花祭り

 四月八日は仏教を開かれたお釈迦さまのお誕生日の「花まつり」です。
 當寺におきましても、本尊様の前に花御堂をお飾りいたしますので、お釈迦さまの可愛いお姿に甘茶をかけてお詣りすることができます。

 お釈迦さまは今から二千五百年ほど前、インドの北にあるカビラ国の王子として、シュドーダナを父君に、マーヤ夫人を母君として百花咲き乱れるルンビニー園(現在のネパール国マナスル山より西南150q)の無憂樹の元でご誕生になりました。いいつたえによりますと、お釈迦さまのお誕生をお祝いした天の神々、梵天、帝釈天が、甘露をそそいでお身体を清められたという因縁にもとずいて、降誕会には甘茶をかけるのです。
 1995年2月、このルンビニー園のマヤ堂の直下から、インド統一の最初の王朝であるマウリア期のお釈迦さま誕生にかかわる複数の構造物や石板等が発見されました。これを受けて1996年2月4日、ネパール政府はこれによって、ルンビニのマヤ堂をお釈迦さま生誕の神聖な聖地であることを正式に認めた事を広く世界に発表しました。昔からそうであったものと思っていましたが、お釈迦さまを敬愛する我々仏教徒は、このことの意義をあらためて喜びますと共に一層啓蒙していかなければと思います。

 さて、お釈迦さまはお生まれになると七歩歩かれ、右手で天を左手で地を指さして「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)と申されたと伝えられます。このことは、お釈迦さまがお悟りを開かれたその仏教の旗印と考えてさしつかえありません。この「天上天下唯我独尊」は「天にも地にもただ我一人尊し」というような独善的な意味ではありません。又、禅語に「随処に主となれば、立処みな真なり」という言葉もありますが、これもずいぶん我の強い主張だと解釈する人がいます。けれども、自分だけがえらいんだと思うことは高慢とか傲慢ということでそれらとは根本的に違います。人間とは威厳ぶって本当の威厳を欠くことがあります。威厳ぶる我を自覚し、その我を放棄したところが「随処に主となる」ということです。仏の教えは「ナンバーワン」になることを示すものではなく「オンリーワン」を教示するのです。「自分がここにこうして生きている」この絶対的な自己の価値を自覚し、他人と比較する花ではなく、自分の花をさかせること。「自分ならでは」「自分にしかできない」生き方を目指す教えなのです。

 「天上天下唯我独尊」や「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という教えも、道元禅師のお言葉を借りれば「人人の分上にゆたかにそなわれり」ということであり、誰にでもそなわっているところの「仏性」を示されるのです。私共はそれぞれ顔かたちも違い、得意不得意の個性や能力の差というものはありますけれども、その根元的なところを見るならば、すべての人がもっている人間の尊厳性、人間の絶対性というものは同一なんだと示されるのです。
 けれども、「ゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず」ということですから、その真実の自己に気づきそれを磨き出さなくては「宝の持ち腐れ」というものです。いかにすばらしいものを持っていても、それに気づき(発心)修行しなければ無きに等しいことです。
 どのように磨き、どのように修すればいいのか・・。道元禅師は「もし人一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(弁道話) 身口意の三業といって、心に思い、口で話し、身で行うすべての行為を示しますが、仏の教えにしたがって坐禅をするときには天地宇宙全体が仏の悟りの世界となると示されます。先ほどの「一切衆生悉有仏性」のあとに「如来常住無有変易」という言葉があります。如来とは仏性のことであり、仏性とは誰にでもそなわっている。その「仏性」を妄想が壊してしまうことに気づかなければなりません。


み仏のお顔は清き満月のよう 限りなき日の輝くよう
み光は十方を照し玉う 慈悲あまねく喜捨限りなく


 これは「歎仏会法式」というお経の中で、限りなきみ仏のみ心を讃えまつる」文を意訳したものです。古来から「花まつり」は降誕会、仏生会、灌仏会などと言われて、日本人に親しまれてきた仏教行事です。花を見て怒る人はありません。花は清も誇らず、香も誇らず無心に咲くから誰が見ても美しいのです。同じように人も自ずから笑顔の花を咲かせると必ず返ってくる。笑顔は笑顔を生みます。自ずから与えると必ず入ってくる、これは幸せの法則です。花まつりは、人生の華をお示し下された釈尊の誕生をお祝いし感謝祈念すべき日であります。
 皆様もぜひ近くのお寺様に参詣なさって、2500年前のお釈迦さまの誕生をたたえるとともに、釈尊の教えを心静かに受けとめられてはいかがでしょうか