孤雲懐奘大和尚は道元禅師の弟子であり、大本山永平寺の二世様です。師の言行を忠実に記した「正法眼蔵随聞記」が有名です。私事ですが学生の頃「正法眼蔵」をかじりましたが、とてもとても私ごときものの世界ではないと思いこみ「正法眼蔵」は遠い存在でした。しかしこの「正法眼蔵随聞記」は注釈もよかったこともありますが、これによって、遠方にあると思った「正法眼蔵」がだんだん身近に感じる機縁になったことは事実です。鈍根劣器の私にとって「正法眼蔵随聞記」のいたるところに示される叱咤激励の道元禅師の言葉に幾度も励まされました。それを2、3あげてみますと、
「先聖、必ずしも金骨にあらず、古人豈(あ)に皆上器ならんや」 「道を得ることは根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべきなり。ただ精進と懈怠(けだい)とによりて得道の遅速あり。進怠の不同は志の到ると到らざるとなり」 「人々皆仏性有るなり、徒らに卑下する事なかれ」 「もしこの心有らん人は、下知劣根をも云わず、愚鈍悪人をも謂はず、必ず悟道すべきなり」 ・・・
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孤雲懐奘大和尚は、公家の出身で、九条為通の子であります。小さい時に比叡山に登り、18歳の時に横川で出家し、長じて学僧として有名になりました。比叡山で修行中のあるとき、母親のもとへ戻って来たら、この母親が実に立派な人で、「おまえをお坊さまにしたのは、有名な学者にするためではない。黒衣の非人として、菅笠をかぶって、往来をはだしで歩いてゆくようなお坊さまになって欲しいと思って、出家させたのだ」と言ったと伝えられています。一般的な母親であれば、名声を馳せる地位をもらったりすれば、その喜びをかくしきれず、近所にも「皆さんのおかげで!おかげさまで」と知らせ喜び、心中自慢したくなるはずでありましょう。ところがこの母はそうではありませんでした。無所得の禅の奥義ともいうべき示唆を与えたというのです。懐奘さまは深く自らを恥じ、この時の言葉は生涯片時も忘れなかったといいます。
世間で「偉い・立派」といわれる人物の裏には必ずと言っていいほど母の力があるものです。母の力とは表には出ないものですが不思議にそうなんです。
さて、孤雲懐奘は18歳で出家し比叡山で学び、24歳の頃、浄土宗西山派の証空に浄土教学を学びます。26歳の頃、日本達磨宗の大日能仁に就いて禅を学び印可、つまり、悟ったという証明をもらいました。その頃道元禅師は中国から帰って来て建仁寺にとどまっていました。すでに、すぐれた禅僧が宋から帰ってきたという噂も高くなっていました。このとき懐奘さまは、「自分は浄土の教えも聞いている。天台の教えも知っている。禅のことも知っている。最近、新しく帰朝した道元という天才僧がいるそうだがたいしたことはあるまい」と、きっと意気盛ん!・・に建仁寺の道元禅師を訪ね、法戦を挑んだのは1228年(安貞2)でありました。道元禅師の方が自分より二つ年下であり、何ということもなかろうということでいろいろ問答をしかけるのであります。
最初は懐奘の「見性成仏・見性霊知」について道元禅師も相づちを談じたので懐奘もこれをおおいに歓喜するのです。ところで、道元禅師は見性成仏とか見性とかの瞑想、観想はしりぞけられています。三日目ごろから道元禅師は異解をあらわすようになったと言うのです。それに対して、いくら懐奘和尚ががんばっても道元禅師の所見にはかなわないのです。懐奘和尚は自己の所見の非なることを知らされ自らもそれを認めざるを得なくなり、弟子にしてほしいと願いますが、道元禅師は建仁寺に仮寓の身であり後日来るようにと約束をするのです。そして、6年後に深草の草庵の禅師を尋ねられることになるのです。道元禅師は歓喜してこれを許し懐奘は弟子となるのです。しかも道元禅師に信頼されて侍者になります。侍者というのは、身のまわりのお世話をする役目です。
程無くして正規の僧堂、興聖寺が建立されますが、懐奘が首座(しゅそ)に任じられます。首座とは禅寺の第一座であり、時に住持に変わって説法もするという大役です。そして、懐奘和尚が道元禅師に参じて以後4、5年にわたって師から聞いた言葉を筆録したのが「正法眼蔵随聞記」となるのです。懐奘和尚は何でも知っていて記憶力も抜群でありました、師匠のことばは一言一句全部覚えていたからこそ「正法眼蔵随聞記」というすばらしい本ができたのです。
「学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず」
「学道の人、もし悟りを得ても、今は至極と思うて行道を罷る事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし」
「学道の人は、後日を待って行道せんと思う事なかれ。ただ今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべきなり」
「学道の人、参師聞法の時、能々窮めて聞き、重ねて決定すべし。問ふべきを問はず、言ふべきを言わずして過ごしなば、我が損なるべし」
「学道の人は、人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法を順じ行ずるなり」
「学道の人、世間の人に、知者もの知りとしられては無用なり」
「学人は必ずしも死ぬべき事を思うべし」
「学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし」
「学道の人は、尤も貧なるべし」
「学人、人の施しを受けて悦ぶ事なかれ。またうけざる事なかれ」
などなど ・・・
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懐奘和尚にとっては「学道の人」「学人」ということを一般的な修行僧ということだけでなしに、師の道元禅師が自分自身を戒めてくださっているようにも受け止められるその言葉に、より緊張し戦慄さえ感じたのではないでしょうか。さらに、道元禅師の「正法眼蔵」の草案を整理・書写されるのです。
天台宗衆徒の弾圧を避け、興聖寺を離れて越前に入り、白山天台の古寺を転々とするのですが、厳寒の中で弟子を率い、半年間に「正法眼蔵」を20巻も著しているのです。懐奘和尚の助力がなければできることではなかったかもしれません。孤雲懐奘禅師がもっとも高く評価されるところは、この道元禅師の著作を後世に伝えるために渾身の努力をされたことでもあるのです。現在の正法眼蔵のほとんどは懐奘和尚の筆写によるといわれます。もしも、孤雲懐奘禅師の誠実で真摯な努力がなかったならば、「正法眼蔵」の著述も今日まで伝わらなかったかもしれません。
正法眼蔵95巻の最後は「八大人覚」の巻ですが、巻尾に「建長五年正月六日書于永平寺」とあります。道元禅師が遷化されたのは同年八月二十八日でありましたから、実に病が悪化する中での起草です。前記に続いて「所以に此御草等、先師最後の教勅也、我等不幸にして而も一百巻の御草を拝見したてまつらず、最も恨むるところ也。若し、先師を恋慕し奉るの人は、この巻を必書して而も之を護持すべし。此釈尊最後の教勅、且つ先師最後の遺教也。 懐奘之を記す」(原漢文)と記されます。道元禅師にとりまして懐奘和尚は実にすばらしい侍者であり助手であります。
孤雲懐奘和尚は師の道元禅師より2歳年長であり、又、道元禅師に参じる前には八宗に通じた求道者でありました。さらに懐奘さまは先に記したように名門の出であり、名刹栄達が可能であったにもかかわらず清貧に徹し、道元禅師の学識と人格にまみえて、終生師のもとで研鑽を積まれるのです。そして師遷化後も孤雲懐奘大和尚は、方丈に特別にこしらえたお仏壇に禅師の頂相を掲げ、朝夕の挨拶も生前と変わりなく師の侍者として生前同様仕えられたと伝えられています。弘安三年(1280)8月24日に81歳で遷化されましたが、臨終に際しての遺偈は
八十三年夢幻(むげん)の如し 一生の罪犯(ざいぼん)弥天(やてん)を覆う
而今足下(ここんそっか)無糸に去る 虚空(こくう)を蹈翻(とうばん)して地泉(ちせん)に没す
(大意−生涯は夢幻のようである。犯した罪は天を覆うが如く。しかし今、足元には一本の糸すら張られていない虚空をやすやすと踏み進んであの世に没す)
当時の時代環境では、83歳という長命自体が日頃の精進ぶりをうかがえます。そして、終始道元禅師に仕え、師亡きあとも無私の精神をつらぬきます。にもかかわらず「自分の生涯は犯した罪を覆うがごとくである」と遺偈されるのであります。国会の証言台に立っても「知りません」「存じません」「証言を拒否させていただきます」と平気でうそぶく人達に爪の垢を煎じて飲ませたいものです。
孤雲懐奘大和尚は自分の為に特別に法要を営むことのないように、先師の忌日のために行う八日間の仏事の中の一日の回向にあずかろうと、その期間中の死を願い、望み通りになったといわれます。懐奘大和尚は、臨終に際し「わが忌日には、先師道元禅師の墓前に向かって香華を供え、お経を読むこと」と「自分のお骨は先師道元禅師の墓の侍者の位置に納めるよう」と言い遺されたのです。
これほどまでに、偉大な弟子に絶対的な信奉心をおこさせた道元禅師の尊大さに胸を打たれます。
永平高祖道元禅師が孤雲懐奘和尚を得られたことは、正法眼蔵の著述において最大の法幸と言われています。更に懐奘禅師は、さきに記した「正法眼蔵随聞記」の他「光明蔵三昧」を著述されておられます。この「光明蔵三昧」の奥書に、弘安元年八月二十八日懐奘謹記とあります。これは懐奘禅師示寂の二年前に当たります。この記述は門下の為にこれだけは伝え残さなければならないという懐奘禅師の遺言書でもあろうと思います。
その「光明蔵三昧」の最後の一節には「門下入室ノ人ニアラズバ、見セシムルコトナカレ」とありますが、この一節はお釈迦さまの「天上天我唯我独尊」と同様に排他的・独善的なものではありません。「門下入室ノ人ニアラズバ、見セシムルコトナカレ・・」 のあとに 「是自行化他ニオイテ、邪僻の見アラザラシメジトノ護法ノ一片心ナリ」 との記述には門下の児孫に対する老婆心が疼かずにおられなかったであろうことが推察されます。永平寺二祖孤雲懐奘大和尚様の「光明蔵三昧」は宗門最高の法宝であるといえます。
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