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| 檀家は違うが地元のある名士は自ら「夢楽庵〇〇〇〇居士」と戒名?をつけ、所有の建物に「夢楽庵」と称しご満悦のご様子でした。この「庵」という字義は小さなお寺のことです。草木を結ぶなどして作った質素な小屋であっても修行僧にとっては道場であり、世捨て人の仮ずまいやお金持ちの別荘の類のものではないのです。お寺には〇〇山〇〇寺というように山号があります。昔は修行も教化も静かな山中が主でしたが、時代も推移して町の中にもお寺を建てることになります。しかしながら、その慣習は今に続いて山号を付けている訳です。 さて、先の名士と同じような例で、作家の○○○氏は実母や義母に「院大姉」号の戒名を自分で付け、愛犬にも「秋桜院胡蝶愛蛙犬士」と犬名?を付けて、葬式には坊さんを呼ばずに身内だけで見送ったと朝日新聞(H12.2.18夕刊)に掲載されていたようです。そんな報道の影響もあるのでしょうか、ベラボウに高い戒名をボヤクだけでなく戒名は自分で付けようなどという本まであるようです。坊さんを呼びたくなかったらそれも自由でいいでしょうが、自分で戒名を付けるような支離滅裂なことはしないで自由葬ならしっかり俗名で送ればいい。 しかし、戒名とは仏戒を授受したという証であり、仏戒を授受するとは仏弟子となることです。受戒もせずに自分で戒名を付けたからといって仏弟子であろうはずもない。自分で戒名をつけて悦に入っても意味が無いどころか煩悩の上塗りとも思える。 この戒名について概略を説明してみましょう。
一般的にお血脈、戒名というと、人が亡くなった時に持たせてあげるものと考えているようですが、これは大きなまちがいです。又、戒名は謚号(しごう)・追号(ついごう)《おくりなの意味》という人もありますが、戒名と謚号とはその意を異にします。そもそも「謚号」(しごう)とは天皇や皇后、太皇太后・皇太后が亡くなった後に、その生涯や功績、人徳をしのび贈られる称号です。裕仁天皇は「昭和天皇」昭和天皇の皇后さまは「香淳皇后」など、漢字二文字程度と身位の組み合わせとなるもので「公」が功績のあった故人に贈る名前です。ついでながら、明治期以降の天皇の追号は、在位中の元号が採用されています。 又、謚号は天皇だけでなく国家に大功のあった臣下や僧侶にも贈られました。天皇から謚号として弘法大師の名を贈られたのはご存じ空海です。最澄には伝教大師、円珍には智証大師、そして曹洞宗においては、道元禅師は承陽大師、瑩山禅師は常濟大師であることはよく知られているところです。 中国においても古くより謚号の風習があり、皇帝の場合でも、文王・武王・成王・平王・荘王などがあったようですが、この慣習は臣下が生前の王を評価することであるとして、秦の始皇帝はこれを廃し、自らを始皇帝、その後は二世皇帝・三世皇帝と呼んで幾代までも伝えよと命じたと伝えられます。 お血脈というのは、お釈迦さまからのおさとしを代々のお祖師様方が受け継いでこられた証(あかし)であり、戒名は御仏に帰依し仏弟子となった証として与えられるものです。したがって、本来ならば生前に授かっておく「生前授戒」こそが本筋といえるものです。 この「授戒会(じゅかいえ)」は曹洞宗の数多い儀式の中でも、もっとも重要な儀式です。 お授戒とは、釈尊のみ教え、私共が守るべき心のいましめ、戒法を、戒師様(戒法をお授けくださる方)よりお授けいただき、その法力によって本来の自己を見出し心豊かに生活する為の儀式です。 授戒会では「帰戒を求めんと欲せば、まずまさに懺悔(さんげ)すべし・・・」より始まります。 懺悔文(さんげもん) 《我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身口意之所生 一切我今皆懺悔》 (がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち じゅうしんくいししょしょう いっさいがこんかいさんげ) 【我れ昔より造りし所の諸々の悪業は 皆な無始の貪瞋癡に由る 身口意よりの生ずる所なり 一切我れ今皆懺悔したてまつる】 仏教では、煩悩のうち最も基本的なものが貪(好きなものへのこだわり)瞋(嫌いなものへのこだわり)癡(真理に対する無知)であり、貪と瞋は表裏なのです。お釈迦さま最後の教え「遺教経」の一節には 『汝等比丘(なんだちびく)もし人あって来たって四肢五体を節々に(バラバラに)切り裂くとも、心をおさめて、いかり怨んではならない。また口を護って悪口を言ってはならない。忍の徳は、持戒苦行も及ぶところではない。人から罵倒されても、その毒を忍受して、甘露を飲むがごとくせねば、仏の道に入った智慧ある人とは言われない。瞋恚(しんい)[顔や目を怒らせ心も怒ること]の害は諸々の善法を破り、名誉や名声をいちじるしく損ずるものである。心(しん)の恐るべきこと毒蛇、悪獣、怨賊よりもはなはだし』 毒蛇や獣はかみつくかもしれませんが、人の名誉や地位までは噛みません。泥棒はお金や品物を盗むかもしれませんが人の信用までは盗みません。けれども、瞋恚(しんい)の毒は地位や名誉を傷つけるばかりでなく全てを無に帰すことにもなります。 懺悔には三種の懺悔の姿があると示されます。 1.実相懺悔◇つまるところは坐禅のことです 2.不染汚懺悔◇見返りを期待しない「仏作仏行」の清浄な行のことです。朝起きたら汚れていようがいまいがまず洗面をするというのが不染汚の行ということになります。仏行ですから不作法にあたりを汚すようではいけないし、湯や水を無駄に使ってはいけない。道元禅師は越前の山中にある永平寺において、有り余る水の恵みにあっても水のいのちを大切にするという心を、一勺の余った半勺の水を児孫の為にと元の谷川に戻されたと伝えられます。半勺の水を川に戻したところで物量的には変化はないようなものですが、その心構えが不染汚の行です。 3.対首懺悔◇仏様や戒師さまと向き合い懺悔することです。み仏さまの心と自分の心が一体になって向き合っていることです。礼拝の偈に「能礼所礼性空寂 自身他身体無二・・・」とあります。能礼(のうらい)とはお拝をする人、所礼(しょらい)とは仏さまのことです。自身と他身とは実体的には別々ですが、仏教で説く本質的な見方からすれば、性空寂(しょうくうじゃく)である訳です。その時、「行仏」には、自分と仏さま、自分と相手という垣根はなくなってしまうということになります。
授戒中には三世諸仏の名号を唱えながら数多くの礼拝をする懺悔道場、そして、仏法や授戒の意義を学ぶお説戒、又、ご先祖諸霊への追善供養などの儀式を行います。最後の晩になりますと、本堂中央の蓮華台(本堂の須彌壇)上の戒師様より、釈迦牟尼仏から今日まで受け継がれた仏戒をお授け下さいます。そして、戒弟(檀信徒の皆様)が仏の位に入ったことを証明なされる蓮華台登壇の儀式が行われます。「衆生仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る、位大覚に同うしおわる、真(まこと)に是諸仏のみ子なり」と戒弟がお授戒の功徳によって仏様の位置に届いた事を証明されますので、これがお授戒のクライマックスと申してよいでしょう。そして、戒法の相続を系図にしたお血脈を戒師さまから一人ひとりに手渡されるのです。 第一摂律儀戒(しょうりつぎかい)で、清浄な心を以て一切の不善をなさざるべし。 第二摂善法戒(しょうぜんぽうかい)で、清浄な心を以て一切の善行に励むべし。 第三摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)で、清浄な心を以て永く世の為に尽くすべし。 三聚とは“三つにまとめた”の意、浄とはまごころ、摂とは一切のこと、律とはしてはならないという意味です。したがって「悪いことはしない。善いことをする。人の為になることをする」ということを、浄(まごころ)から誓いますという意味になります。 仏法の大意をわかりやすく説明する時に、白居易と鳥彙道林禅師のことが度々説法されます。 白楽天という詩人がいました。 白居易は杭州刺史となって赴任します。刺史とは州の長官、今の県知事に当たります。白居易の赴任先である杭州、秦望山に鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼ばれる名物禅僧がいました。この禅僧、山中の松の木の上に巣をつくって稜み、木の上で坐禅をしていました。白居易は、この和尚の噂を聞いて、ある日、面会に出かけて行きます。 白居易は、「仏法の大意とは畢竟何なのか、そこをお示しいただきたい」と問うのです。 道林和尚は「善いことをする、悪いことはしない」ということだ。 実にわかりやすい説法であります。けれども、どこかのおじいちゃん、おばあちゃんでも言いそうな言葉であって、偉い禅師の言葉とは思えぬとでも思ったのでしょうか、白居易は更に「そんなことは、三歳の童子でも知っていることではないか」と重ねて申しました。鳥彙和尚は「三歳の子供が知っていることでも、八十の老人にして実行することはむずかしいぞ」と説示されたのです。白居易は恐縮して引き下がったということです。 十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)とは 第一、不殺生戒(ふせっしょうかい)すべてのいのちを大切にすべし 仏教では「不殺生戒」は第一番の戒です。でも、いのちをいただかなければ生きてはいけません。魚も葉っぱもみんないのちですから、ご飯をいただく時には「仏道を成ぜんがために、いま、この食を受く」と唱えます。道元禅師は不殺生戒を「仏の慧命を続くべし、生命を殺すことなかれ」と示されます。 第二、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)盗みや不正を犯すことなかるべし 道元禅師は「心境如々にして解脱の門開けり」と、ずいぶん難しい言葉で説明されておられます。「如是」(にょぜ)という言葉があります。日本語読みでは「かくのごとし」ですが、道元さまは「如の是なり」と教示されます。つまり、主観(自分)と客観を別々と見ないで「如々」であればとらわれることはなくなる。とらわれることがないから、改めて人の物を盗もうなどとは起こらないはずである−− ということでしょうか。戒の言語の「シ−ラ」とは「よい習慣」という意味です。 第三、不邪淫戒(ふじゃいんかい)道ならざる愛欲を犯すことなかるべし 三毒とは「貪瞋痴].。一番最初がむさぼりです。目を三角にするイライラ、痴とは道理がわからず智慧がないこと。道元禅師は「三輪清浄にして、希望(けもう)する所無ければ、諸仏同道なるものなり」、身も口も意も清浄にして、邪な欲望を持たなければ婬を貪るという余地もなく、そのまま仏と同じ生き方になると示されます。 第四、不妄語戒(ふもうごかい)偽りの言葉を口にすることなかるべし 「ウソも方便」という喩えがありますが注意が必要です。相手をおもいやってのウソや、カドをたてない為に使うならば「ウソも方便」といえるでしょうけれども、人を傷つけるようなウソは、自分の言葉によって心が汚れそのまま自分に反映するのです。 第五、不こ酒戒(ふこしゅかい)迷いの酒に溺れることなかるべし 己を見失うような迷いの酒や思想におぼれてはならない。私が尊敬するあるお坊さんは「酒を飲まないというのはとても無理だから、とりあえず二度トイレを借りるまでは飲まないということにしている、ときどき破るが・・」という慎み(戒)はいいなと感じます。 第六、不説過戒(ふせっかかい)ひとの過ちを責め立て言いふらすことなかるべし 他人の悪いところばかりが見えるということは、自分が偏見の色メガネをかけているからです。悪口もやさしい言葉も人生とは結局自分持ちですから、けちな根性の人はけちな人生、豊かな根性の人は豊かな人生となるでしょう。 第七、不自讃毀佗戒(ふじさんきたかい)己を誇りひとをそしることなかるべし 「自他を分かたざることを学ぶなり」と示されます。自分も他人も分けないようなところまでにならないといけませんから容易ではありません。「うちの子は頭が良くて素直だからうちの子に限ってそういう事はありません」と「うちの子はそんな悪いことはしないが・・ あんたのうちの子はやるかもしれない」・・・実は表裏一体です。 第八、不慳法財戒(ふけんほうざいかい)物でも心でも他に施すことを惜しむことなかるべし 物でも心でも施し与えることを惜しんではならない。 第九、不瞋恚戒(ふしんいかい)怒りに燃えて自らを失うことなかるべし 激しい怒りで自分を失ってはならない。遺教経に「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり、能く忍を行ずる者は、すなわち名づけて有力の大人となす」とあります。天桂禅師も「堪忍をすれば、そのまま仏也」と示されています。 第十、不謗三宝戒(ふほうさんぼうかい)三宝をそしり、不信の念を起こすことなかるべし 真実の道を求めるものにとっては改めて申すまでもないことでしょう。 ところで、浄土真宗では授戒をしません。それは「戒」ということが、いかに努力してもとうてい守れないと考えるからです。例えば不殺生という「戒」ひとつとってみても、すべての生き物は他の生命を奪わなければ生きていけない。したがって、浄土真宗では浄土三部経にある、阿弥陀さまはどんな凡夫でも悪人でも救い取るという誓い(摂取不捨)を信じ、この阿弥陀さまに無条件でおまかせ(帰依)する他にないから、授戒は行わないというのです。したがって浄土真宗では戒名とはいわず法名というのです。 ところで、「戒」とは窮屈な厳しい規範のように考え、「俺もそんな戒めなど守れんナ−」 「俺はそんな戒めなど守れそうもないから戒法など必要ない」と、そう簡単に割り切らないでください。確かに、「食べ過ぎ・飲み過ぎ」さえ守るのが難しいのですからわからないではありませんが、戒(いましめ)とは人間らしく生きていくための決まりなのです。「偽りの言葉を口にすることなかるべし」と言われても、そんな「戒」を完全に実践できることはあり得ないわけですが、罰則を伴う「律」とは違って、人間の本来あるべき姿、努力目標としての「戒」であるわけです。おごることを恥じ、自分を戒め、自分をつつしむことが「戒」であり「品格」の基でもあります。それが、即ち「浄戒」となり「浄信」というものでしょう。 浄戒とは禁ではなく勧めることであるということから、道元禅師は禁戒とは呼ばずに禅戒と示されるのです。 したがって授戒会ではこの戒を「よく保つ−」と大きな声で誓った人にのみ、仏弟子の資格を持った者として、その証(あかし)として戒名と血脈を授与するのです。 「授戒会」のことを別名「尸羅会」(しらえ)と言います。尸羅とは戒とか清涼、性善という訳語があり、経典には「心々の本性は、即ちこれ尸羅なり、造作の法にあらず」とあります。心々の本性とは、霊魂とか精神現象のことではなく、尽十方界そのものの実態、つまり真実のことであり、この戒の真実とは人間が作り上げるようなことではなく、かえってこの戒によって生かされて生きているということです。達磨大師の一心戒文に「授とは伝なり、伝とは覚なり、即ち仏心を覚るを真の受戒と名く」と示されるように、「仏心を覚る」とは、教えを毎日の生活の中で実践することです。「戒」の言語の「シーラ」とは、先にも申し上げましたが「よい習慣」という意味です。 戒名問題が生じているのは、この「授戒」の意義が正しく知らしめていない、正しく知られていないということでしょう。授戒とは「人間の生命の本来の事実は戒である」という仏法根本の教えをしらしめる、曹洞宗の数多い儀式の中でも最も重要な儀式とされているのです。
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