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雲門大師について修行し、その法を継いだ洞山和尚の麻三斤(まさんぎん)の公案です。
この洞山は、曹洞宗の開祖洞山良价禅師のことではなく、無門関15則にある洞山の守初禅師のことです。 この公案は極めて有名で、『碧巌録』、『無門関』、『空谷集』、『槐安国語』、『道樹録』、『永平頌古』、『拈三百則』などのあらゆる公案集に出ています。
あるとき、洞山が庫裡で麻の目方を量っていたときに、ある僧が
「如何なるか是れ仏」
と問うたのに対して、洞山は
「おお、麻の目方が三斤」
と答えたという公案です。要はただ「麻三斤」という三字でありまして、これが深い意味があるというので、天下の叢林の問題となっているのです。
まず、その問いの「如何なるか是れ仏」というのに対して、いろいろの答えがあります。雲門大師は「乾屎けつ」と答え、大法眼は「汝は是れ恵超」と答え、首山は「新婦驢(ろ)に騎れは阿家(あこ)牽く」と答えたことなど、みな公案として有名なものであります。あるいは汾州無業国師は「莫妄想」といい、五祖法演禅師は「口は是れ禍門」などと云い、倶胝和尚は「いかなるか仏法の大意」と訊かれると、倶胝はいつも「これだ!」と、一本の指を立てて見せたといいます。仏というもすでにその時点で、いろいろでっちあげた価値観や分別妄想となってしまうので、老婆心の方便として、尊そうな外側のものを否定するための指導であるといえるでしょう。
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古来、禅の問答というのは全身全霊の問いにもかかわらず、師匠の答えはとりつくしまもないという問答が多いのです。そのとりつくしまもないところに向かって精魂をかたむけて精進するのでありますが、師匠は師匠で親切をつくして指導しているのです。「仏法の大事なところを文字で解釈するんではない、頭で理解しようとするでない」 ということを打出といいます。
昔、雲門大師に修行僧が「如何なるか仏」と尋ねると「乾屎けつ」と答えた。所謂「乾いたウンチのついたクソカキベラ」の答えなど、初学の時には、そうかもしれんが、何という答えなんだろうと思ったものです。 けれどもこれは深い意味が含まれた公案です。真剣に人生を探求する者に対しての遊戯問答ではないのです。私はカキベラの現物を見たことはありませんが、トイレットペ−パ−のなかった4,50年前の田舎の当地では草の葉でおしりをぬぐっていました。新聞紙や雑誌を揉んで使うことができれば良い方だったのです。カキベラはそんな近年まで日本も各地で使われていたようです。竹製の20センチ位のヘラをいくつも用意して置いて用を終えたヘラは用済み篭に入れておく。そのヘラにあのモノが付いて乾いているのを「乾屎けつ」というのです。誰しも好まないところで何十年に渡って人のお尻をきれいにする役目という聖業につく。おのが身を汚すことによって相手を清める聖業とは、まさに仏の本願に叶う「仏行」ともいえましょう。
けれども、そのような理解や解釈では「如何なるか是れ仏」の答えにはならないのです。どうかすると、仏とウンコで決定的にすれちがってしまうのです。
「麻三斤」問答も、昔からいろいろの分別思慮にわたって、こうであろう、ああであろうと議論したものと見えまして、『碧巌録』に出ております。すなわち、洞山が庫裡のところで麻の目方を計っていたときに、僧が「如何なるか是れ仏」と問うたから、「麻の目方が三斤」と答えた。本則はただそれだけのことで極めて簡単です。その麻三斤の言葉にとらわれてはならない。ただ洞山のこころが、その僧のこころに通じなければ、この公案の意味はなさないのです。そのこころとこころと一体になったところ、それが仏の正体でありますが、天桂伝尊は、この公案を次のように歌うております。
- 如何なるか仏と問えば麻三斤
- 増さず減らさず有りのままなり
この公案について無門和尚の頌として、
突出す麻三斤、
言親しうして意更に親し。
来たって是非を説く者は、
便ち走れ是非の人。
と示されています。すなわち「如何なるか是れ仏」の問いに対して、洞山は、無心に、何の造作もなく、たくむこころもなく、すなおに「麻三斤」と答えているので、言葉が親しいばかりでなく、そのこころも更に親しいのでありますから、それを理屈で、ああである、こうであると、分別にわたって説明してはならないということです。是非得失の対立分別の世界から超出して、迷悟几聖の格外にある洞山和尚の「麻三斤」の言葉を、そのまま「南無麻三斤仏」と親しく受けとらねばならないということでしょう。
仏を表現するのに、「仏という字は人でム(ござる)という意味であるから、佛という字は本来は人に弗(あらず)と書く佛の字が本当である。」 とかいう評論家の論があります。なるほど、佛という字は沸騰の沸です。水が沸騰すれば水蒸気となって「水にあらず」の状態になります。漢字の意味用法には素敵なものがたくさんあります。けれども、畢竟「如何なるか是れ仏」の問いに対しては、字義の解釈などはどうでもいいことです。アメリカを米と書き、フランスを仏の国と書くから、アメリカは米の国でフランスは仏の国かなどととらわれることはないのです。仏という字の中、記号の中に仏があるのではないのです。
洞山の答えられた「麻三斤」の三字についていろいろ理屈をこねているとかえって抜き差しならないことになる。言葉というものは間接的にその事柄のありさまを示すのみで、直接にそのこと自体をあらわすことはできませんから、畢竟言葉そのものにとらわれてはいけないのです。
仏教では、生死と涅槃、善と悪、罪障と幸福、有漏(迷い)と無漏などの対立概念(二元論)を立てません。外道はこれらの見解に執着します。頭のいい人が仏教を勉強すればすべてうまくいくという考えてしまいますが、それだけでは幸せにはなれないのです。菩薩は「この身は無常だと説いてこの身を離れることを説かず、この身は苦であると説いて涅槃を願うことを説かない」と示されます。「とらわれてはいけない」とか「こだわっちゃいけない」というのではまだとらわれています。とらわれない心、こだわらなくてもすむ道理をえんえんと求めるのではなく、「今」の瞬間に今の脚下を確かに踏みしめることにより苦楽にとらわれず心が清らかになる。清らかな心になった時には −− 「峰の色 渓の響きもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と」(道元禅師)という御歌のように、自分をとりまくすべてが真如(仏法)の声と聞き、お姿と受けとめることができるということになるでしょう。
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