五観の偈 
秋田県 元滝 平成17年夏

「威儀即仏法 作法是宗旨」の宗門では食事も大切な修行です。道元禅師の著述に「典座教訓」(てんぞきょうくん)という、食事を作る人の心得が書かれたものと、「赴粥飯法」(ふしゅくはんぽう)という食事の心得が書かれたものがあります。この中で示されている心とは、「一粒の米、一滴の水をも大切に扱いなさい」ということです。
 「一粒の米でも目の玉を扱うが如く大切に扱えよ」ということは、一粒の米であっても遍(あまね)くこの世界の真実実体であり、法界のおおいなる恵みと多くの人の労苦であるから、それらのことに想いを致しなさいということです。
 近年、にわかに「食育」が叫ばれています。刑務所でも「食事に満足すれば気持ちが安定してけんかも起きにくい」と監獄則制定も見直されて摂取カロリーも規定量が定められて、今ではいわゆる「くさい飯」は無くなったようです。食生活は生きる為の基本行為ですからここがいいかげんならば安定した心も体もつくれないでしょう。「いただく」ということを知らず、偏食で味覚が崩れ本来の食材の味を見失えば栄養バランスだけでなく自己管理さえも崩れてしまうでしょう。
 食育の基本とは「何を食うか」ではなく「どういただくか」です。
 食事のお経(五観の偈)を抜粋して説明してみます。

一つには功の多少を計り、かの来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つにはおのれか徳行の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず.
三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗とす.
四つにはまさに良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり.
五つには成道(じょうどう)のための故に今この食を受く.

上分三宝。中分四恩。下及六道。皆同供養。
(じょうぶんさんぼう、ちゅうぶんしおん、げぎゅうろくどう、かいどうくよう)

一口為断一切悪。二口為修一切善。
(いっくいだんいっさいあく、にくいしゅいっさいぜん)
三口為度諸衆生。皆共成仏道。

(さんくいどしょしゅじょう、かいぐじょうぶつどう)


 一つには、大自然の恵みと多くの人々の労苦があったことを思い感謝していただきます。
 お金を出せば「食権利」は当然と思っているようでは、ス−パ−に並ぶ鶏肉牛肉をモノとしかみないでしょうから其の「いのち」は見えません。 昔から「ご飯をこぼすと目がつぶれるぞ」と教えられました。昔は炊事にしても火を熾すにしろ水を得るにせよ大変な労力がかかる故にもったいなさも感じられたでしょう。しかし、現代は、そのようなことは「当然」になっています。けれども、「あたりまえ」にはもったいないとか有り難いという念もなくなってしまうのです。
 二つには、この食事をいただくにふさわしい行ないをしているかどうか反省していただきます。
 「百丈清規」(ひゃくじょうしんぎ)といって禅院が創設され、日常生活の基準に至るまで規矩を制定された百丈懐海(えかい)禅師は94歳の天寿を全うされるのですが、九十の坂を越す年齢になられても清規の実践は欠かさなかったようです。若い修行僧も老僧も皆で作業することを普請作務(ふしんさむ)といいますが、懐海禅師も自ら作業道具をとって作務をなされていました。ある日、老僧に対するいたわりの気持ちから禅師の用具をかくして休息されるようまわりの人達が心配りをしたのです。しかし、この老大和尚、自分の道具が無いと知ると食事を拒否されます。理由をお尋ねすると、「一日作(な)さざれば一日食(く)らわず」という有名な言葉が返ってきました。「食うために働くのか、働くためにいただくのか」を考えると、仏行の為にいただくなら「仏飯」となり、パチンコに行くために食うなら「パチンコ飯」となるでしょう。
 三つには、好き嫌いせず味わっていただくことは、「むさぼり、いかり、ねたみ」の三毒(貪瞋癡)をおさえることですから、修養の心をもっていただきます。
 
体の中に入るだけで不調の原因となる化学的な毒や細菌などの生物学的な毒や物理的な毒があります。これらの毒には誰しも気をつけるでしょうが、心の毒には気づいている人は少ない気がします。けれども、この心意の毒はいろいろな不調をもたらします。108煩悩ともいわれる煩悩の中で、貪り怒り愚痴の三毒は根源的な煩悩として示されます。美味いからと貪り、まずいといっては怒り、感謝がなければ愚痴となる。三毒の根源とは、智慧が無く無明なる迷いの世界です。
 四つには、健康な体と心を保つために良薬としていただきます。
 インスタント食品やスナック菓子などで「カロリ−過多で栄養不良」、或いは「やせ」願望にとらわれての偏食では崩食です。栄養素には体内貯蔵も合成もできないものがあります。アミノ酸・ビタミン・ミネラルなどの「必須栄養素」といわれるものです。これらは相互作用しあい、不足すれば代謝異常となります。例えば、冬でもないのに「寒い」と訴える女子学生の食事形態は・・「食事を作るのも、食べるのも面倒!おなかがすいたらスナックを食べればOK!週に一度はドカ食いするけど・・」。その結果、生理不順やイライラに気力喪失など、若い世代でも更年期障害のような複合リスク状態。人は体温の維持や心肺活動、生活活動に必要な栄養素が不足すると基礎代謝が落ち体温も下がり「寒い」となります。冷えは万病の元、体温が下がれば自然治癒力も激減し、むくみ、アレルギ−、生理不順、慢性疲労症候群などあらゆる病気の元になります。
 五つには、円満な人格形成(仏の道を成ずるため)の為にいただきます。
 「死の四重奏」とか「シンドロ−ムX」とか「メタボリックシンドロ−ム」とかいわれている病名があります。一言で言うと、糖尿病と高脂血症と高血圧が重なる複合リスク症候群のことです。心筋梗塞や脳梗塞などにつながるこわい病気です。現代病を受けてかどうかわかりませんが、あるテレビ広告では、「◯◯◯という薬を食事の時に飲めば、いくら食べても◯◯◯が脂肪を吸収して体外に排出してくれるから、これからは好きなものを遠慮する必要がありません!」・・。 凡夫というのは、「嫌いなものを避け、結局好きなものだけを追っかけたがるもの」との教示は戒めとしたいもの。

上分三宝(じょうぶんさんぼう)。中分四恩(ちゅうぶんしおん)。下及六道(げぎゅうろくどう)。皆同供養(かいどうくよう)。
一口為断一切悪(いっくいだんいっさいあく)。二口為修一切善(にくいしゅいっさいぜん)。三口為度諸衆生(さんくいどしょしゅじょう)。皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)

 今いただこうとしている食事の功徳を、上は仏・法・僧の三宝に分かち、中は天地(国王)の恩、父母の恩、衆生の恩、三宝の恩に分かち、下は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に及ぶすべてのものにも同じように供養致します。
一口にはすべての悪を断つために
二口にはすべての善を修めるために
三口には生きとし生けるすべての衆生を救う為に、そして、ともどもに仏の道にそった円満な日暮しが出来るように。


 「赴粥飯法」(ふしゅくはんぽう)には、食事作法が事細かに記されています。一般的にも当てはまることを抜粋しますと、「食器についた物を鉢刷でこすって食べたり、お替わりを心待ちして唾を飲み込んではいけない。頭を掻いてフケを食器に落としてはいけない。体を揺らしたり、肘を立てたり、あくびをしたり、或いは鼻をかんで音を立てたりしない。もし、くしゃみが出そうになったら、手で鼻を覆いなさい。また歯につまった物を取る時は、必ず手で口を覆いなさい。おかずを噛んだカスや果物などのタネは、食器の後ろの蔭に置いて、隣の者が見て嫌な思いをしないようにする。隣の人の食器の中に余った食べ物や果実があって、それを譲られても受け取ってはいけない」など
 僧堂での食事作法は、どうしてこんな細かなことまで決められているのか、と思うほどきびしいところがあります。この作法を道元禅師は「法等食等」と示されます。食の教えが本当に身に備わるというと、すべての縁を大事にできるし感謝の日暮らしができるようになる。そうであれば、きびしい食事作法もこなせるはずだし、食事作法が正しくできれば、仏の作法も身につくということになるでしょう。本山の料理は簡素ですが作法通りにいただく食事はありがたいものです。更に、禅門の食作法の最後には、自分の食器を坐禅のままの姿勢で丁寧に洗い清め、そのお湯も飲むことになっているのですが、それも全部は飲まずに見えない世界の霊にも供養していくという作法があります。食を粗略に扱うようでは仏道の成就はありえないのです。
 人とは努力や精進よりも気ままに過ごしたいという気持ちは誰にでもあるでしょう。ハタ目を気にしないで、気楽に過ごすことはいかにも自由で快適に思うでしょうが、宗門での食事とは飯(めし)を食うのではなくご飯をいただくのです。
 日常の食事であっても、ご飯をいただく時には一口口にしたところで「ああ、うまい」と小声でいう。イライラしながら食事をしていたら全然おいしくない。「うまい」「おいしい」といえばおいしくいただけるものです。塩味が足りなければ「うまい」の後に穏やかに言えばいい。畢竟、料理をおいしくするのもまずくするのもしょせんは自分次第です。食事には合掌して「いただきます」「ごちそうさま」と念じたいものです。

元滝 平成16年秋撮影