六波羅蜜(彼岸)

 『暑さ寒さも彼岸まで』 春分と秋分の日は、一日の昼と夜の長さがほぼ同じです。しかも、太陽は真東から上り真西に沈みます。こうした右にも左にも偏らない自然現象をお釈迦さまの説かれた教えと重ね合わせ「中道」の思想のお彼岸という仏教行事になったようです。考えてみれば、この世界のすべてのものは、上下、前後、好き嫌い、重い軽い、左右、善悪、明暗、交感神経と副交感神経などというように対極するものの中でバランスをとっています。対立するどちらにも偏らず、どちらも見ながらどちらも生かしていく歩みを「中道」というのです。

 お彼岸とは「パーラミーター」という古代インド語を漢訳したものです。摩訶般若波羅蜜多心経の波羅蜜多(はらみった)のことであって「到彼岸」と訳します。仏教では、いろいろな欲望や迷い悩み多いこの現実世界を「此岸」(しがん)といい、苦しみのない理想世界を「彼岸」(ひがん)と教えます。迷いの此の岸を去って悟りの彼岸に渡り達するという意味になります。
 彼岸に渡る方法として、1.布施(めぐみ)2.持戒(つつしみ)3.忍辱(しのび)4.精進(はげみ)5.禅定(しずけさ)6.智慧(ちえ)の六波羅密あるいは六度と中しますが、この六つの実践が人生の「中道」ということになるでしょう。

1. 布施とは、施し尽くしても結果を求めない。世間には「私は施したくても施すものがありません、世話をしたくてもそれだけの力がありません」と言う方もおりますが、日常人々に笑顔で接したり、荷物を持ってあげる。お年寄りには手をかし席を譲るということも布施なのです。われもひとも共に喜ぷところに真の幸福があります。経済的に豊かであっても「他に施す」ことができなければ富める人とはいえません。
 無財の七施

2. 持戒とは、教えにつつまれて生きる。一般的には戒は「制止」と解釈しがちですが、正しく目覚め正しく生活するための規矩であり、禁止という規制事項を他から強制されるものではないのです。禅寺では玄関に「脚下照顧」の文字をよく見受けます。履き物をそろえるという意味もありますが、自己の足元を見るということは「持戒」にほかなりません。

3.忍辱は、忍辱は辱めを堪え忍ぶという字義ですが、辱めを自我の堪忍袋に入れるのではなく、「空性」なる無我の堪忍袋に入れて忍辱によって心を浄めることです。いわゆるこの忍辱は我慢とは違います。忍辱とは、単に耐え忍ぶということではなく、ののしりや辱めを受けても相手に悪意や怨みをいだかないでよく耐え忍ぶ道であり行です。

4. 精進は、道元禅師は精進を「諸々の善法において勤修すること無間なるを精進」であると示されます。ただ頑張るというのは努力にはなりますが精進にはなりません。精進の本来の意味は「正しいことに向かって怠ることなく努力すること」です。何に努めるのか、その努力の方向が誤っていたら、頑張るほど道からずれてしまうことは申すまでもありません。

5.禅定とは、身と呼吸を調え心が静かに坐ること。日々のあわただしい中であっても、わずかの端坐で心を落ちつけることができます。心が静かになると本来の感性がよみがえり、今まで聞こえなかった鳥の声や風の音が聞こえてきます。今まで見えなかった諸法もしっかり見えてくるのです。

6.智慧とは、仏の深い洞察力です。『正法眼蔵(現成公案)』では「仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘るるなり ・・・」と示されています。自分の人生は自分で責任を持ち、自分で豊かにするしかありません。教えを説かれ護り伝えられた仏菩薩を恭敬することは当然ではありますが、畢竟、自分を認め、自分を励まし、自分を高め、仏性を開花させるるということは他ならぬこの「自分」ということです。


 以上かいつまんで六波羅蜜について申し述べました。
 国民の祝日に関する法律の中に、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」、秋分の日は「祖先を敬い亡くなった人々を偲ぶ日」と定められています。そして、現在の日本では春分の日も秋分の日も共にお彼岸の中日として、国民の間に定着し、宗派を超えてお墓参りに行くことが一般的な習俗となっています。
 お彼岸にはお墓参りをしますが、その時にかかせないのが、水、塗香、花、線香、飲食、灯明などを供えることは六波羅蜜を実践することになるというお示しもあります。 即ち水はすべての生育の基となるもので「布施」。塗香は悪臭を除き身心を爽快にするということで「持戒」。花は人の心をやわらげ、怒りを鎮めるのは「忍辱」。線香は火のともっている間は芳香を漂わせるので「精進」。飲食はオハギのような供物を食すと気分が落ち着くので「禅定」。灯明は「自灯明・法灯明」の教示のように、暗夜の荒海の中の灯台の如く、安心をもたらす確固なる拠り所たる「智慧」のことでしょう。 自分という存在はご先祖さまあっての自分であり、私どもを取り巻く自然もご先祖さまあっての存在です。お彼岸は、ご先祖さまあっての自分の存在に思いをはせ、生きているこの命に感謝をするという仏教徒にとって大切な行持なのです。


音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は 書かざる経を繰り返しつつ
(二宮尊徳)