心に残る素敵な生き方  


 名エッセーとして高く評価された高田保さん(1895〜1952)の『ブラリひょうたん』という随筆を読んで感動したお話です。
 戦後、間もなく高田保さんが神奈川県の逗子に住んでおられたが、そこから引っ越しをされます。その引っ越しにあたり、家をきれいに掃除をして立ち去るのです。自分の出た後、誰がいつ来てもいいように、きちんと掃除をして引っ越しをするのです。

鳴子峡 平成17年秋撮影

 ところで高田さんは何回か移転をされたが、引っ越し後をきれいに掃除をしたのに出会ったことがありませんでした。ただ1回だけ例外があったというのです。その時は晩秋だったようで、引っ越し先の家の小さな庭が落ち葉でいっぱいでした。しかし、風が吹いて落ち葉が飛んでいくと、ほうきの跡が見えます。高田保さんは、「ああ、前の人は引っ越しをするときに、ちゃんと庭を掃除をして行ったんだな」と感動しました。雨戸を開けてもらって上へ上がると、廊下はうっすらとほこりが見えるけれど、畳の上はごみ一つない。それから誰もがするように、寝具を入れるために押入れの襖をはずして、中を掃除しようと思ったが、その必要はありませんでした。見ると、新しい、まだインクの香のするような新聞紙が上の段と下の段にちやんと敷いてあったのです。

 高田保さんはびっくりして、奥さんに、「世の中にはオレたちのような者もいるんだな。ありがたいことだ。じゃ、すぐに寝具を入れよう」と。奥さんと二人で寝具を入れようと思ってみると、さっき気がつかなかったけれど、押入れの隅に小さな包みが置いてある。今ならなにかと物騒ですから中の荷物は何かと心配になりますが、当時はその必要はありません。忘れ物と思って取り上げてみると、忘れ物ではない。その証拠に包みの上に「次にお住まいくださる奥様、御元ヘ」と。筆の跡も美しく記されていた。高田保さんが、「おい、これは君が見たほうがいいだろう」 「どなたでしょう」 「包みの裏を見てみろ」 「あなた何も書いてありません」 「じや、開けてごらん。中に手紙か名刺があるだろう」。奥さんが包みを開くのを、高田保さんが奥さんの肩ごしに見ていた。包みの中から出てきたものは真新しい障子紙と丹念に手縫いした雑巾です。高田さんも奥さんも感動したんでしょう。「障子紙も雑巾もものを言うが如くに、『引っ越しに当たり、障子も張り替え、縁もきれいに拭くべきでありますが怠ります 。どうぞこの障子紙と雑巾をお使い下さいませ』 と。ものを言わんばかりだ」 と。「おれは胸にこみ上げてきて、女房の肩叩いて、『 まいったな 』 と言ったら、奥さんも涙を拭いている…」と。
 高田保さんが、感動して、障子紙と雑巾の贈り主を苦心して探します。ようやく贈り主が島崎藤村の婦人の晴子さんであったことがわかりました。藤村婦人の温かい心が感じられるではありませんか。

 禅に限らないのですが、禅においては「何のために生きるか」ということを狙うというか、自分の生き方を決めるところに目指すものがあります。
 これは正法眼蔵随聞記にも出ている話しですが、道元さまが中国に渡って一生懸命に語録を読んでいると、中国の僧から

「語録を読むのは何の用ぞ」と問われました。
道元さまは
「古人の行履(あんり)を知らんがためなり」と答えた。
「古人の行履を知るは何の用ぞ」とまた問われます。
「郷に帰りて人を化せん」
「人を化すは何の用ぞ」
「利生(りしょう)のためなり」
要するに語録を読むのは昔の偉いお坊さんの生き方を勉強し、日本に帰って衆生済度をするためだと答えたのですが、そこでまた問われた。
「畢竟して、何の用ぞ」
つまるところ、結局は何の為なんだという意味です

真室川町 大滝

 ここまで問いつめられて、道元禅師もはじめて「いったい何のためか」ということを真剣に考えざるを得なかったとあるのです。いいかえれば「人間は何のために生きるのか」ということでしょう。
 この問いに簡潔に示せる答えがあるんであれば苦労はありません。
 しかし、あえて申せば、「何の為に生きねばならないのか」というような外的強制は一切ないのです。生きるというのは「自分は自分が生きる」「自分は自分の命が一番大切!」 −− これが根本です。命の根本とは何かというと「一心一切法 一切法一心」です。
 一心とは「仏心」といえば分かりやすいでしょうか。「一心一切法 一切法一心」この心、この命とは真宗の人にいわせれば阿弥陀さまのことでしょう。
 ですから、自分のいのちだけが大切というのではありません。自分のいのちが大切であると同じに、自分にもある、あなたにもある、みんなにもあるいのちが大切なのだという、ごく当たり前の道理が解ってきます。これを仏教では「慈悲心」といいます。
 そして、その慈悲心は山川草木、あらゆる生き物に対する慈悲心です。あらゆる存在は、自己と同じ生命で存在している、だから、あらゆる存在を大切にしようというのが仏教でいう「無縁の大慈悲心」です。別の言葉で言えば、「一心一切法 一切法一心」とは自分の一心の中にこの世のあらゆるものがある。同時にこの世のあらゆるものが自分の一心であるということになります。そこに「いとしむ」「いつくしむ」という心が生まれる。そして、そこにこそ本当の生き甲斐というものが生まれるものでしょう。
 
 言葉は「心の鏡」とも云います。
 心のこもった文章を書くということは、文章を研ぐというのですが、どうやって研げばいいか・・
 島崎藤村の言葉に「文章を添削することは心を添削することだ。その人の心が添削されないかぎりはその人の文章が添削されようがない」
 ・・・ それを考えると私などは実に羞恥の極みの行為です


鳴子峡 平成17年秋撮影