大般若について


 大般若経は、お釈迦さまが説かれたお経で、仏教の中心思想である一切皆空の理(ことわり)が述べられています。
 大般若会とは、『大般若経』六百巻を転読(てんどく)することによって、『般若経』の空(くう)の教えを体得し、すべての苦厄(くやく)を消しさって、内外の怨敵(おんてき)を退散(たいさん)させ、五穀豊穣や国家安寧(こっかあんねい)を祈念し人びとを幸福な生活にみちびいてゆくことを目的とした大法要です。


 この大般若会には本堂中央須弥壇上に十六善神様の掛軸をお祀りします。
まん中の仏さまはお釈迦さまで、お釈迦さまの右手前に、獅子にまたがっておられる仏さまは文殊菩薩、「三人寄れば文殊の智恵」といわれますように智恵を代表する仏さまです。左の方に、文殊菩薩と向き合って象に乗っておられる仏様は普賢菩薩です。文殊菩薩が仏様の智恵を代表するのに対して、普賢菩薩は仏さまの慈悲の象徴です。仏様の徳は悲智円満と申しまして、慈悲と智恵とを円満に備えておられるのです。その仏さまの徳を二人の菩薩さまがそれぞれ代表しておられるわけです。 次に、お釈迦さまの左右に八人づつ、剣や槍や斧などを持った恐ろしい顔をした方々が描かれておりますが、これは十六善神と申しまして大般若経を守護し、仏法を信ずる皆さまを護ってくださる方々のお姿です。このほか、やさしいお顔の法涌菩薩、泣き顔をした常啼菩薩、ともに大般若経に深い因縁のある菩薩さま方様です。

 それから一番前の方、向って右に、お経を沢山背負ったお坊さんがおられます。このお方が大般若経をインドから中国に持ち帰って、漢文に翻訳された有名な玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)です。玄奘三蔵法師と向き合って左の方に、シヤレコーベをネックレスのように首にぶらさげている赤鬼のような恐ろしい人がおりますが、これが深沙大王という悪魔の王様です。昔も昔、今から千年以上も前のこと、インドを天竺、中国を唐の国といった当時、唐の国からはるばる天竺に渡り、仏教を研究してお経をたずさえて帰る坊さんがあると聞くと、深沙大王は途中の砂漠に待ち伏せして、そのお坊さんを殺害し、仏教が外国に伝わることを妨害しておりました。ぶらさげたシャレコーベは、そうして殺したお坊さんの骸骨です。ところが玄奘三蔵法師が唐から天竺に渡り16年の間、仏教を研究し大般若経をはじめ、数多くのお経を持ち帰るとき、深沙大王は不思議にも悪心を捨てて善心を起こし、今までの悪魔が仏法の守護神にかわり、玄奘三蔵の一行を無事唐まで送り届けてくれたのです。そうした因縁により、深沙大王も仏法守護神の一員として祀られているのですが、この一事を以ってしても、大般若経の功徳力がいかに大きいものであるか、玄奘三蔵という人がいかに徳の高いお方であったかがわかります。


 私たちにになじみ深い『般若心経』も、玄奘三蔵法師が翻訳したとされています。みじかいお経の中に、仏教のエッセンスがこめられている『般若心経』にくらべるなら、『大般若経』六百巻は膨大です。大般若経は、数あるお経の中でも最もありがたい、霊験あらたかなお経であり、ご祈祷、ご祈願に読まれるのは当然のことなのですが、何しろ六百巻という膨大なものですから、ほかのお経のように一字一句を飛ばさずに読む真読というわけにはまいりません。そこで転読といって、偈文を唱えながら一巻一巻パラパラと転飜(てんぽん)し、導師様だけが金欄表装の部厚い経本を読誦されます。このお経は大般若経の第578巻目の理趣分といいます。このように理趣分を読み、その他は転読するというのが、昔から伝わる大般若会の儀式作法であります。
 僧侶がたは六百巻を分担して転読し、はじめに大きな声で「大般若波羅蜜多経巻第何々巻」、と唱え、経文を誦しつつ、左右と前に七回、パラパラと転飜し、最後に一回ずつ、また大きな声で「降伏一切大魔最勝成就」(一切の大魔を降伏すること最も勝れて成就せり)と喝破されますので、それにあわせて、皆さまのご祈念のことをおもい浮かべられ、悪趣の退散や諸願成就を念じられるとよいと思います。

 大般若経を転読する際に《諸法皆是因縁生。因縁生故無自性。無自性故無去来。無去来故無所得。無所得故畢竟空。畢竟空故是名般若波羅密、南無一切三宝、無量広大、発阿耨多羅三藐三菩提》 《大意 諸法は皆是れ因縁より生ず。因縁生の故に自性なし。自性なきが故に去来なし。去来なきが故に所得なし。所得なきが故に畢竟空なり。畢竟空なるが故にこれを般若波羅密と名付く 》と唱えます。
 大般若経にはこの《般若波羅密》が説かれてあり、これを煮詰めれば「般若心経」となり更に煮詰めれば先の呪文になるのです。更に密教的唱文として唱える文になると「ノウボバギャバテイ ハラジャハラミタエイ タニャタ シレイ シレイ シレイ シレイエイサイ ソワカ」となるのです。
 この世の中の一切の現象はみな因縁生、つまり因と縁により出来ており、すべては相依相関、持ちつ持たれつの関係にあって何一つとして独存無縁のものはないのです。従って、諸法は固定的不変の実体というものではなく、無去来とは刹那生滅の存在であり無所得・不可得ということです。この一切法の「空」を観ずることができるというのは「般若波羅密」の力であり、その力は一つの物の動きも、一人の人間のおこないにも深甚なる法力は無限にひろがってゆくのです。

 玄奘三蔵法師の約16年にわたるインドヘの大旅行は、のちに『西遊記』などの物語に編集されるほどに有名であります。
三蔵法師が長安を出てインドに向かったのは、貞観元年(627)といわれます。タクラマカン砂漠の北路をとり、ハミ−−トルファン−−カラシャル−−クッチャ−−タシュケント−−サマルカンド−−バーミアン(アフガニスタン)−−カーブル−−ガンダ−ラ−−カシュミール−−マトウラー−−カピラバストウ−−クシナガラ−−ベナレス−−ブッダガヤ−−ラージャグリハ−−ナーランダと歩みます。三蔵法師がインドのマカダ国に到着したのは633年長安を出発して、約6年の歳月が経っていました。
玄奘はナーランダ仏教大学に5年間滞在し、その後インド各地を旅します。そして、643年玄奘は帰国の途につきました。帰路は天山南路をとります。途中ホータンの国王は玄奘を篤くもてなし、しばらくここに滞在します。玄奘はここで唐の国王に上表文を書いて出しました。国禁を破って国外へ出たのであり、天子の許しを乞う必要があったのです。天子より「早く帰国せよ」との命。更に沿道の国々には玄奘をもてなすようとの勅命が出される破格の待遇でありました。貞観19年(645)玄奘は16年ぶりに長安の土を踏むことができました。玄奘は一躍大スターでありました。玄奘が持ち帰った経典は、大乗経224部、大乗論192部、小乗の経律論193部、因明論36部、声明論13部、合計520夾657部。他に多数の仏像や仏舎利などを持ち帰って長安の弘福寺に納められました。

 『西遊記』では玄奘三蔵がインドにお経を取りに行く物語でありますが、実際的には玄奘三蔵の生涯においては、中国に帰ってからの方が重要です。すなわち、持ち帰った経典の翻訳という大事な仕事に、彼は取り組んだのです。玄奘三蔵が翻訳した経典は「大般若経」600巻、「瑜伽師地論」100巻、「成唯識論」10巻、「大毘婆沙論」200巻、「倶舎論」30巻など、合計75部、1335巻に達する。この分量は、中国歴代の訳経総数の4分の1にあたり、いかに玄奘三蔵が偉大な翻訳者であったかがわかります。
 玄奘三蔵の翻訳で特筆すべきはなんといっても『大般若経』600巻の翻訳でありましょう。玄奘三蔵は、晩年の生命力のすべてをかけて顕慶5年(660)正月から翻訳に取り組みました。その翻訳には4年に近い年月がかかりました。途中を略したり、意味だけにせず、もとに書かれているとおりに訳したからです。この翻訳作業が完了するやいなや、長安の玉華寺で供養がおこなわれ、多くの不思議な瑞祥(めでたいできごと)がおこり、唐の高宗皇帝は、とくに『大般若経』へ序文を寄せました。このように、玄奘三蔵のほん訳が終わった時からすでに、人びとのあいだでこのお経に対する信仰が語られており、今に至る大般若会の原点が翻訳完了時にあったことがわかります。そして、翌麟徳元年(664)2月5日に玄奘三蔵は亡くなります。『大般若経』の翻訳は玄奘三蔵の最後の大事業であったのです。
 日本に伝えられたのは、7世紀の末頃のことと思われます。それは文武天皇の大宝三年(703)に薬師寺などで『大般若経』が読まれたという記録があるからです。とくに天皇や豪族たちが発願し、当時の高僧たちが転読するのですが、その目的が、怨霊(おんりょう)をしずめる、災厄をのがれる、疫病(えきびょう)をはらうといった、世俗的な苦悩からの離脱の方に重点があったことは否定できません。五穀豊穣や国家安寧(こっかあんねい)といったものよりも目立っていることが注目されます。これは、もともとの「大般若」の空の教えとは、ちょっとつながりがないように見えますが、空を空じる力と考え、「ありがたくないもの」を空じ、退散せしめる、ひとつの呪力(不思議な霊力)と考えているところは、いまの大般若会にいたるまで一貫しているといえます。このことは、また、『般若心経』が呪力をそなえた、ご祈祷のお経として、昔からずっと信仰されていることと同じであるといえましょう。

 664年2月5日の夜、弟子の一人が、「和尚さまは、かならずや弥勒菩薩さまの住まわれるトソツ天に生れかわられるでしょう」と声をかけると、玄奘は小さいながらもしっかりとした声で「生れよう」とこたえました。それは玄奘にとって、若いときからの願いでありました。夜もふけたころ、玄奘三蔵法師は63年の生涯をねむるようにして閉じました。国中の人びとがその死を悲しみ、数万人が参加して盛大なお葬式がいとなまれました。遺体ははじめ長安の郊外、白鹿原という場所に埋葬され、六年の後、別のところに移され、そこに興教寺というお寺がたてられました。興教寺には今でも弟子の、窮基・円測の墓にはさまれて、高さ12メートルの玄奘のお墓があります。またその遺骨はわけられて現在南京の玄武山と日本の埼玉県岩槻市の慈恩寺、奈良の薬師寺にもおまつりされています。
そのおしえの流れは、「法相宗」とよばれ日本の法隆寺や興福寺、薬師寺などで盛んに研究され、日本の仏教にも大きな影響をあたえました。

 玄奘三蔵というと、すぐに『西遊記』を想いだしますが、けっしてそれだけではないということ気づきます。

当寺大般若法要の転読



 日本に霊眠る玄奘三蔵法師平成12年12月9日山新夕刊掲載)
 山形市池野庄一郎78歳
 昭和十二(一九三七)年十一月二十三日、南京城中華門外で日本軍の高森部隊が、小高い丘の上から石棺を発見した。丁寧に据り起こしてみると石棺は、高僧玄奘三蔵法師のものと分かり、大要次の記録が記されていた。
「八八〇年黄巣の乱がありり、塔(墓)の危険を避けるため、長干の演化大師可政が長安より移しこの地に葬る。天聖丁卯(一〇二七)年二月五日、仏縁を同じくせる弟子、藤文遇ら数人の仏弟子たちの手により、はじめ南京天禧寺の東の丘に遷せしも、大明洪武十九(一三六八)年菩薩戒を受けたる弟子、黄福燈らの手により、寺の南の丘に再遷した。口比丘守仁謹誌す」。以上は当時の竜谷大学渡辺隆生氏訳。 頂骨副葬品はすべて時の南京政府(汪精衛)に奉納したところ、中国政府は感激し盛大な奉迎式典を執行し、城内の大礼堂草に安置。その後、昭和十八(一九四三)年十月十日、玄武山頂上に奉安、記念塔を建立し、今日に至っている。落慶式には日本側から重光葵大使や日本仏教協会長倉持秀峰氏等が参列した。 中国側では日本へ分骨を提案、倉持代表へ手渡された。そして東京・芝の増上寺に奉安されていたが、その後全日本仏教協会伝道部長の大島見道師が埼玉県岩槻市慈恩寺に、中国式の十三重塔を建立し、現在玄奘三蔵法師の霊は日本で安住の地を得、永眠しているのである。歴史は流れて、これらにかかわった人たちはすでに鬼籍に入り一人も残っていない。