滅却心頭火自涼
心頭を滅却すれば、火自ずから涼し


 武田信玄〔1573年没)の軍旗の「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山(疾きこと風の如く徐かなること林の如く 侵掠は火の如く 動かざること山の如し)」の句は、テレビの「風林火山」で、とくに有名になりました。この信玄が帰依して禅を学んだのが、当時、甲斐(かい)の恵林寺に住した傑僧の快川禅師(かいせんぜんじ)です。
 信玄の没後、武田家は信長・家康の連合軍に亡ぼされます。信長は快川禅師の徳を慕っていたので、武田信玄の滅亡の機会に礼を厚くして快川禅師を自分の師にと招きますが、快川禅師は武田家との恩義を重んじて信長の申し入れを辞退します。その後、快川禅師が武田家の一味に好意を寄せているとの報を聞いて怒った信長は、快川が住している恵林寺を急襲して焼き討ちをかけるのです。信長は快川禅師以下一山の僧百余人を山門楼上に追いこめ、山門の周囲にたきぎを積み重ねて四方から火を放った。やがて火焔が被らの周辺を包むと、快川は一山の憎に向かっていう。

 「皆の者よ、われわれを焼き亡ぼすこの火焔に向かって、いかに対処するか、平生体得したさとりの力量の程をいえ、それを最後の言葉としよう」と。快川禅師の命にしたがい、それぞれ思い思いに自分のさとりの境界を短い言葉で述べる。最後に快川禅師は心境を次のように示します。

 安禅は必ずしも山水を須いず (安禅不必須山水)
 心頭を滅却すれは火も自ら涼し (滅却心頭火自涼)

 そして、一同とともに粛然(しゅくぜん)として生きながら、猛火に焼かれて亡くなります。天正10年(1582年)4月3日の凄惨な事件であります。禅の話をする時によく引き合いに出される話ですからご存じの方も多いでしょう。ところで、涼しい火などあるわけがない。火は熱い、熱いものは熱い。それでは滅却心頭火自涼はどのような据わりどころなのでしょうか−−
 快川和尚が最後に唱えたこの詩は、禅書として『無門関』とともに有名な『碧巌録』第四十三則の「洞山無寒暑」の評唱にも見る杜荀鶴(中国六世紀の詩人)の詩の結尾の二句であります。
洞山良价禅師(869年没・中国において曹洞宗の宗祖ともいうべき)のもとへ一人の修行僧が来て問うた。

修行僧「寒暑到来 いかんが回避せん」(寒い暑いが来たとき、どうしたらその苦悩が避けられて、心身が安らげられるでしょうか。)

 この修行僧は、季候の寒暑で人生の苦悩を象徴して洞山に心身の安堵の道を聞いているのです。気候には夏や冬の季候があり、それぞれ暑熱や寒冷に悩まされるように、人間の生涯においても、若いときには若いときの、老年期には老衰故の苦しみを受けずにはおられません。その意味でもこの質問は重大な意義をもっています。
すると、洞山はこともなげに答えるのです。

洞山「何ぞ無寒暑の処に去らざる」(寒さや暑さがいやなら、寒さも暑さもない処へ行ったらいいじゃないか)と。

 洞山も質問者の意を察して、「寒暑」は人生苦の問題であるとふまえつつ、しかも簡単にいい切る。まことに明答なのですが、質問者の方がいまだ不満なのはいうまでもありません。再度洞山に問います。

修行僧「いかなるか是れ、無寒暑の処」(寒さも暑さもない結構な処とはどこにあるのですか?人生に一体、苦しさが無いという人生などあり得るのか、あるとするなら、どこにあるのか)と。
 前の答の「何ぞ、無寒暑の処に去らざる」と、冷たくも見える洞山の答は実は前置きで、次の言葉を言いたかったのです。

洞山「寒時には闍利を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺す」 無寒暑の所在を問うのか。それは別に変わったことではない。寒いときは汝が寒さになりきり、寒さに同化すればいい。そこが『無寒暑の境地(からだや心が置かれている状態)』だと洞山禅師は示されるのです。



ねじり草 境内にて
 「闍梨」(じゃり)とは、梵語の阿闍梨(あじゃり)の訳語で、本来は高僧の敬称に用いるのですが、ここでは敬愛の心をこめて「お前・汝」の意味に使われています。「寒殺・熱殺」の殺は、暑さ寒さに引きずり廻される自我の念を静める意味で、言い換えれば「対象になりきる・同化する」意になります。暑い(寒い)ままに、暑さ〔寒さ)にしたがうのを、寒殺・熱殺という。「寒暑」の二字で、人生の苦悩の問題を象徴しての質疑応答が、この「洞山無寒暑(洞山に寒暑無し)」の公案です。寒暑から逃避せずに、まともにぶつかって寒暑に溶けこむ修行のありかたを示します。
 実際に寒暖は温度計で正確に測定されますが、寒暖そのものは苦楽に即応するものではありません。気温と湿度からはじき出す不快指数というものもありますが、この寒暑を苦楽のいずれかに決定づけるのは心の処し方にあります。例えば、吹雪の雪原でスキーに夢中になったり、炎熱の海岸で遊んでいるときは、温度計の標示がどうあろうと苦痛とは感じない。そのときには、寒暑を忘れ、しかも寒暑に同化し溶けこんでいるから、寒の中にありながら、寒さに悩まされない。
 しかし、趣味や遊びなら寒暑も苦にならないが、仕事となると同じ温度であっても苦痛となる。この違いはどこから生まれてくるのかというと、苦楽の感覚は自我愛の分別によるというのです。温度計を寒暖計という人がいますが、寒い暖かいは個人的な感覚ですから温度計という方が適切でしょう。この自我愛の整調こそが仏道になるのです。
 千利休は、茶道でこの無寒暑の境地を示します。「寒熱の地獄に通う茶柄杓も、心無ければ苦しみもなし」と詠じています。千利休は秀吉の豪華絢爛な茶道を認めず、命をかけてわびさびを主張しました。世俗的なものを放棄する玄妙なる姿勢をこの句から感じます。茶室に入るには、路地を進み、つくばいで階級や名誉を洗い流し、武士にとってかけがえのない刀をさえも外掛けに置き、丸腰になって身をかがめ頭を低くして入ることを要求されます。千利休は人間社会の最も理想とすべきことを、せめて茶室の中だけでも実践し広げていきたいとの誓願があったのでしょう。
 それは、ともかくとして、「無寒暑の処」という別世界があるのではなく寒さ暑さそのままに、寒さ暑さに同化し「寒ければ、寒し。暑ければ、暑し」とすなおに寒暑に身心が任せられれば「無寒暑」の境地が開けるでしょう。


 ついでながら、結句が「火も亦涼し(火亦涼)」ではないことを学びました。新村出氏の名編『広辞苑』にも「火も亦涼し」と紹介されてはいますが、「自ら」と「亦」は、僅か一字の差ではありますが、禅の頌として見る限り大きな違いとなるからです。
 快川禅師が唱えた杜荀鶴の七言絶句の結句の下三字は「火も自ら涼し」で、「亦涼し」ではない。さらに、「涼し」よりも、「自ら」の一字の方が眼目になっている。「自ら」は、「そのままに」であるから火を火と見、熱いを熱いと受けとって、しかも火にも熱さにもふりまわされぬ自己を把握した、静かに澄みきった境地を「涼し」と表現しているのです。
 快川禅師は火炎にだけでなく、自分たちを焚刑に処する怨敵の人間の心の底に、自らに潜む仏性を見すえて「火自ら涼し」と、不動の遺偈を残されたのでしょう。洞山と快川の二人の禅僧の一喝は、せわしない現代の病に悩む私たちにも一喝を与えているのだと考えます。自分に「心頭滅却!」の一喝を入れ、″無寒暑″を見つめ直したいものです。

境内にて