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「証道歌」の中に「妄想を除かず真を求めず」また、「取捨(しゅしゃ)の心、巧偽(ぎょうぎ)と成る」とあります。真とは真如のことです。如とはあるがままのものを如というのです。仏さまのことを「如来」といいますが、如から来たから「如来」というのです。真如とは無我ですから実体がありません。見たりさわったりして確認することはできないのです。かなり修行の進んだ人でも、「真理を求めて、妄想を捨てる。妄をすてて真を求める」そうありがちです。
人は善と悪、清と濁、迷いと悟り、勝ちと負け、有と無という二極にこだわり、不幸を嫌って幸せを望みます。善と悪とは別なるものと思っています。しかし、「取捨の心、巧偽と成る」。つまり、間違いのない真理のつもりでいても真理を求めて、妄想を捨てるという取捨の見は選り好みであり一方への執着ですから我見・偏見となってしまうのです。信心銘にも「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)見(けん)を息(や)むべし」とあります。 蓮華は泥中にあって咲くが如く、煩悩をも抱き込んでかわいがってやる。煩悩を持ちながら、それに振り回されない為に執着をこそ減らすようにすれば心の光は輝き出すでしょう。
この見を梵動経、盆網62見経では62見あると説かれています。
ある時、釈尊が大衆と共に王舎城からナ−ランダに向かっているとき、遊行者でサンジャヤの弟子スッピヤとブラフマダッタが同じ道をお釈迦さまの後から歩んでいた。スッピヤは仏法僧をいろいろ罵倒していたが、ブラフマダッタは逆に仏法僧をたたえ尊んでいた。その夜は釈尊一行とスッピヤ師弟は同じ園に泊まる縁となった。スッピヤ師弟は相も変わらず罵倒と賞賛を続けた。あくる日、大衆がこのことについて話し合っているところへ釈尊が来られた。そして、大衆に向かって、「他の人々が仏法僧について罵倒したり賞賛したりしても、すぐに怒ったり喜んだりしてはいけない。罵倒に対してはそのわけを明らかにしてこれをしりぞけ、賞賛に対してはそれが正しく理由ある点を見てこれを更に精進せよ」 と教えられた。そして、その後に当時の婆羅門や一般思想界の見解を62見の説として示されたとあります。
「空」なる世界は「無我」とも示されます。それは、事物には固定的な実体は無いということです。その空なる事物に対して固執した見方を「我見」というのです。青メガネをかけていれば当然世界は青く見えますが我見の青メガネをかけていることに当人は気づきません。金持ちは金持ちの色メガネ、貧乏メガネ、医者メガネ、科学者メガネ、病人メガネ、男メガネに女メガネ。自分の我執のメガネで見てしまうのです。62見とは62通りのこのメガネをかけて眺めた自解偏見ですから、「我見偏執」(がけんへんしゅう)ともいいます。
世間では「私の目に狂いはない」という方もおられますが、既に、その狂いのないというメガネをかけていることに注意が必要でしょう。仏典に「一水四見」という教えがあり、道元禅師も「山水経」の中に引用されていますが、同じ水を、人間は水と見るが魚は金殿玉楼と見、天人は瓔珞と見、餓鬼は膿血と見る - - 同じものであってもそれぞれの見方によって違うわけです。
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「我見」とは「見込み」ということですから、いろいろな思想が起こります。
例えば「死んだら地獄が有るか無いか」というときにも偏見がおきる。偏見とは偏った見方、極端論です。「死んだら未来などない。死んだらそれでおしまい、この身体はゴミになるだけ!死んだら後は何もない!」などと死の一辺ににかたより、固執することは断見(だんけん)というのです。
一方、「自我は歴然としてある」など、生の一辺に偏り固執することを常見(じょうけん)と評されるのです。
身見があるとまた邪見(じゃけん)というものがおきます。「死んだらまた生まれ変わるんだ、その時に地獄にいかずにすむように天国に行けるように、仏さまに今からお賽銭をあげて拝んでおこう」とか「どうか今日の盗みがうまくいくように、盗った以上はどうか捕まりませんように、どうぞ大願成就せしめたまえ!」・・ そんな信心が正信心であるはずがないのです。
見取見(けんしゅけん)というのがあります。これは自分の知識経験の世界のみで見てしまう。自分の見方に固執する思い上がりのことです。これと反対であれば劣等感におちいる。劣等感に落ち込むことを仏教では卑下慢と称して、これも慢心の裏返しですからどちらも道にはずれた姿です。
それから戒禁取見(かいごんしゅけん)という見があります。つまり、この自分を天国に生まれさせたい。それにはどうしたらいいか。或いは、坐禅によって和尚に気に入られようとか、末は宗門の高ポストへなどと考えて坐禅をするのでは仏道ではありません。つまり、戒法を間違えてこれが本当の戒法だと思い込むことを戒禁取見といいます。
この身見、偏見、邪見、見取見、戒禁取見がおおまかな五見ですが、このほかに実に、いろいろな見をつくってしまうので、62見と示されるのです。金剛経には「肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼」の五つの眼をあげていますが、我々凡人の目が肉眼です。見にとらわれ、ものを正しく見る力を欠いているところの眼ということです。法眼であれば、「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)く見(けん)を息(や)むべし」となるでしょう。
道元禅師は「辨道話」の中で「仏道は、自他の見を忘じて行ずるなり」と示されます。常見でもなければ断見でもない見方捉え方というのは、妄想・執着を放下して仏さまにすっかりおまかせすればいいのです。「帰依」とか「南無」ということは、仏法に自分を投げ出し任せきっていくという意味になります。「我見」を投げだして仏法におまかせしていく。この仏道において少しも頭で混乱することなくしっくりと腹に入る境涯といいましょうか、どんな時でも、そのまま差し支えなくすんなりと受け止める。そのことを「非思量」「無念無想」というのです。「非思量」や「無念無想」とは頭がおかしくなってボーとした状態をいうのではありません。大きな矛盾であってもスッと受け入れられる境涯をいうのです。
昔、薬山弘道大師という人が坐禅をしていた。ある僧が、
「兀兀地(ごつごつち)何をか思量す」(意・坐って何を思量しているか)
師曰く。
「箇(こ)の不思量底を思量す」 (意・思量しないということを思量す)
僧曰く
「不思量底、如何(いかん)が思量す」(意・思量しないということを思量すとは何を思量するのか)
師曰く
「非思量」
「誤解」と「偏見」は違います。誤解とは事実をつきつければなくなります。「偏見」とはどんなに事実が誤っているかを事実で証明されても認めようとはしない。偏見(思考)は我見に因るし、差別(行動)も我見に因り行われるのです。同じように「頑固」と「頑迷」も違います。我見、旧見、我執の角が伸び、煩悩にまみれて真理に気づくことができない迷いを「頑迷」、或いは「無明」と呼ばれる。我見で我慢すれば我執となります。「見(けん)を息(や)む」ということは、「自分がいかに我見にとらわれているか」を自覚することといえます。鬼の心で見れば世間は鬼ばかりになるでしょうが、仏の心で見ればこの世の中はみんな仏さまばかりです。真理を見極める明なる智慧で是非の分別を棄てる。分別を棄てて我見・我執を離れたとき「法の人にあるときこれを仏という」となるでしょう。 非思量とは畢竟「只管打坐」の心ということになるでしょう。
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| 川原毛大湯滝 |
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