正法眼蔵八大人覚
多欲の人は苦悩もまた多し

 諸佛はこれ大人なり。大人の覚知(かくち)するところ、所依に八大人覚(はちだいにんがく)と称するなり。此の法を覚知するは、涅槃(ねはん)の因(いん)たり。我が本師釈迦牟尼佛、入涅槃の夜、最後の所説なり。

玉簾の滝 八幡町

 「八大人覚」とは、お釈迦さまのご遺言ともいうべき最後に説かれた遺教経の根幹であり、最高最大の幸福であり涅槃に入る八つの仏則のことです。八つの仏則とは、少欲、知足、寂静を楽しむ。勤めて精進する。不妄念、禅定を修す、智慧を修む、不戯論のことです。この遺教経は昔から非常に大切なお経とされています。
 八大人覚の最後には「如今、建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書写し畢(おわ)り同じく之を一校せしむ、右本は先師最後御病中の御草なり、・・・若し先師を恋慕し奉る人は必ず此の巻を書して之れを護持すべし。此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教なり。懐奘(えじょう)之を記す」と懷弉禅師(えじょうぜんじ)の註がついているように、お釈迦さま入涅槃の夜の最後の教えであり、また、道元禅師最後の垂誡であることが記されています。道元禅師はこの八大人覚で「如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修習せず、しらざらんは仏弟子にあらず。」とまで仰せられます。

 本文冒頭には「諸仏はこれ大人なり」とありますが、八大人覚とは読んで字の如く、大人として悟り知るべき八つのことという意味で、生きるということの最善目標として示されています。
こういう狙いで八大人覚を学んでみたいと思います。

一つには少欲。かの未得の五欲の法のなかにおいて、広く追求(ついぐ)せず。名づけて少欲となす。佛のたまはく。汝等比丘(なんだちびく)、まさに知るべし。多欲の人は多く利を求むるが故に、苦悩もまた多し。少欲の人は求めなく欲なければ、則ちこの患(うれい)なし。直ちに少欲すら、なほまさに修習すべし。いかにいはんや少欲のよく諸の功徳を生づるをや。少欲の人は則ち、謡曲(でんごく)して以て人の意を求むることなし。またまた諸根のために牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)するところなし。事に触れて余りあり。常に足らざることなし。少欲ある者は即ち涅槃あり、これを少欲となづく。
二つには知足。已得(いとく)の法の中、受取(じゅしゅ)、限りを以てす。称して知足といふ。佛のたまはく。汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富楽安穏の処なり。知足の人は地上に臥すといへども、なほ、安楽なりとす。不知足の者は天堂に処すといへども、また意(こころ)にかなはず。不知足の者は富めりといへども而も貧しし。知足の人は貧しといへども而も富めり。不知足の者は常に五欲のために牽(ひ)かれて、知足の者のために憐怒(れんみん)せらる。これを知足と名づく。

 「少欲、知足」とは、在家出家を問わず人間の欲を戒めた教えです。未得の欲とは、まだもらっていないこと。まだもらわぬうちの欲を戒めたのが少欲で、もらってからの欲を戒めたのが知足です。
  「天堂に住してもこころかなわず」という言葉があります。これは財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲(怠け心)の五欲にとりつかれて心乱しているという意味です。道元禅師は「かの未得の五欲の法の中において、広く追求せず。名づけて少欲となす」と示されます。仏教では決して無欲、禁欲、断欲といったように一方に偏った考えではなく、中道の立場からの発想ですから、恵まれた生活は結構なのですが、恵まれていないから結構ではないということでもない。欲を多く求めるのも道に違うが欲を目の敵にしてもいけない。相撲でも8勝7敗ならば勝ち越しということを考えても、私は人生60%ぐらいでもいいかなと感じている。そういう意味ではあまり恵まれない生活であっても、また結構だといえる。「多欲の人は利をもとめるが故に苦悩もまた多し」と示されるように、欲にとらわれず、欲を自制する「願」を「少欲」と示されていると思っています。

 「財に恵まれていない立場での少欲とはどのようなものか」というような質問がありました。ここのところの解釈は誤解を生みやすいところですが、「少欲の人は、すなわち、世の中にいうへつらい曲げてまで人のこころを求むることなし」(遺教経)と示され、道元禅師も「むさぼらずというは、よのなかにいふへつらわざるなり」(正法眼蔵菩提薩た四摂法)と示されておられます。「少欲」の人は、出世したいというような強欲がないから、へつらいやおべっかをして、人の歓心を買う必要もなく、心中に憂いや畏れるところがなくなるということでしょう。へつらいやおべっかを使っての強欲さではなく、より高次の欲(誓願)を持つべきといえるのではないでしょうか。大般若経の魔事品の中に「行あって願なきものは菩薩の魔事なり」ということがあります。

三つには楽寂静(ぎょうじゃくじょう)。諸のかい閙(にょう)を離れ、空間に独処す。楽寂静と名づく.佛のたまはく。汝等比丘、寂静、無為、安楽を求むことは、当にかいにょうを離れて独処間居すべし。静処の人は帝釈諸天、共に敬重する所なり。是の故に当に己衆佗衆を捨てて空間に独処して苦本を滅せんことを思ふべし。「若し衆を楽ふ者は則ち衆悩を受く。たとへば大樹ノ衆鳥これに集まれば則ち枯折のうれひあるがごとし。世間は縛若して衆苦に没す。たとへば、老象の泥に溺れて自ら出ずること能はざるがごとし。是を遠離と名づく。」
四つには勤精進(ごんしょうじん)。諸の善法に於て、勤修無間、故に精進と云ふ。精にして雑らず、進んで退かず。佛のたまはく。汝等比丘、若し勤め、精進すれば、則ち事として難き者なし。是の故に汝等まさに勤め精進すべし。たとへば少水も常に流るれば、則ち能く石を穿(うが)つが如し。若し行者の心しばしば懈廃(げはい)すれば、たとへば火を鑽(き)るに未だ熱からずして、而も息(や)めば、火を得んと欲すといへども、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく。
 世の中のすがたは「一犬影に吠ゆれば万犬吠ゆ」また「狂人走れば不狂人も走る」という言葉がありますが、一人の者がいいかげんな思惑をいいふらすと、多くの人々が、それを本当のことのようにいいふらします。それは真実というよりも推測がそうさせるのです。それは「他人の知らぬことを俺は知っている」という優越感を味わう意味もあり、先走る凡人の心がそうさせるのでしょう。これらが重なって世の中の憶測喧噪を引き起こす。対して「維摩の一黙」という示唆があります。維摩という仏教に通じた居士が、くだらぬ問いには黙して語らなかった姿こそがすべてを語っているという意味です。黙の表す事実に多くの真実を知ることは寂静心です。
  「精進」とは「水滴石をうがつがごとし」で一滴の水が石に穴をあけるように、精を出して頑張れば為さざるなしということです。しかし、がんばれば良いというものでもない。行を運ぶ願がなければ「誓願」ではなく「魔事願」となってしまう。仏法では「仏道のために精進するを精進波羅密という」(龍樹尊者)ととらえ、道元禅師も「精にして雑らず、進んで退かず」と示されますが、一切の善法において勤修しておこたらないという意味があるのです。

五つには不忘念(ふもうねん)。また守正念と名づく。法を守って失せず。名づけて正念と為す、また不忘念と名づく.佛のたまはく。汝等比丘、善知識を求め、善護助(ぜんごじょ)を求むることは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有るものは、諸の煩悩の賊、すなはち入ることあたはず。是の故に汝等、常にまさに念を摂(おさ)めて、心に在くべし。若し念を失する者はすなはち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば五欲の賊中に入るといへども、為に害せられず。たとへば鎧を著(き)て陣に入れば、すなほち畏(おそ)るるところ無きが如し。是を不忘念と名づく。

六つには修禅定(しゅぜんじょう)、法に任して乱れず、名づけて禅定といふ.佛のたまはく。汝等比丘、若し心を摂(おさ)むる者は心すなはち定に在り。心定に在るが故によく世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常にまさに精進して、諸の定を修習すべし。若し、定を得る者は心すなほち散ぜず。たとへば水を惜しむの家は善く提塘(ていとう)を治するがごとし。行者もまた爾(しか)なり。智慧の水の為の故に善く禅定を修して、漏失せざらしむ。是れを名づけて定と為す。
2月、積雪が綿のようです

 「より良く生きたい」「より幸福な生活を送りたい」ということは誰もが考え望むことです。では「幸福」とはいったいなんでしょう。
 人それぞれの「幸福論」があるにしても自他共に笑顔で暮らすことができる。これは金銭、財物にかかわりなく「日々是好日」の生活にほかなりません。そのような呼吸を調える心を養うには良き師を得ることが大事です。
 又、良き友と交友を保つには、自ずから心きよらかに、邪心や猜疑心の念を持たず、純粋な気持に対する思いが必要と示されます。この心が「正念」といわれるものです。不忘念とは正念を忘れないということ。正法を守って失せず、実物を見失わないということです。
 具体的に仏教の教えに照らし合わせると「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)、法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」という四誓願でこれが仏教の修行理念です。誰にでも「こうありたい」という願いはあるものですが、「こうありたい」と思う気持ちが強すぎると視野は狭くなりイライラや不満など心の余裕が失われます。そんな時こそ、四誓願文のような御守りの言葉は腹の据え方に役にたってくれます。又、この誓願をもって生きるのは「願生の菩薩」といい、仏法を知らないのを「業生の凡夫」というのです。
 
 正念を忘れないためには、いつでも心が安定した状態を保たなければなりません。これを禅定といいます。 また禅定という意味をもっている別の言葉に梵語で「サマーデイ」これを「三摩地」(さんまじ)と音写し、意味をとって「心一境」「等持」ともいいます。つまり、禅定とは「定まる」「静かに慮る」「心をおさめてあらゆるものを等しく見る」という意味です。 「若し心を摂(おさ)むる者は心すなわち定にあり」とありますが、坐禅の接心という言葉はこの「心を摂むる」摂心からきているようです。
 さらには、坐禅に限らず、念仏、唱題など、そのものに成りきる。あるいは、その心に到達するための一つの方法(手段)です。これを三味といい、又「正定」とか「定力」とも示します。

七つには修智慧(しゅうちえ)。聞思修証を起すを智慧となす。
佛のたまはく。汝等比丘、若し智慧有ればすなはち貪著なし。常に自ら省察して失すること有らしめざれ。是れすなはち我が法の中に於て能く解脱を得。若ししからざる者は既に道人にあらず。又白衣にあらず。名づくる所なし。実智慧はすなはち是れ老病死海を度る堅牢の船なり。また是れ無明黒暗の大明燈なり。一切病者の良薬なり。煩悩の樹を伐る利斧(りふ)なり。是の故に汝等、まさに聞思修の慧を以て而も自ら増益すべし。若し人、智慧の照(しょう)有れば、是れ肉眼なりといへども、而も是れ明見の人なり。是れを智慧と名づく。

八つには不戯論(ふけろん)。証して分別を離るるを不戯論と名づく。実相を究尽す。すなはち不戯論なり。佛のたまはく。汝等比丘、若し種種の戯論は其の心すなはち乱る。復た出家すといへども、猶ほ未だ脱することを得ず。是の故に比丘、まさに急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば唯だまさに善く戯論の患(とが)を滅すべし。是を不戯論と名づく。

 仏教で言う智慧は知識とか知性とは違います。今日いわれる「知恵」は、人間の計らいであり、欲望充足を最高価値とする奪い取る知識、如来の「智慧」は、与える知識です。「得は迷い、損は悟り」と言われるところのものです。聞思修証とは、本当の智慧というものは小人、凡人の考えからは出てこない。だからこそ仏法の話しをよく聞いて、正しく大切なものであれば実際に行ってみる。これを聞思修というのです。表面的な、ざれごとや、妄言にまどわされることなく、己れ自身の心の寂まりを深めて行くことの大切さを説いているのです。
 「若し人、智慧の照(しょう)有れば、是れ肉眼なりといへども、而も是れ明見の人なり。是れを智慧と名づく。」と本文は結んでいます。

 戯論(けろん)というのは限りあるこの命をいたずらに過ごしてしまうことです。小人や凡人は愚図らずにおられないような癖がついているものです。大人はというと八大人覚の知性をいっぱい働かせて実相をしっかり見極め、愚図らずにしっかり生きるということでしょう。坐禅はこの不戯論を行ずる根本です。
 人生の本当の狙いは大人になること。「大人の精神」とは「少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論」であると肝に銘じておきたいものです。
 道元禅師には「草の庵に寝てもさめても祈ること、我より先に人を度(わた)さん」という「願」がありますが、これは四弘誓願の第一「衆生無辺誓願度」です。我々の心というものには、しっかりとした目標がなければいけない。「願」がなければどこに落ち着くのやら取りつくしまもなく安心もない。「安心」ということは「願」がはっきり確定しているということがいえるでしょう。
 「八大人覚」最後は、「如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖(しゅくじき)善根のちからなり。いま習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん」と結んでおられます。

蔵王の樹氷

 本当の大人の覚するところ。これが八大人覚であり、菩薩道としての根本が六波羅蜜といわれるものでさよう。八大人覚は、少欲、知足、楽寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論であり、六波羅蜜は、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。また菩薩とは、後に大乗仏教が興ってからの表現で仏法としての誓願に生きるほんとうの大人ということ。八大人覚も六波羅蜜も、詰まるところ同じようなことと思いますが、ただ時代が違うのです。八大人覚はお釈迦さまの遺言だから最も古い教えになります。この頃の仏教の根本は何より自分が自分になるということでした。「自己の依りどころは自己のみなり」「他に依止することなかれ」これが仏法の根本姿勢で、八大人覚も「自己ぎりの自己」ということが一番の根本です。ところが時代が移って大乗仏教が興ったころは、自分だけ山の中に入っておればいいという時代ではなくなってきます。人とつきあうことも大切になってきた。人とつきあい、社会生活をしながら、しかもそれぐるみ自己ぎりの自己でなければならぬ、というふうに変化するのです。そうなると、少欲知足とはむさぼらない心としての実践行である布施ということになる。「楽寂静」は「持戒、忍辱」としてあらわれる。「楽寂静」は、人とつきあっても自分を乱さない。世間のやかましいところで生活しながらも、戒律を守って怒ったりイラついたりしないということです。不忘念の「智慧」でも、八大人覚の智慧と六波羅蜜の智慧とは少し違っています。六波羅蜜では一切空という表現をしている。その「一切空」が「不忘念」に相当して、しかもここに「誓願」というものができてきます。 菩薩の生活とは「誓願」によって生きることです。八大人覚と六波羅蜜の関係は、だいたい以上のようなもので、不忘念とは、菩薩の根本になる誓願の話であります。
 菩薩の誓願とは「布施」ということになります。「布」とは、慈悲があまねく人々にゆきわたることをいい、「施」とは人に恵むことをいいます。畢竟、八大人覚も六波羅蜜も大いなる仏道であり、大いなる仏道とは、道元禅師の示されるところの「布施・愛語・利行・同事」と拙僧は考えます。