公案 「達磨廓然の話」
だるまかくねん の わ

 挙す、梁の武帝、達磨大師に問う、如何(いか)なるか是れ聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)、磨云く・廓然無聖(かくねんむしょう)、帝云く、朕(ちん)に対する者は誰そ、磨云く、不識(ふしき) 帝契わず、遂に江を渡り、少林に至って面壁(めんぺき)九年

 頒云 廓然無聖来機逕庭 得非犯鼻而揮斤 失不廻頭而堕甑 寥寥冷坐少林 黙黙全提正令 秋清月転霜輪河淡斗垂夜柄 縄縄衣鉢付児孫 従此人天成薬病  頌(じゅ)に云く、廓然無聖(かくねんむしょう)、来機逕庭(らいきけいてい) 得は鼻を犯すに非ずして斤(きん)を揮(ふる)い 失(しつ)は頭を廻(めぐ)らさずして甑(そう)を堕す 寥寥(りょうりょう)として少林に冷坐(れいざ)し 黙黙として正令(しょうれい)を前提(ぜんてい)す 秋清うして月霜輪を転じ  河(か)淡(あわ)うして斗(と)、夜柄(やへい)を垂(た)る 縄縄(じょうじょう)として衣鉢児孫(えはつじそん)に付す
此れ従(よ)り人天薬病(にんてんやくへい)と成る



平成6年5月7日 再結制 長男善昭首座法戦式

 本則は、達磨大師と梁の武帝が、梁の都金陵、今の南京で会見したときの問答の一部を公案として挙げられたものです。『碧巌録』では第一則に掲げられ『従容録』では、「達磨廓然」と題し、一般に「達磨廓然の話」と呼んでいます。『従容録』は臨済系の『碧巌録』と殆んど同じ形式で編集され、内容は共に古則で、各則は示衆・本則・頌・着語・評唱の五部から成っています。かくて両者は「看話禅」「黙照禅」という形で代表せられる禅の二大潮流、禅門の双璧と並び称される宗侶参究の書です.

 ちなみに、看話禅とは、師家が修行者に公案を与え、公案を看せしむる禅のことをいいます。これを特に主張したのは大慧宗杲《(だいえしゅうこう)1091-1157》という禅匠です。大慧は、大悟を得るために公案を授け、大活現前の悟りを得るようにすすめたのです。ところが、このころ曹洞宗系の人に天童正覚和尚《諡号宏智(わんし)禅師1091-1157》という禅匠がありました。宏智禅師は大慧の看話禅に対して攻撃するのです。すなわち、悟りを得るために看話するのは第一義の禅ではない。修行と悟りを別と見て、悟りを待つ禅という意味で「待悟禅」と批評するのです。そして、自分はただ坐禅する。坐禅はそのまま本証妙修であり、只管打坐がそのまま悟りの境地であるからと「黙然霊照」の坐禅を説くのです。すると、大慧は、只黙然として枯れ木の如く坐するのは、何の活気もなき邪禅として「黙照枯坐」の禅として切磋琢磨し合ったのです。
 ところで、「看話禅」「黙照禅」は宗風の相違はあっても「道に南北の祖無し」で禅の究極においては同じことです。どちらであっても、我見であれば野狐禅といわれても仕方ありません。宏智禅師もこれから説明する「宏智頌古」を作っていますから中傷排撃していたわけではありません。晩年には両者とも大変親しい間柄であったと記されています。


 さて、その『従容録』(しょうようろく)というのは、宋の天童正覚和尚(諡号宏智禅師1091-1157)の頌古百則です.それは本則(公案の本題)と頌(公案の宗意を表すための偈)から成っています。それに元の万松行秀和尚が示衆と着語(自由な反語や辛辣な批評など活気に満ちた寸評)と評唱(本則や頌についての因縁由来を述べたもの)を加えて編集したものが『従容録』です。かつて道元禅師は「正法眼蔵坐禅箴」巻においてきわめて宏智禅師を賞揚し、その仏法を賛嘆されています。しかし、道元禅師の仏法は中国禅(宏智の黙照禅)とは同一とはいえないでしょう。むしろ宏智禅師の仏法をより深く明らかにされたものであるといえます。
 従来、宗門では立身に際して法戦式がとり行われます。この法戦式の問答の前に、修行僧の第一座の首座が『従容録』の一則をあらかじめ定め、本則を音高らかに朗々と読みあげるのです。私が随喜した最近の例をみれば、「達磨廓然の話」を選ぶ場合が多いようです。首座はその時、特に大声を発して「拳す」(コース)と叫んでから「梁の武帝達磨大師に問う・・・少林に至って面壁九年」と本則を読みあげ、次いで「頌あり、頌は開口の口頭に分付す」とつけ加える.すると弁事が「天童の覚和尚、頌に云く・・・」とおもむろに頌の文を読む慣例になっています

 ところで、ある晋山結制で、ある有識?和尚曰く「仏法がマニュアル化しては世も末だ!」。 差定もよく理解していない割には思い切った発言です。威儀即仏法を儀式行事だけとしか考えられない人は「肯心自ら許す」ということは容易ではないのでしょう。そういえば、一休禅師は81歳の時、勅によって京都・大徳寺の住持に命ぜられましたが、形式的な晋山式を嫌って香語を贈るだけだったといわれます。けれども、一休禅師は皇子として生まれながら私生児として母と共に宮中を追われ、京都安国寺で6歳にして出家されるのです。そして厳しい修行で培われた精神は、俗塵にまみれた宗教界や一般の人々への強烈な批判となったものでしょう。形式的なことを嫌ったということではなく、真実の仏道とは形式の行事などでは求められないと反発してとった行動なのではないかと思うのです。
 道元禅師は「行解倶に備わりて方(はじ)めて祖師と曰う」(永平広禄)と示されるように、その教えを身につけ、その力を生活の上、儀式の上に表していくという姿勢を「威儀即仏法」として修行するわけです。なればこそ、一挙手一投足が仏作仏行の仏道であり「如是」の法となるべきでしょう。「威儀」とは一般的に云えば「姿勢」です。姿勢の「姿」は目に見える実体そのもの。「勢」は実体から受け取る「感じ」です。人は相手の目に見える姿や、耳に聞こえる音声の調子などから、その人の気力やエネルギ−を感じ取るものです。それは、その人の真心、気迫、気力、人格そのものといえます。ですから、仏法のマニュアル化で、もしも末になるとしたら、それは ・・・ 個々の資質問題でしょう。


 さて、梁の武帝(464〜549)とは中国が南北朝と分かれた頃の、南朝の梁という国の初代皇帝で簫衍(しょうえん)です。もと道教信者でしたがそれにあきたらず武帝は深く佛教に帰依しました。又、光宅寺や開善寺などの大寺院を建立し、数十万の僧尼に供養し、即位19年目の普通元年(520)には宮中に戒壇を設け、恵約法師を戒師として迎え具足戒を受け、自ら袈裟を着け、経典を講じて「皇帝大菩薩」と称されます。武帝の長子も、父王に劣らぬ佛教信者でありました。いうなれば、梁国は佛法天子に統率された佛教王国であったのです。梁の武帝はこのように仏心天子といわれるほど、仏教のためには尽くした人でありました。このような佛教王国へ、菩提達磨大師が海路三年かかって広州の港へ着かれました。インドの香至国の王子で出家された禅の大師がはるばるおいでになるというので、武帝は最大の礼を尽くして迎えることとなり、いよいよ武帝と達磨大師の問答ということになります。


 この本則の説明に入る前に、この問答の前段についてふれておきます。
 『景徳伝灯録』などでは、梁の武帝が達磨大師に相見するや仏法興隆への感謝と讃嘆の言葉を捧げたのち自己紹介を含めてお尋ねするのです。
帝日く 「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を度すること、勝げて数うべからず、何の功徳かある」。 
師日く、「並に無功徳」。  
帝日く「何を以てか並に無功徳」。 
師日く「人天の小果、有漏の因、影の形に随うが如し。有りといえども実に非ず」。 
帝日く 「何をか真の功徳と謂う」。 
師日く「浄智妙明にして体自ら空寂なり、是の如きの功徳、世に於て求めず」 というのがそれであります。

 すなわち武帝は「自分は即位以来、多くの寺を建立し、多くの僧侶を育て、自らも持戒清浄につとめ仏法修行に精進しているが、はたしてどんな功徳があるのか」と問いかけます。普通ならば賞賛の言葉を惜しまないところであるでしょうが達磨さまはそっけなく「無功徳」、つまり「何の功徳もありゃあしないよ」と突き放すのです。色よい返事を期待していたであろう武帝はうろたえるのです。
 梁の武帝は、心のうちに何らかの善果を求めて善根功徳をされたのでしょうが、功徳だと思ってなされた功徳は、功徳にはなるまい。真実の功徳とは有限的なものでなく、永劫に不滅のものと見るのが達磨さまの思想です。ゆえに、梁の武帝のされたことは、人天の善果であって、比較上のことです。世間でいう福徳と呼ぶべきもので、絶対の功徳にはならないと看破して、「並びに無功徳」とお答えになったのでしょう。禅宗においては、この三字を「功徳無し」と訓読することをせず「無功徳(むくどく)」と音読する習わしになっています。しかして、無功徳の意味がわからない武帝は「それでは真の功徳とは何か」と問うのです。達磨さまは、「有所得の欲念を棄てて、浄智円妙なる佛性の本体を徹見し、空寂無相なる実相を証することであって、世間有漏の立場、 人天の小果では到底求めることができない」と諭すのです。

 武帝にとってはいきなり増上慢の鼻先をへし折られた思いだったでしょう。さすがに武帝もその非を悟ってか、姿勢を正し、あらためてお尋ねするのです。
 本則の第一の問いは「如何なるか是れ聖諦第一義」(しょうたいだいいちぎ)です。武帝は佛教の真義、仏法の根本とは何であるかを質問したのです。達磨さまのお答えはこれまた簡潔、「廓然無聖」(かくねんむしょう)。真の実相は、からりと晴れた青空のようなもので聖とか梵の分別は無く、からりと晴れわたった虚空のごとく、聖と名づけられるものさえないというのです。是非善悪損得のモノサシにこだわっているようではまだ佛道の聖者とは言えないという意味がこめられているのです。達磨さまは分別なし、無所得・無所悟の立場ですから比較論の尊さなどないのです。
 同じ仏教という立場でみれば大変な心境の相違があります。武帝はありがたいもの聖なるもの、善悪の概念で懸命に功徳を積み、仏道修行してきたところでしょうが、「廓然無聖」つまり「無」と言われては目指してきた目標は何だったのかを見失ってしまいます。かくて、武帝は「廓然無聖」の真意は理解できません。「無聖(むしょう)」を「聖者無し」ととらえたのでしょうか「朕に対する者は誰そ」【あなたこそ聖者ではありませんか。そうでなければ私に対しているあなたは誰であろうというのか】と低次元の質問をするのです。この反問に対する答えが「不識(ふしき)」です。不識は「知らず」の意味ではありません。不識の不は否定の言葉ではありません。一般的にいう「知らない」ということではないのです。不思量・非思量の不であり、「誰そ」という比較に対しての応答です。真実の表情を問われたことに対して、真実の表情を示されたものでしょう。したがって、「知らず」と読むのではなく「識にあらず」と読むべきでしょう。
 かくて、「聖諦第一義」はカラリとしてその聖さえもないところであると聞かされても、仏法に対する低次元の理解力しか持っていなかった武帝にとっては達磨さまとの佛縁はかないませんでした。「廓然無聖」とは尽大地一塵なき境地であり、鏡の如く塵も垢もそまない心といえます。これを、大円鏡智とも名付け自性清浄心とも呼ばれます。ただ、注意することは、心性とは鏡のように清浄なものであるとはいっても、鏡のような無自覚なものではならぬということでしょう。

達磨さまは揚子江を渡って嵩山少林寺に登り至って面壁することになるのです。

 次に頌であります。「廓然無聖(かくねんむしょう)、来機逕庭(らいきけいてい)、得は鼻(び)を犯すに非ずして斤(きん)を揮(ふるい)い、失は頭を廻らさずして甑(そう)を堕(だ)す」
 この文の「廓然無聖」の字義は先に述べたとおりで、達磨さまの言葉をそのまま持出して、本則の眼目を示しています。次の「来機逕庭」の機とは、機根のことで、対機説法などといわれるように、人そのもの、ここでは学人を指します。来機は、参じ来る人、すなわち梁の武帝を指しています。逕庭は隔たりのある意、達磨大師と武帝では大分隔たりがあるという意味。「得は鼻を犯すに非ずして斤を揮い」の文は『荘子』の徐無鬼篇に載る寓話からとったものと聞きます。
 荘子が葬送の帰途、従者に次のように語ったという。郢(えい)の国の人が、鼻頭に蝿の羽ほどの薄い白土を塗り、これを匠石という名人に斧で削らさせた。匠石は大きな斧(おの)をふりあげて郢人の鼻端の薄い白土を削り取った。郢(えい)人の鼻は少しも損傷していない。この文では匠石という名人を達磨大師に、郢人を武帝にたとえての評釈であります。
 次の「失は頭を廻(めぐ)らさずして甑(そう)を堕す」の文は『後漢書』の列伝からの文です.それは孟敏という青年が、大きな甑(かめ)を持って歩いていた時、その甑を過って地面に落して割ってしまった.孟敏は、そのまま振りかえりもせず歩いて行ってしまった。その様子を見ていた人が、普通ならば、誰でも困った様子をするのに、この男は少しも困った様子もない。そこで呼びとめて理由を聞いてみたら「こわれてしまったものは、いくら困ったところでどうにもならないでしょう」と答えたという。この文では、武帝との問答を破れた甑にたとえ、とても見込みがないと知った達磨さまは頭を廻(めぐ)らさずして、振りかえりもせず、さっさと長江を渡ってしまった様子を頌したものであります。


 次に、達磨さまの少林寺における面壁九年の消息を「蓼々(りょうりょう)として少林に冷坐し、黙々として正令を全提(ぜんてい)す」と頌しています。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。この達磨さまの境涯を、さらに言葉を換えて「秋清うして月霜輪を転じ、河(か)淡(あわ)うして斗(と)夜柄(やへい)を垂る」と述べています。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。また、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。
 そして「縄縄(じょうじょう)として衣鉢児孫(えはつじそん)に付す、此より人天薬病(にんてんやくへい)と成る」。縄縄は、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。衣鉢児孫に付すとは、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇,〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。廓然無聖、不識という妙薬は〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。それは、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇.


 「廓然無聖・不識」の話を永平寺2世孤雲懐奘禅師様は「此話ニ参ジテ脱落セバ、通身光明ナリ、遍界光明ナリ」と示されています。「廓然無聖・不識」の話とは、つまり頭で理解するものではないのです。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。

         達 磨 大 師 の 四 行 観
 仏道に入るには「理入」と「行入」を説くのです。「看話禅」と「黙照禅」といえば分かりやすいでしょうか。「一切衆生悉有仏性」「自他平等」を学び、分別心を起こさないのを「理入」というのであります。しかし「理入」だけでは実践がありませんから「行入」といって、四種の観法すなわち四行観を説くのです。 その第一を報寃行(ほうおんぎょう)といい、第二に随縁行(ずいえんぎょう)、第三に無所求行(むしょぐぎょう)、第四を称法行(しょうぼうぎょう)と示されます。

 第一の報寃行(ほうおんぎょう)とは、「この世は苦なり」のこの世界でありますが、前世、現世の因縁を寃(にく)まず、愚痴を言わず、信心の心を起こして仏道に励む行のことです。
 第二の随縁行(ずいえんぎょう)とは、「人生万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄の如し」人生では災いがいつ福の因になるかわからず、また福がいつ災いの因になるかわからないものです。この世を「浮き世」とはよく言い得ています。この泡のような露のような稲妻のような「浮き世」に任せながらとらわれない修行を「随縁行」というのであります。
 第三の無所求行(むしょぐぎょう)とは、求むる所なきの行ということです。四苦八苦の中にも「求不得苦」(ぐふとくく)といって、求める物が得られない苦しみというのがあります。生老病死は生き物の本性なのに、病のない世界や老いのない世界を求めても得られるはずがない。諸行無常と諸法無我を正しく見極められたとき「苦」から解放された世界が開けるのです。
 第四の称法行(しょうぼうぎょう)とは、法に称(かな)う行ということです。我見、我慢を出さず、取捨分別の心を起こさず自利利他の行となって、法がそのままあらわれるということです。「平常心是道」であり、なかなか実行の出来ることではありませんが、宗門の「威儀即仏法 作法是宗旨」が宗旨の真髄であり、それが称法行なのです。