心無い悲しい事件が頻発しています。「心」の究明とは四苦八苦の人生において根本課題です。華厳経の中に、この「心」について「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別」という箇所があります。仏教では、存在の次元を欲界、色界、無色界の三界に説明しています。欲界とは五官(眼耳鼻舌身)の世界のことで私たちが住んでいる世界のことです。色界は五官の刺激に因らない世界です。無色界は身体さえもいらない次元の世界のことです。この三界は「唯一心のみ、心の外に別法は無い、心と仏と及び衆生、是の三つは差別無し」ということになりるでしょう。この一心とはどうゆう心かを考えてみます。
この「心」を分類的に集約すれば「妄心」と「真心」(しんしん)の二つになります。「妄心」とは衆生心とか分別心、染心、染汚心、凡心とも言われ仏教的には望ましくない心です。もう一つの「真心」とは仏心、如来蔵心、自性清浄心、真如心、浄心、本心、本来心、堅実心、菩提心、妙心などとも言われ「一心」とは「真心」を指すものです。この一心から見れば、「色」も「空」も、「妄心」も「真心」もいってみれば一つの現象に対する相補的な見方といえるでしょう。この「一心」を究めれば「仏心」も「如来蔵心」も「菩提心」も真心故に衆生もそのまま仏さまですから「一切衆生悉有仏性」となります。客観世界と主観の世界が対立することのない「是三無差別」の世界とは好き嫌い、清と濁、明暗、勝ち組負け組といった二元対立を超えた見性ですから、主客一枚になる「三界唯一心」ということになります。
わかったようでわからないと思いますが、そんなに簡単にわかる世界ではありません。
まあボチボチいきましょう。
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唯識に少々触れながら話を進めます。
この「識」というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識をめぐらす世界と、その根底にある第七識、つまり「末那識」(まなしき)の世界との総和です。無意識である末那識の世界であれば、めぐらしようがないではないかという方もいるかもしれませんが、実は、私たちの感ずること、考えることの一切はこの末那識に基づいているというのです。末那識の世界でいう「識情」というのは、無常のこの身(我)を実在すると錯覚して、あくまでこれにこだわり、しがみつくと示します。
しかし、唯識ではこの末那識の底にさらに「阿頼耶識」(あらやしき)「阿摩羅識」(あまらしき)という第八識・第九識を考えているのです。この二つの識をひっくるめて「最深層の無意識」とでも呼ぶとしましょう。
ここは、フロイトの弟子フランクルが「超越的無意識」「宗教的無意識」「実存的無意識」と呼んだ世界です。オーストリアの精神分析学者フランクルはユダヤ人であったためにナチスの手先に捕らえられ、アウシュヴィッツ収容所へ送られた。そこで彼は、理性や知性のカを失ったユダヤ人が本能的・無意識的に同朋を売り、同朋の死を見ながら平気でパンを食べる姿を見た。それはフロイトのいう通りの世界であった。ところが、それとは全く反対に、ごく自然に自分の命を捨てて同朋を助けようとする人がいることも知った。それによってフランクルは、本能の支配する無意識の世界の底に、さらに深い無意識の層があって、そこからの呼びかけに応えた者が、大ぜいの人間の幸せの為にやすやすと自分の命さえも捨てることに気付いたというのです。そして、人間の行動の根底は、本当はそこにあると主張するのです。
愛知国際医療センタ−に勤務されている川原啓美さんが、以前ネパ−ルで外科のクリニックを開いていた時のことだそうです。当時西洋医学の知識を持った医師は少なく、川原先生は名医としての評判が伝わり、二日も三日も歩いて患者さんがやってきます。あるとき、中年の女性の検診をしてみると足にガンができていたそうです。先生は「今足を切れば、治りますから切りましょう」と言いました。そうすると、その女性は「私の家は貧しくて夫と私は共稼ぎで働いていて、7人の子がいます。その子たちを食べさせるのに精一杯ですから、私がもし足を切って助かったとしても家族に依存することはできない。ですから、どうぞ切らないでください。私が死んだら、夫はまた新しい奥さんをもらうでしょうし、子供たちも新しいお母さんに来てもらえる。そして、新しい兄弟がまた生まれるでしょうから」と言ったそうです。−− 自分の愛する人たちの為に、自分の「いのち」を捨てるという決断(慈悲)なのです。死を徹底的に忌避し、近代医療によってあたかも100歳の長寿が可能であるかのような現代医学とは対極にある「生死観」です。
唯識では「阿頼耶識」(アラヤシキ)のことを「心」と名付けることは先に申しました。この阿頼耶識の中に蓄積されている「種子」というのは生まれてからのすべてを包含します。ここまではフロイトと同じです。しかし、ここから先が違うのです。唯識では生まれる以前、前世も前々世も・・・・・すべて蓄積されていると捉えていますから、今様にいえばDNA(遺伝子情報)も種子といえるでしょう。阿頼耶識のことを翻訳して含蔵識といいます。「阿頼耶」とは蔵という意味です。インドのヒマアラヤ山のヒマとは雪、アラヤとは蔵、つまり年中雪を蔵している山という意味になります。心のことを仏教では「蔵」というのは、心はあらゆる経験と知識を貯えているところであるからです。つまり、記憶を貯える蔵です。そして経験と知識を総合して「自我」が形成されるのですから、100人いれば100人それぞれの意見は違います。しかし、二元対立の「自我」を「仏性」とはいいません。
もし真実正しいものがあるとすれば、それは「自我」の形成以前の心を徹見することであるということになります。それを禅宗では父母未生以前、親も生まれない先の本来の面目を見よというのです。「自我」を滅し「私心」を捨てた心を誠心(じょうしん)とも清浄心(しょうじょうしん)ともいいますが、人がそれを洞察しうれば、その人の自性を見性したともいいます。自性とはほとけであり仏性です。
道元禅師の和歌に
此心(このこころ)天(あま)つ虚(そら)にも花ぞなほ
三世(みよ)の仏にたてまつらなん
此心(このこころ)ということも同じく、真心、清浄心、仏心をいいます。天つ虚とは一般的には遙かな大空というところでしょうが、遙かとは地球の大空とかに限定されるものではありません。三世の仏とは過去・現在・未来の三世の仏のことです。
真心を明らかにして自性を見性すれば遙か天空虚空にいたるまで仏身は法界に現成します。すべての真理は秘められることなく眼前にあらわれているのです。引導で使う「露」ということは、「あらわれる」とか「むきだしになる」ということで、自分の行動というものも隠しようもなく全てむき出しにあらわれるものであり、謝ってすむものでもなく謝ってどうなるものでもない。あとは、ただむきだしになったものを背負っていくほかはない。一生それを背負いつづけていくしかない。「露」ということは考えてみれば恐ろしいことです。しかしながら、ほとけの功徳力はあらゆる世界に充満するのです。煩悩や執着心で曇った目には、その真実が見えないだけなのです。道元禅師の和歌は、此の心の花(仏性)を開かせてくだされた三世の諸仏、十方法界の諸仏にこの花を供えないではいられないというような意味になるでしょう。天つ虚も三世の仏も、時間空間を越えた普遍の真理のつかみどころというものはこの「此の心」にあるということです。
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