑は、ある日嫁を呼んで 「オレはな、こういう下の句を作ったが、どうじゃ、お前これに上の句をつけてみてごらん。下の句はな、『世に鬼婆と人の言うなり』 というのじや すると嫁は、しばらく考えていたが、やがて顔をあげると 「『仏にも まさる心をしらずして』 というのはいかがでございましょうか」と言ったそうな。その上の句を聞いた姑は、びっくりした。 せっかく嫁をへこましてやろうと、わざわざ自分の悪口を言い易いような下の句を作ってやったのに、 ほとけにも まさる心を知らずして 世に鬼婆と 人の言うなり となれば、文句をつけることなどできないではないか−− 姑は、いよいよ嫁が憎くなり、今度は、何とかして寺参りをやめさせようと考えて、ある晩、嫁が出かけてから恐ろしげな般若の面を持ち、途中の暗闇にかくれて 嫁の来るのを待ちぶせていた。 やがて嫁は、念仏をとなえながら、たった一人で暗闇をやってきた。 般若の面をつけた姑は、突然嫁の前に飛び出すと、「こらー、とって食うぞ」と大声をあげたそうな。嫁は、平然として、「私には み仏がついておられます。怖くなどありませんぞ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続けた。拍子抜けした姑は、急いでとってかえすと、嫁のもどらぬうちにと、鬼の面をとろうとした。ところがどうだろう。何としても面がとれない。 そこに嫁が帰ってきた。面がとれないで苦しんでいる姑の姿を見た時、さっきの鬼は、姑が化けたものであったことに気がついたが、そのようなことには頓着せず力を合わせて面をとろうとした。どうしても取れない事がわかると、「さあ姑さま、一緒にお寺に行ってお参りしましょう。そうしたらきっと面がとれますよ」とやさしくなだめ、姑の手を取って寺に向かった。寺に行ってお参りをして、説教をきかせてもらった姑は、それまでの行為を恥じて、ぼろぼろと涙を流し、心から嫁に許しを乞うた。 嫁は、姑が仏の心に気づいたことを知って、共に手を取り合って喜んだそうだ その時にな、般若の面がぽろりとはずれ落ちたという話であったとよ どんぺんからっこねえっけど これと実に似ている話が最上の昔話にあります。ただし、最上の話は「句」がなく、嫁と姑が反対の立場であって、意地悪な嫁と心やさしい姑となっています。 昔から、親子の関係ほどうるさいものはないと言われるのに、ここに生まれや育ちの違う他人が入るのですから不仲の原因は田舎においても千差万別です。しかし、仏のものさしをあててみれば、畢竟、自己の価値観にとらわれこだわる「エゴ」です。嫁と姑だけでなく、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、そんな人間の性(さが)を見据え、ジタバタしている自分をしっかり見つめ直すことが大事でしょう。 以下、少しでも参考になればと念じ記するものです。
* お姑さん(お嫁さん)の歴史というものに関心を持つ 一度でも旅行した国のニュ−スが気になるように、その人が体験してきた出来事を知れば知るほど受け入れ体勢も良くなる。人間は自分に関心をもってくれる人に好意をいだくものです。相手に関心を向けずにがんばっても疲れるだけ。相手を知り理解するには聞くのが一番、関心を持って聴こうとすれば、「小言」であっても「助言」となります。関心も敬意もなければ「小言」になります。 * 比較しない 姑 「次男の嫁はいいけど、長男の嫁はどうも・・」 嫁 「おかあさんのおつけものは・・実家では・・」 自分の脚下を見つめている人は、他人と比較したりうらやましがったりはしませんし、夫婦でも恋人でも、うまくいっている時には他人との比較などは無用なものです。 * 悪口はいわない 人間は誰でも必ず長所と短所はあるものです。侮辱や人格否定は言うまでもなく、悪口は悪意から起こることですから悪いのは自分ということになってしまう。心すべきは、実家や子供や近所に姑や嫁のグチをこぼさないことです。 * 性格を知る 神経質な姑なら−− 掃除の仕方など、注意された小さなことに注意する。それを軽視するから、「この嫁は無神経だ、掃除だって見ていないところではきっと手抜きしているだろう」と思われてしまう。そうなると、隠れたところでいくらマメに掃除しても評価はあがらない、信用されていないからです。まずは「不合理」と思ってもあせらず笑顔で修行することです。「あなたにできるかなあ」などとイヤミを言われて「私には無理です!」というのでは大人げない。そんなふうに言われるんじゃ意地でもやりたくないというのでは子供同様。「ムリならいいよ」とか「何でも言ってほしい」とかの言葉は会社でいえば、「何をどのように言うか」や「部下のやる気」を見ている忠誠度試験と考えればいい。 外向性の強い姑なら−−こういう人に禁物なのが虚偽の「遠慮」です。いつも敬語で話すような言葉遣いや形式にばかりとらわれているようでは、「いやな嫁だね、いつまでも他人行儀で」となってしまう。親しく付き合おうとする心がないから、無意識ではあっても感情をあらわにせずに話しができる「敬語」の会話になってしまうところを察知されているのです。ポンポン言えない性格なら言わなくてもいいが、任せて安心という人とは「具合の悪いこと」もちゃんと相談してくれる人のことです。 頑固、気の強い姑には−− 一般的には、人は相手の立場や状況などを考えて、引いた方が賢明という場合には理不尽なことをいわれても引く姿勢をみせるもの。「こうやってね」と言われて「私はこう思うんですけど」などとすぐ言い返すようでは情緒未成熟、どうしても言いたいことがあったらお姑さんの得意なものをほめてから、あとから「事実」だけを少しだけ言う。料理などもお姑さんと競うのではなく、教わる姿勢が信頼を得るのです。逆に「どういう意味ですか」などと聞いたところで、わからない時にはわからない。気の強い姑には、宇宙人が怒ったり、わめいていると思えばいい。自分のせいにして気落ちする必要はありません。いつでもそうなんですから、気にしないのが一番なのです。自分に影響のない小さいことはどんどん譲ってしまうこと。上手に勝つのがいいのですが、それができなければ上手に負ける方がよい。いちばんつまらぬのが下手に勝つことです。 内気な姑には−−掃除・洗濯・料理などはきちんとこなし、でしゃばることなく、静かに食卓の隅に座っている姑とは父親主導の家庭に多いタイプです。表だって自分をあまり主張しない人というのは、わりと他人の言葉や態度にこだわるところがあります。そんな人には、自分の主張を最初からポンポン出してはいけない。かといって、言い返さないで無愛想では尚いけない。要は小さなミスをちゃんと謝れないから信頼を失うのです。姑の返事が「そうね」だけでぶっきらぼうに感じても、「聞いてくれているんだ」と受け止めるその心がけが自分をたおやかにするのです。 * 才女より名秘書役に 土地柄や家によって習慣が違うように、食材や味付けにしてもそれぞれの家庭の風味があるものです。どの家でも独特のやり方があって、とくに姑は教え込まれてきた流儀にはこだわるものです。昔から嫁の絶対禁句というのがあるようです。それは「実家では・・」という言葉、この言葉がなぜ悪いかといえば、それは教わる基本姿勢を知らないからです。料理学校やカルチャ−スク−ルでの知識を身につけていてもボチボチ出せばいいのです。嫁姑に限らず、「相手を責める・相手を変えよう」とするのはリスクが高い。そういうことをすれば、「自分を否定する人」「わかってくれない人」だと思ってしまうものです。すぐにしきりたがる頑張りよりも名秘書役がいいでしょう。「はい」としっかりうなずき、タイミングの良い相槌ちができ、短く質問や確認ができるのが名秘書というものです。秘書の基本であるほうれんそう・・、報告、連絡、相談を心がけましょう。 * 人生のやりなおしはできないが、出なおすことはできる ちょっと聞き苦しいことを言い出したらそれは何かのメーセージと思うことです。いつでも、「人の意見とは何かを教えてくれている」、「賛同できる部分というのはほんの少しでも必ずある」と受け止められる柔軟心があれば多少の無理があっても「そうですね」と応える余裕もできる。柔軟心が無く心に憎しみを抱くから自ずから苦しみ自ずから難儀がってしまうことになるのです。子供のしつけに文句をいうより、子供のしつけに協力してもらうほうが仲良くできる。「料理は私のほうが上手!」などと言っていないで、「これでよかったかしら」と相手の顔をたてればハラをたてずに済む。趣味的なもので接点を見つけて、時々お姑さんと外出するように心掛けるならば、会話もはずみ楽しい時間もつくれる。夫のことで悩みがあったら相談もできるでしょう。笑顔を忘れず関心を向けて対話を心がければ必ず何とかなります。人生のやりなおしはできませんが出直すことはできるのです。
懺悔(さんげ)の功徳力を修証義では、「浄信一現するとき、自他同じく転ぜらるるなり、その利益あまねく情非情に蒙(こう)ぶらしむ」とあります。情非情とは、心有る者も心無き者もということです。 信とは「まかせる」という意味もあり、又「心をして清浄ならしむ」といわれているのに対して、不信とは「自をも穢す他をも穢す」というように、不信を抱くとは相互の「絆」を遮断してしまうのです。信があれば、理不尽なことを言われても「この人がこんなことを言うのには何か事情でもあるのだろう」と相手を慮ることができる。「私は正しい」といくら主張しても人間関係はうまくいきません。嫁姑に限らず、相手に自分を認めてもらい、評価してもらうには相手をまず受け入れ信じること、信用するにもされるにも「まかす」という信が必要ということになるでしょう。 嫁ぐとは、準備の整ったところに落ち着くということですが、「帰ぐ」も「とつぐ」と読む同意があります。南無釈迦牟尼仏の「南無」は自分と仏様とがひとつになってしまうことです。長い間一緒に暮らすと「親に似ずとも姑に似る」という言葉がありますがかみしめたいものです。 やさしい言葉は、たとえ簡単な言葉でも ずっとずっと心にこだまする。 マザ−テレサ
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