お金は無くても施しは出来る!
玉簾の滝(八幡町)   平成17年2月撮影     
 一般に布施というと、読経などの際住職に出す包金と思われていますが、布施というのは、お経に対する謝礼や報酬ではなく、お釈迦さまの教えを見聞させていただいたよろこびを形に表わしたものといえます。それを喜捨とか報捨というのです。お坊さんがお経をあげ、説法することを『法施』といい、それに対しての謝意を『財施』といいます。
 神社仏閣の参詣ではお賽銭を入れてからおまいりをします。ところで、願を叶えてもらう、あるいはお願いの対価として賽銭を入れると考えがちですがそれでは取引になってしまいます。お賽銭箱には「喜捨」と書かれていることもありますのでこの「喜捨」についてお話しさせていただきます。
 臨済宗の誠拙大和尚(?〜1820)にこんな話があります。
鎌倉円覚寺に入った誠拙はもっぱら大衆を接化していた。ある時、山門を改築するというので、広く化縁を募ったことがあった。時に札差を業としている梅津伝兵衛という者があって、五百両の金を懐中にして寄付を申し込んできた。和尚は、「ああ、そうか」 といったきり、一言のお礼らしいこともいわない。伝兵衛は和尚に「五百両」の言葉が聞こえていないのだな、と思って「五百両ばかりですが、ご寄付させていただきます」 と重ねていったのたが、和尚は、「ああ、そうかい」 といったきり、後は何もいわないのである。あまりにも素気ない和尚の対応を、少なからず不満に思った伝兵衛は、我慢できずに、「和尚さま、この五百両という金は私にとっても大金で、容易に得られぬ額です。それを寄付するのですから、お礼の一言くらいあってもよかりそうなものですが 」 すると誠拙和尚は、その言葉の終わらぬうちに大喝して、「馬鹿なことを申すな。おまえさんが寄付するということは、自分の福田を植えることじゃ。自分が積んだ功徳はみんな自分のところへ帰っていくのだ。それなのに、何でわしがお礼なんかをいわなくてはならんのか」

 多額のご寄付をいただきながら、一言の礼も言わぬ誠拙和尚の態度は俗世間においては不本意に思われてしまうでしょう。かといって、手をすり合わせてペコペコする和尚では、後で何を言われるかわかったものではありません。
 宗門では、托鉢の時や施主の布施を受ける時にとなえる偈があります。
「財法二施 功徳無量 檀波羅蜜 具足円満」(ざいほうにせ くどくむりょう だんばらみつ ぐそくえんまん)訳は「物と心の二つの施しは等しく差別なく限りない功徳を持ち布施の智慧を完成します」という意味です。 布施の理想的な状態を「三輪空寂」(さんりんくうじゃく)といいますが、施す人、施される人、授受される三つが共に清浄になった状態を示すものです。施しても施したという思いを起こさず、為しても為したという思いを起こさない布施行が最も清浄にして優れたものであるというわけです。何かの見返りを期待するのであれば、それは布施ではなく先に申しました取引になってしまいます。
 誠拙和尚の教えは財施に対しての法施と受けとめて考えてみましょう。生きるということは、何かしら他と関係性をもって生きているわけですから、お互いに協力しあうことで成り立っているわけです。その関係性の中で、自分も何か「役にたつことを為す」ことは大切です。渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施ですし、社会の諸産業にはげむことも布施にほかなりません。もっとも、布施とは「お役にたつ」ということですから、けっして大それたことではないのです。お茶をいれてあげたり、ほほえんだり、ちゃんと挨拶をしたりする、そういった小さなことでも立派な布施となるのです。布施とはその大小や軽少の問題ではなく布施の心が大事な教えになります。 お礼を言ってもらいたいための善行とは、その大小にかかわらず本来の布施ではなくなってしまうのです。
 無財の七施という教えがあります。
玉簾の滝下流にて   平成17年2月撮影

   眼施(がんせ)
   和顔施(わがんせ)
   言施(ごんせ)
   心施(しんせ)
   身施(しんせ)
   床座施(しょうざせ)
   房舎施(ぼうしゃせ)  

  優しいまなざしで接する
   なごやかな顔をみせる
    やさしい言葉をかける
  思いやりをかける
  自分の体で奉仕する
  人に席を譲ってあげる
  我が家を人の為に提供する


 七つの施しの最初は眼施」、やさしいまなざしです。「目は口ほどにものを言い」とか「目は心の窓」という言葉のように、人間の心は、眼の表情によくあらわれます。心のありようはまなざしにあらわれるということは、やさしい心にならないとやさしいまなざしにはならないのです。
 誰にでもできる二つ目は和顔施です。ほほえみは和顔施です。人の気持ちを穏やかにさせたり、気分良くさせることは自他共にしあわせになる為の秘訣です。幸せな人とは、まわりに幸福の影響を与え、自分も喜びを感じながら安心して生きていられるのです。
 
言辞施とはやさしくやわらかい言葉の意味や大切さを教えるものです。一つの言葉で人をなごませもするし、怒らせもする。言葉には意味だけでなく感情も付随しますから、好きって言ったら余計に好きになってしまうものです。こころよい言葉がある一方、不快な感情を伴う言葉もあります。たとえば、「イヤだ」「疲れた」「運がない」「嫌いだ」「ダメだ」などと不快な言葉を口にしたとたん、自分自身に不快な感情を呼び起こして自分が勝手にストレスをつくってしまう。気持ちというのは言葉に表れる故に言霊(ことだま)とも言うのです。
 
心施とは心をこめておこなうこと。布施の心については「三輪清浄」という教えがあります。それは布施をする施者とそれを受ける者と、布施をする物の三つがともに清浄でなければならないということです。「私があの人にこんなことをしてやった」というのでは清浄の布施にはならないというわけです。
 
身施とは身体で施すことです。荷物を持ってあげたり、お茶を入れてあげたりという小さなことも、人の心をおだやかにさせ、気分良くさせてあげることのできるすばらしい布施なのです。
 
床座施と房舎施とは座席をあけて譲る、家に泊めてあげるという布施です。人を家に泊めてあげるということはさまざまな面でなかなか大変なことです。大変なだけにおもいやりや配慮を泊める立場から学ぶことにもなります。

 財有るものは、財に応じてそれを布施することが社会全体の調和を守っていくことになりますが、無財の七施は、財産の無い者の七つの施しと読んでは間違ってしまいます。やさしい心でやさしく暮らすことのできるこの身体というすばらしい財の七つの布施と受け止めるべきでしょう。
玉簾の滝