「挨拶」は命のあかしです
礼儀、挨拶の極意

 某日−− 某大学のある先生が女子大生に「おはよう」と声をかけたところ、彼女は黙ったまま通り過ぎてしまった。先生は呼び止めてなぜ返事をしないのか尋ねてみると、「先生、人からおはようと言われたらなぜ返事をしなければいけないのですか?」 先生「それが挨拶というものでしょう」 「でも先生、そんなの変ですよ。朝のテレビでアナウンサ−が『おはようございます』と言っても、みんな黙っているじゃないですか。それが普通じゃないですか」 −− その先生ひどく驚き落胆したという。
 イギリスの家庭教育では、ものを頼む時には「プリ−ズ」、何かをしてもらったときには「サンキュウ−」それに「エクスキュ−ズミ−」の三つは人間としての基本挨拶として躾けられているそうです。イギリスに限らずこの挨拶はコミユニケーションの原点ともいうべきもの。挨拶もままならず、先輩に仕事を頼まれ「え?」「マジすか?」とか、「ハイわかりました」と言うべきを「うんうん」「そうすか」「そうゆうことすか」。或いは「超〜」「めっちゃ・・」という妙な言葉を使うようではビジネス以前のこと。社会人として「ごめんなさい」という謝り方はない。又、ビジネスでは「すみません」ではなく「恐れ入ります」が使えるようになって一人前といわれる。挨拶には人格がそのまま表れるのです。
 この挨拶の語源とは仏教語の「一挨一拶」。「挨」は心を開くとか接近する、「拶」はせまる、近づくという意味。つまり師家と修行者の互いの言葉または動作のことをいいます。面と向き合っての受け渡しですから面授ともいいます。これが転じて「応答、返礼」となり「挨拶」ということになったのでしょう。

 さて、挨拶はまず自分からと心掛けても返事らしい返事が返ってこなかった時には気落ちはあるでしょう。しかし、挨拶は自分を磨く修行ですから、「おはようございます」の一言にも、「今日も一日よろしく」「お互いがんばろう」という気持ちを込めて明るく先手で挨拶することです。「こんにちは」「ありがとう」「おかげさまで」「助かりました」「お帰りなさい」「よろしくお願いします」「ただ今戻りました」「お先に失礼します」こうした挨拶が明るく元気にできるかどうかで人生は大きく変わるのです。「おはようございます」だけではなく、「今日もお早いですね」「今日も暑くなりそうですね」などと言葉を重ねることがポイントです。「なるほどね」「そうですね」「うんうん」などといったあいづちも、実は立派な挨拶なのです。個性的なスタイルであっても、この挨拶をわきまえていれば好感をもたれます。この挨拶を含めた礼儀そのものが「上品」とか「粋」となり、反対が「野暮」や「無粋」となるのです。
 「寒いですね〜」と挨拶された時に「これからもっと寒くなりますよ」などと返答していると人間関係までが寒くなってしまう。気持ちの良い挨拶とは「寒いですね〜」には「ほんと寒いね〜」との挨拶であれば寒い日でも温く過ごすことができる。「暑いですね〜」には「暑いですね〜」との返答で自分も相手も涼やかになれる。挨拶とは「相手を尊重する」こと、他部署の人でも目が合えば「おはよう どう調子は」とか、後輩や同僚に仕事をしてもらったときにも笑顔で「ありがとう」の挨拶を忘れない。「ありがとう」の一言でも「ありがとう」の音調によって豊かな挨拶ができるのです。帰社するときには「お先に」、「お疲れさまです」と返事を返す。そのような心配りが自分自身の前向きな心を育み、誰からも親しまれる存在となる。毎日を充実させている人とは「明るい挨拶」で周りに幸福を与え調和することで自ずから喜びと充実感を倍加させているものです。
七ツ滝  朝日村田麦俣 H16年撮影

 明治の三遊亭円朝といえば名人の中の名人といわれる落語家です。この円朝がある日、剣禅一如を体現した剣聖、山岡鉄舟の前で一席話をしたそうです。
 ところが、「お前は舌でしゃべるからいけない。舌をなくさなければ落語にならない」といわれ、以後熱心に参禅修行することになりました。その円朝の枕の一節 −− 「ある日、大和尚が急に禅室に召されますので、とりあえず参りて見ますれば−−(略)威たけだけしく「円朝!」と呼ばれるので「ハイ!」と答えましたところ、「わかったか!」とおおせられますゆえ、「わかりませぬ」と申し上げますと、大和尚は例の目をむき出して「汝返事をしながら分からぬか」と一喝され、また「円朝」といわれるので「ハイ」と答えますままに、豁然省悟いたしました。『わたしは円朝が「ハイ、ハイ」ではなく、「ハイ、ハイ」が円朝であると合点しました』−−と。
 返事の「ハイ」は「拝」と書くそうです。「拝」とは感謝、尊敬を表します。人は他と関係性をもって生きていますから、良好な人間関係を作るには物の言い方が大切になる。物の言い方が悪くて大臣に任命されて9日で辞任した方がおられたが、「丸い卵も切りようで四角、物も言い様で角が立つ」という諺の如く、言い方にはよくよく気をつけなければならない。相手と親しく、相手の心をつかむ為には「言施・眼施」の布施が大切なのです。「布施」とはいっても大それたことや難しいことではない。お茶を入れてあげたり、やさしい声の調子で挨拶をする。そういった小さなことのように思えるそのことが、実は真心の行為となって自他の大きな喜びや幸せとなって現前する。挨拶の極意というべきものは、相手を知り理解することから始まる。理解するには話すことも大切だが、聞くことはもっと大事なこと。相手を理解し前向きな思考で生きる姿勢から明るい音調の挨拶が生まれるのです。

 茶道に三炭という言葉があります。三炭とは、初炭・後炭・立炭のことで、「心配りに始まり、心配りに了る」心構えを示します。客の帰りぎわにも「どうぞごゆっくり」という心で炉中に炭を添えるのが立炭です。招くときには門の前に打ち水をする心配りがあっても、送り出すときにはつい緊張がゆるんで戸や障子を早く閉め立てしたり、後片付けを急ぐようでは饗応がよくても台無しです。
 −− 幕末の大老、井伊直弼は一流の茶人でもありました。この名茶道人は客を送り出すときには、その姿が見えなくなるまで見送り、その後、客を偲んで一人で茶を点て静かに茶を親しんだと伝えられます。
 お茶に限らず、本当のおもてなしとは相手との関係を大事に心に留め置くことです。生きるとは、あらゆるものとの関係性をもって支えられているということです。一人の行動が全体にも大きな影響を与えますから、自分という一人の行動はとても大切な価値を持つものです。今を切に生きる「一期一会」の観念、『「あ」かるく、「い」つも、「さ」きに、「つ」づけて』それが極意ともいえるかもしれません。