道元禅師の略歴

 道元禅師(1200〜1253)は、内大臣久我通親(こがみちちか)を父【一説には通具】に、摂政関白藤原基房(ふじわらのもとふさ)の娘伊子(いし)を母として京都の宇治木幡の松殿山荘で生まれられました。通親は土御門天皇の外祖父として、「源博陸」(げんはくりく・博陸は関白の当名)と名称される名門中の名門でありました。母方も藤原一門、いずれの家系も名門中の名門である系譜だったにもかかわらず、不幸にも三歳にして(建仁2年・1202)父が亡くなり、以後、叔父である久我通具公に養育されました。そして、八歳で(承元元年・1207)母にも亡くなられるのです。幼少のうちに両親を失ったことは、世の無常を身にしみて感じ真実の道を求めて出家する大きな仏縁となったことでしょう。時勢は源平の勢力争い、それと絡んだ宮廷や公家たちの没落、鎌倉新幕府内の血を血であらう確執など、誠に無常の時代でありました。母を失った道元(幼名は文殊丸)は、母方の松殿家の養子となりますが、その寂しさから志が仏門に向かいます。幼くして抜群の秀才ぶりを発揮して、9歳の時には「倶舎論」(くしゃろん)という大人でも難解な仏教書を読破したと伝えられています。

 1212年(建暦2年)13歳の春、ついに出家求道を志し、比叡山にいる叔父の良顕を頼って横川の首楞厳院におもむき、般若谷の千光房に入ります。 翌13年(建保1)天台座主公円僧正(座主は延暦寺の住職のこと)について 剃髪し戒壇院で菩薩戒を受けて「道元」と安名されます。正式に仏門に入られた道元さまは勉学、修行に励まれ、天台宗の教学を修めます。教学の中心は本覚思想というものであります。本覚思想とは「我々は本来生まれながらにしてさとっている」或いは「我々はそのままでみな仏性をもっている」ということです。若い道元禅師ではありましたが本覚思想の矛盾に気がついたのです。それは「本来本法性、天然自性身と、若しかくの如くならば、則ち三世の諸仏なにに依ってか、更に発心して、菩提を求むるや」(大意−人間は誰でも生まれながらにしてすでに清浄で、もともと仏であるならば、なぜ祖師方は修行を重ねたのか。なぜに仏であるべきこの自分が迷っているのか)いうものです。この疑問を比叡山の高僧に尋ねて廻るのです。権威有る人から説明を受けると何となく分かったような気になるものですが、道元禅師は心から満足できる本当の生き方とは何かという大問題に解決がつかず比叡山での修行に見切りをつけられて山を下りるのです。又、当時の比叡山は開祖伝教大師の想いを忘れて権力闘争に明け暮れ、僧兵を有して朝廷への強訴を繰り返すなどの世俗化に失望したこともあったのでしょう。真実の道を求めて三井寺座主公胤僧正を訊ねて、中国の禅宗が盛んなことを聞いて胸をときめかせるのです。公胤僧正の勧めもあって道元さまは建仁寺の栄西禅師(1141〜1195)の門に投じられるのですが、栄西禅師は高齢の為にまもなく亡くなられます。後中国で真実の仏法を学ぶことを決意するのです。

 1217年秋、建仁寺に赴いて栄西禅師をたづねますが、その年の7月に75才で没してしまい門下の高弟明全和尚(1184〜1225)に師事します。建仁寺において学んでいる22歳の時、承久の乱がおこり、後鳥羽・順徳上皇は佐渡に、土御門天皇は阿波に配流されたのです。京にあってこれを見聞していた道元さまにとって、人間の意味、仏法の意味を深く問うていたことでしょう。明全和尚は既に一門の宗将の立場にあり上皇様に菩薩戒を授けられるほどの高僧でありましたが、真実の自己発見の道念篤く、正師を求めて1223年(貞応2)24歳の時に道元さまと共に入宋するのです。
 浙江省の港で上陸許可を待つ間に阿育王山の老典座との出会いがありました。 その後、天童山景徳寺に赴いて臨済宗の無際了派禅師のもとで禅を学びます。同年秋には阿育王山広利寺や台州の万年寺に赴くなど五山十刹という大寺院の諸師を遍歴するのですが、これぞ自分の師と思える正師にめぐり会えず半ば失望していました。そんな頃、行脚の途上で天童山の無際了派禅師が遷化され、新住持如浄禅師の名声を聞くに及び、26歳の時に半信半疑ながらも望みをいだいて再び天童寺に帰錫して如浄禅師に参じるのです。
 如浄禅師にはじめてお目にかかったときの感動を、「まのあたり先師をみる、これ人にあふなり」と正法眼蔵(行持の巻)にありますが、魚が水を得た如く精進されるのです。如浄禅師の法燈は名利や権勢を避け、世俗的な栄誉を求めず真の坐禅修行をする理想の正師でありました。道元禅師が如浄禅師の傍をはなれず、すべてを学び取ろうと入室聞法された記録が「宝慶記」という著書であります。この「宝慶記」の冒頭には、禅師が参問の許可を願われたところ、如浄禅師は「これよりは、昼夜の時候にかかわらず、袈裟をかけようとかけまいと、いつでも仏道の質問を、父親がわが子の無礼を許すように許可しよう」と認められるのです。それは、まさに如浄禅師にとっても、正法を嗣続せしめるにふさわしい仏子を得た思いであったのでありましょう。道元禅師も充実した日々を過ごされておられましたが、この間に、一緒に渡航した明全和尚が病で亡くなるという深い悲しみにであいますが、道元禅師はますます修行に励まれるのでした。道元禅師は昼夜無間の入室問法の精進をつづけること数ヶ月、ある日の早暁坐禅の時、一人の僧がいねむりをした。これを見た如浄禅師は「参禅は身心脱落である。いねむりするとは何事だ」と叱責した。この時に道元禅師は、今までのわだかまりや疑念がすべて解消したことを、辨道話に「一生の参学の大事ここに畢(おわ)りぬ」と述べられています。ついに身心脱落の境地を得て嗣書をさずかり印可を受けることになります。如浄禅師に師事して3年余、1227年(安貞1)道元禅師28歳の時、弘法利生を念じつつ、遂に帰朝することになります。
 


 帰国してまずしばらくは建仁寺に身を寄せられます。お世話になった明全和尚のお骨を納めなければならぬということもあったのでしょう。 嘉禄三年秋に帰ってこられますが同年12月に安貞と改元されます。この短い期間に道元禅師は如浄禅師から受け継いでこられた釈尊正伝の仏法は坐禅こそ正門であり然も大安楽の法門であるとして『普勧坐禅儀』を著わされます。『普勧』とはあまねく坐禅をすすめるということは、坐禅の宗旨、坐禅を基盤とする教えをこれからひろめていこうという立教開宗の宣言のようなものです。

 真実の自己を確立するには文字にとらわれた学問ではなく、坐禅の修行に励め、只管打坐の坐禅によって悟りの境地を開き、真実のすがたを見極めることができると説かれました。ところで、建仁寺は栄西禅師が没して15年経った山内の風紀はかなり変化していた。同じ禅とはいえ道元禅師はどうしても譲れないというものがあったのでしょう。「錫を建仁寺にとどむること一両三年」とありますが、約2,3年後でしょうか禅師31才の1230年(寛喜2)建仁寺を去って深草の安養院に赴きます。 そして主著『正法眼蔵』第一巻「弁道話」をお書きになられました。このことを考えますと道元禅を学ぶにはまず『普勧坐禅儀』と「弁道話」は大変重要な著述であるという認識が必要であろうと思います。道元禅師はさらに末法思想や念仏や祈祷などをするどく指摘しながら著述を進められます。1234年(文暦1)冬に大日能忍門下・日本達磨宗の俊才、懐奘(えじょう)が道元禅師をおとずれます。禅師は歓喜して入室を許されるのでありました。やがて極楽寺の一部であった深草の観音導利院を中心に一寺を建立し、1236年(嘉禎2年)我が国における最初の正式な坐禅道を持つ観音導利興聖宝林禅寺が落成します。 教団が形成されるにつれて、1237年(嘉禎3)春に『典座教訓』を著して、深草の興聖寺教団の修行生活を規正し正法を興隆します。懐奘禅師のすすめがあったのでしょうか、同門下の義介(ぎかい)、義尹(ぎいん)、義演(ぎえん)などが相次いで集団入門をなされましたので道元禅師の深草教団はつとに充実しました。
 「坐禅こそ釈尊のお悟りの根本であり、誰でも正しく仏法を得られる唯一の法門である」という宣言と共に、男女の差別や身分の差別などを否定されました。道元禅師が女性解放の先達といわれる所以です。そのために天台衆徒など旧仏教各派からの圧迫が激しくなります。


 道元禅師は44才の前後、自分が伝えた禅宗こそ国家護持のための正法であることを力説した『護国正法義』を著しますが、比叡山側はそれに対する非難を朝廷に訴え、朝廷もその言い分を認めたので道元禅師に対する天台宗徒の弾圧は更に激化することになります。またこの頃、興聖寺のすぐ目の前に臨済宗東福寺が開かれます。道元禅師は弾圧を避けるためと、また波多野義重公の切なる拝請と諸条件が揃っていたのでしょう、禅師44歳の寛元元年(1243)錫を突如として越前の山中に移されます。越前の太守波多野義重の要請によったものです。こうして、寛元2年、越前志比庄に大仏寺を開山。 1246年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改められます。
 翌年、執権北条時頼の懇請を受けて一時鎌倉におもむきますが、半年後の49歳の時には再び越前に戻られます。この頃になると、永平寺僧団のありかたと今後を案じはじめていたのでしょう。著述の整理や叢林規矩の再検討などに努力されておられたようです。

 そうしたなかで、建長2年(1250)、御嵯峨院は禅師の徳風を慕い、勅使を永平寺に使わし紫衣を賜わりました。禅師は再度固辞したのですが、勅使三度に及んだことから、礼を失うに至るを懸念されこれを拝受されます。しかし、紫衣は一生高閣に蔵めて用いることはなかったといわれます。
 道元禅師五十三歳、健康がすぐれず、翌年正月には「正法眼蔵八大人覚」を説法しています。禅師は自己の入滅を予感してのことであったのでしょう。京都の波多野義重公からも、上洛療養の勧めも再三あったことから、1253年(建長5)7月後事を孤雲懐奘に譲り、永平寺を徹通義介に託し、懐奘を伴って上洛の途につかれました。入洛してからは病勢にわかに進み、八月二十八日夜半、俗弟子覚念邸に於いて永遠の眠りについたのであります。道元禅師の遺偈は「五十四年、第一天を照らす。箇のぼっちょうを打(だ)して、大千を触破す。い、渾身著處無く、活きながら黄泉に陥(ゆ)く」(略意:54年の人生大千世界を照らす 善悪、好悪を超越して宇宙と一体となり 今身寂するところには執着することなく 生きる歩調も黄泉にいく歩調も同じである) の偈を残して五十四年の実に偉大な生涯を閉じられたのです。嘉永七年(1854)孝明天皇から「仏性伝東国師(ぶっしょうでんとうこくし)という諡名(おくりな)をいただき、明治天皇から「承陽大師(じょうようだいし)と勅諡されます。曹洞宗においては高祖と称し、高祖承陽大師とお呼びしています。

 著作に『正法眼蔵』95巻、『永平広録』10巻『普勧坐禅儀』、『宝慶記』、『典座教訓』、『学道用心集』、『赴粥飯法』、『永平清規』、『対大己法』、『正法眼蔵随聞記』などがあります。
 「道元禅師は鎌倉時代を代表する偉大な宗教家であると同時に、日本人として稀有な大思想家でもある」と、宗教に心得ある学者は評価されるようです。異論はありませんが、付け加えるならば「正法眼蔵」は思想書ではなく「仏道修行の実践的指導書」すなわち、真実の信仰の経典として拝受すべきでありましょう。