我慢は良いことではありません

 言葉と言うのは長く使われている間に変転してしまうことがあります。「覚悟」とは悟りを開くという意味なのでしょうが、一般的には「観念する」、つまり望みを失う・あきらめるというような意味に使われています。「我慢」も「腹が立ったら五分間我慢をしろというように辛抱や忍耐という良い意味で使われています。
 ところが、仏教語の「我慢」とは「おごりたかぶること・自分を偉いと思い他人をばかにする」という意味がありますから、我慢しているというのは自分の思いを素直に表現できずに自分の心を偽っていることになり、イライラや怒りを溜め膨らませる要因になります。怒りは抑え我慢して消えるようなものではありません。仏教で説く煩悩の最大の根元とは三毒という名を持つ『貪瞋痴(とんじんち)』貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)です。この煩悩を詳しく示せば、貪瞋痴慢疑悪見です。1.貪(とん)2.瞋(じん)3.痴(ち)4.慢(まん)5.疑(ぎ)6.悪見(あくけん)とは1,(むさぼり)2.(いかり)3.(おろかさ)4.(のぼせ・おもいあがり)5.(うたがい)6.(あやまった見方)です。
この、4番目の「慢」をさらに分類すると

 1.高慢(自分の方が上だと思う)
 2.過慢(同上とほぼ同義)
 3.慢過慢(相手が上であっても同等だと思う)
 4.我慢(自分の考えは正しいという思いあがり)
 5.増上慢(悟った、極意を得たという思い上がり)
 6.卑下慢(劣等感に落ち込む)
 7.邪慢(自分には徳があると思いこむ)  の七種です。

 「仏性を見んとおもはば、まずすべからく我慢を除くべし」という龍樹尊者の言葉のように、我慢というのは、自己の我(が)にとらわれる思いこみのこと。劣等感に落ち込むことを卑下慢と称しますが、これは高慢の裏返しですからどちらも道からはずれます。

 仏教では六波羅蜜(ろくはらみつ)といって、迷いの此の岸を去って悟りの岸(彼岸)に至らしめる六つの方法を示されます。
 1.布施(めぐみ)
 2.持戒(つつしみ)
 3.忍辱(しのび)
 4.精進(はげみ)
 5.禅定(しずけさ)
 6.智慧(ちえ)の六つの実践、が「中道」といわれるものです。

 3番目の忍辱(にんにく)の忍はしのび耐えること。 この忍辱はいわゆる我慢とは違います。歯をくいしばって私は我慢をしているというような我慢ならば忍辱とは違います。忍辱とは、怒りやすい自分の心を治める行、お互いの考えの違いを受け入れることです。「我慢」とは、争うのはイヤだからと何も言わないでおいても自分がスッキリするものでもなく、「気にしない」と思っても相手の言動にとらわれていれば心の中ではガマンできない。そんな自分の感情、自分の信念で勝手に腹を立てイライラしてしまうのです。

ご縁ですから他の枝末の煩悩といわれる、貪瞋痴慢疑悪見について簡単に説明しておきます。

1.貪(とん)とはむさぼりのことで、「貪欲」には「欲貪」(動物的欲望)と色貪(物資的欲望)無色貪(精神的欲望)の三種で説明されます。所謂、好ましい対象への愛着から「足ることを知らず」むさぼる心です。この枝末の煩悩として、1.慳(けち・もの惜しみ) 2.僑(おごり) 3.掉挙(心騒がしい) 4.誑(嘘・ごまかし) 5.諂(罪のごまかし)と分類されます。欲望も人生には大切なものですが、「足を知る欲」と「際限のない欲」とでは全く違います。釈尊は「無欲」ではなく「向上心」の自覚を持つ「少欲」を説かれています。

2.瞋(じん)とは、不快な対象へのとらわれで目をつり上げて怒ること。1.忿(相手に対する心の怒り) 2.恨(恨みの持続) 3.悩(自分に対する心の怒り) 4.嫉(ねたみ) 5.害(同情心がない)に分類されます。貪は「好ましいものへのこだわり」であり、瞋(じん)は不快な対象へのこだわりですから、貪と瞋とは表裏です。
 「遺教経」の中に「瞋恚(しんい)の害はもろもろの善法を破り、地位や名声までもこわす。瞋心の害は猛火よりもはなはだし」、と示されます。 「我を捨てろ」とか「我を張るな」とかのこの「我」とは「小我」といいます。「我」とは自分全体のことではありません。自分全体を「我」というのであれば捨てられる道理がありません。「小我」というのは、自分の知識や経験によってこれこそ絶対という勝手な凝り固まった思いこみのことです。

3.痴(ち)は真理に対する無知、つまりおろかさです。1.覆(自己弁護) 2.?沈(心の不適応) 3.不信(信じられない) 4.睡眠(やる気なし) 5.悪作(後悔)に分類されます。
 愚痴とは智慧がなく真実の道理をわきまえないこと。痴は、やまいだれの中に知がありますから、智慧がはたらいていないということでしょうが、本来の字はやまいだれの中に疑という字ですから、真実の道理を理解することができない「おばかさん」ということです。

4.慢(まん) 前に説明したところです。類する言葉として「がんばる」「頑張る」を辞典で調べますと、@我を張る、Aある場所を少しも動こうとしない、B苦しさに負けずに努力する、等があります。相手の立場に立てずに自説を絶対に引っ込めないのが我を張るということでしょう。Bは努力ですから良いほうに解釈しがちです。しかし、自我を自覚しないと自我なる努力で「難儀がる」努力になってしまうでしょう。

5.疑(ぎ)これは一般的に言う疑いとは違います。世には悪い企てをする人もいますので、よく確かめるという意味の心得は必要でしょうが、ここでの疑というのはそれと違います。正法(仏の教え)を疑うということです。つまり、正しい教えであっても話を聞こうとしない、正しいのかもしれないけれども、そうゆう「たてまえ」は私には関係ない。ああでもない、こうでもないと自分の信念に不満な結論は出そうとしない疑義のことです。

6.悪見(あくけん)あやまったものの見方です。この見(けん)には62見があるといいます。
 大きくわけて、1.有身見(感覚や経験を正しいと思いこむ) 2.辺執見(死後や霊魂のあるなしなど断定できないことにこだわる) 3.邪見(縁起の理を否定する) 4.見取見(自分の見方に固執する) 5.戒禁取見(きまり、観念にこだわる)
 「信心銘」という経典では、「真を求むることを用(もち)いざれ、唯須(ただすべから)く見(けん)を息(や)むべし」と示されます。教えで説く「我」とは、自分の都合、自分流でしか見聞できない知恵のことです。自負心のつもりでも高慢であったり、勧善懲悪も「我」なる信念にかたよるならば正義をふり廻すことになる。「智慧」とは、自分のために、自分を自由に表現して生きる、無我の知恵なのです。
 金持ちは金持ちの色眼鏡、貧乏は貧乏眼鏡、病人眼鏡に不安色眼鏡と、いろいろな眼鏡を掛けながらも自覚が無いまま錯覚しているものです。その眼鏡のことを「見(けん)」というのです。 自らに恥じない人、他人を陥れて自分は優雅な生活をし豪華な飾りを着けながら、それが手錠に変わっても恥じることのない人を無慚無愧の人というのです。染汚した我、その我に気づかない心が我の慢です。無我というのはおもいあがった自我がすてられほとけにまかせられていること、苦難を堪え忍ぶにも「自我」の堪忍袋に入れるのではなく、「空性」なる仏の堪忍袋に入れるのです。「我慢せよ」とは「我の自制」と受け止めて「我慢」すべきでしょう。
 「投げられたところで起きる小法師かな」という句があります。小法師とは起きあがり小法師のことでダルマ様のことです。ここはいや、これはイヤ等という「わがまま」にとらわれず、「今、ここ」を我が道場としての「心の据わり」をつかみたいものです。