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平成10年4月20日の山形新聞「いま語る」欄に放送タレントで作家の永六輔さんのインタビュー記事が掲載されました。その抜粋です。
◎問 国会議員や社長たちの自殺をどう考えますか?
答 「自殺を無責任とは思いませんね。死ぬことによって決着するやり方は当然あるわけで、それを否定しちゃうと安楽死や尊厳死でも、ものが言えなくなっちゃう。パイプを外して下さい。薬を止めて下さいというのと同じです。そこにインフォームドコンセント(十分な説明と同意)、告知の問題が絡んできますが、問題は死んで他人に迷惑をかけないということです。自殺したホテルの部屋番号までテレビに映し出されて、あの部屋は当分商業価値がなくなるでしょ。自殺するなら誰にも迷惑がかからず、みんながよかった、よかったねという自殺をしてください」
◎問 明るい老後とは。
答 「老後に明るいとか理想的という形容詞を厚生省はつけたがるんですが、老後があかるいわけないでしょ。明るいというのは、精神的にも肉体的にもどうしよう、これをしようという未来の夢がいっぱいあることです。」「あるとすれば、浄土に行くという信仰、キリスト教なら天国に行くこと。あの世にいって救われると思い、それで死ぬのは怖くない、極楽往生という考えは依然としてある。他人に強制するものでないが・・」と進言している。リストラ、倒産で職を失った人々はどうすれば・・・の問いに。
「農業に帰るべきです。ものを植えて、育てて、実らせてという転換の中に人生を置くべきです。農民として目覚める生き方はこれから絶対に価値があります。田を耕す、漁業、山。日本の文化を守る仕事でもあります。」と・・・
「迷惑かけなければ死んだっていいじゃないか」という考えもあるようですが、誰にも迷惑のかからない死に方というのは存在するのでしょうか? 「安楽死」や「尊厳死」の受け止め方もいろいろありますが、延命治療を止めてもらうことと、自から命を絶つこととは違うと思う。例えば、アメリカでは患者の自己決定権法が制定され、患者の治療を選択する権利と治療を拒否する権利が保障され、回復する見込みの無い場合には積極的な延命治療を拒否する事例もある。この考えには基本的には私も同意します。経口摂取もできなくなり他に医療手段が無いような時、積極的な延命治療を断るというのは自殺ではなく、昔のおじいさんやおばあさん達がそうであったように命のままにまかせるという生き方に通じると考えるからです。
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| 鳴子峡 |
ところで、「安楽死」や「尊厳死」はオランダに続いてベルギ−でも施行されるといいますが、「安楽死」や「尊厳死」についてはいろいろな意見があります。
「人間の尊厳というが、回復の見込みがなく、下の世話をしてもらっていては、何が人間の尊厳なるものかと思う」(岐阜県会社員69歳毎日新聞)。下の世話をさせることになったら人間の尊厳がなくなるというようなものではないと思うが、「脳血管障害などの重篤な疾患のために、摂食のような基本的な機能も失われ、ただただそこで遺体となるまで生命維持装置によって長い日々を寝たきりで過ごしている状態」というのであれば、自然死法(苦痛を除く薬は別)を望む人も多いかもしれない。
心では生き続けてほしいと願いながらも、意識を失ったまま高度生命維持装置によって生き続けるために、次第に肉体的疲労と経済的重荷に打ちひしがれて、かつては思ってもみなかった感情を抱くような事態というのは、死にゆくものにとっても看取るものにつらく悲しいことです。その脳死の判定がはっきり確立されることになれば罪悪感なしに生命維持装置をはずすこともまたつらい現実となるでしょう。
私は、単に延命のための治療・与薬は望まない。ならばと、西行のように「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と詠んだように自身の願いがかなえばいいのですが、孫や甥姪が延命治療を望むことになるやもしれないし、自らも「・・・してもらいたい」という願望とは畢竟「自我」なるを考えると・・・「南無」なる「おまかせ」が一番自然なのかもしれない。
ある特別養護老人ホームのお医者さんが語っておられます。「寿命の最後に何もしなかったら一体どうなるかを医学は知らないのです。苦しまず静かにしぼんで乾いて最後を迎えるんですよ。それが「平穏死」です」と・・。老衰の生理学や死ときっちり向き合うということは今後の医療の課題といえるかもしれません。
ところで、「老後が明るいわけはない」というのは同感しかねます。断っておきますが、宗門では極楽往生思想を説いている訳ではありません。
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| 栗駒山 須川湖 |
人の身体の機能は、年齢とともに必然的に衰えてはいくけれども、感動する心は鈍ることなく、たくましく、且つしなやかになっていく面もあります。
お坊さんであり教育学者であった東井義雄先生も「雨の日は雨の日の 悲しみの日は悲しみの日の かけがえのない大切な人生がある」 とおっしゃっておられますし、内山興正老師の最晩年、見舞いに行ったお弟子さんに老師は「〇〇さん、年を取るということは良いことだよ。今まで自由に動いていた手足がなかなか言うことを聞いてくれなくなるし、耳も聞こえなくなるけれど、これでちゃんと生きているってことがよく実感できるんだよ」と語ってくれたそうです。自由とは自らに由ると書くように、由るべき自分を得ているのが自由ということでしょう。老師はまさに「この生死は仏の御いのちなり」を心平静に行じられている仏です。
老齢は山登りに似ている
登れば登るほど息切れするが、
視野はますます広くなる
映画監督 イングマール・ベルイマン
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「農業に帰るべきです」について−− 自然を相手に自然に合わせた生き方とは地に足のついた生き方といっていいでしょう。しかし、農業とは本来、種を蒔いて育てる、育つ迄「手入れ」をすることです。趣味として親しむ程度ならば誰でもできますが、農業から産業立国への政策転換が図られてからは減反奨励で休耕田が増加。アメリカ、カナダ、フランス、オーストラリアの自給率は100%を超えているというのに、日本の食料自給率は昭和36年当時には78%あったものが驚くべきことに40%近くにまでさがってしまった。食生活の変化により米の消費量が減っているのに、平成6年迄は農産物貿易自由化の中でも日本が譲れない聖域としてきた米も山形県産米の年間生産量の約二倍にあたる77万トンを玄米として輸入。農業政策面にしても食管制度の廃止、流通の規制緩和、長く続いている生産調整も変化し現場主体となるように求められて・・。
そして現今、水田農家の過半数は農業の展望が見えない変転政策の中での高齢化。あっちでもこっちでも後継者がないまま急速に高齢化が進む。このままでは農家の問題だけでなく日本の自然環境、治水、文化、食料事情、少子高齢化は農村問題だけではなく、やがて大きな課題を抱えることになるだろう。その、農業とは自然が相手ですから農作業も天候に左右される。雨が降れば作業は延期、台風などの自然災害でもその修復には想定外のことがおこる。その想定外も想定内と諦めることができるか・・。所得を考えての農林業はそんなに甘くはないのです。単純で楽どころか、腰がくの字に曲がりO脚になった脚で荷を運び耕作する老いた親たち。そんな老体を思いやることもできず農作業の多忙な時にサラリーマンの息子夫婦は子供連れでどこかに行ってしまう。それでも、「年取った親を山里に残して別居する他の息子よりよっぽど親孝行だ」「あでならね」「おらだ百姓に連休なて関係ないがらね」と妬まず憎まずとらわれず仕事に勤しめるかどうかが心すべきところとなる。農業経営もさることながら作物を育てること其のことに、喜び感謝ができるかどうかが肝心なところといえるでしょう。 畢竟、農業への転換の前に自分自身の転換ができるかです。
もっとも、「豊かな生き方」ができれば商業でよし、工業でよし、漁業でよし、何も農業に限ることではない。人生とは何かを得れば何かを失うものですが、豊かな生き方とは何かを失っても何かを得るものでしょう。都会のような文化娯楽設備はまことに少ない田舎ではあるが、近所の方たちから季節のものをいただいたり分けてあげたりしながらお茶をいただく山里の暮らしもなかなかいいものです。
「生老病死」は「仏のいのち」として教えを頂戴できれば、健やかな、老い方、病み方、死に方もあるということでしょう。生、老、病、死の反照によって生は輝き、いのちは躍動する。「老」とは、「どうせ」とか「しょせん」ということではない。本来「老熟・長老・老覚・老漢・老宿・老心・老師」の「老」とは人間的に熟達したという意味です。昔、偉い人を「老中」といい、もっと偉くなると「大老」と称していた如くです。
−− 若木だけの庭園よりも、たとえ朽ちかけていても一本の老木があるだけで、庭の重みというか深さというものが違う。又、茶室の花の活け方には、きれいな花だけではなく、咲き終わった花とか枯葉を残した枯れ枝や、わざわざ風折れの風情を表す活け方をする。まさにいろいろの人生をそれでよしとして活け込む。足腰が弱くなっても「年のせい」と割り切って、しわくちゃになるまで生きられたと喜ぶ心が「享年」の「享」、「いただく」ということでしょう。余命ではなく「与命」と受けとめ、いただいた命を一日一日精一杯生きたいものです。
「看華老不知(華を看るものは老いをしらず)」という禅語もあります。生きた分だけ悲しみも増えますが、今在る喜びをしっかり受け止める大肯定の花、「心華」を観ることができるからでしょう。本当の幸せとは、過去に起こったことでもなく、未来に起こることでもなく、今この瞬間のことです。人生にとって何が大切で、誰が大切なのかをしっかり見据えながら、「今」を昂然と生きていく生き方を「大老」というように拙僧は受け止めます。
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