お釈迦さまの教えのおなら≠フ作法 |

| 立川談志さんの談話の中で だいたい人間は、親が教えなくて済んでいること以外は全部学習する。親が教えないでOKなのは「心臓の鼓動」だとか、「呼吸」だとか「屁」とかね。屁をしちゃいけないという教育はあるけど「屁の仕方」っていう教育はない。という話がありました。 おなら≠フことを仏教用語では「下風」ともいい、「下風事風」(げふうじふう)という言葉もあります。おならをするについての作法を示していると聞きます。 「聞きます」というのは「下風事風」の原典を残念なことに確認できていません。ご存じの方は是非お教え願います。
ある時、お弟子たちが部屋のに集まって話しをしているのですが、誰もがブーブーと勢いよくおならをしながらおしゃべりをしているのです。それをご覧になっていたお釈迦さまがたまりかねて申されました。 「おならをするについては次のことを心してするように・・・。 ◇ まず、香りの強い食べ物はできるだけ食べないようにすること。 ◇ 人々と部屋にいて、突然おならをしたくなったら、がまんをしなさい。もし、どうしてもがまんできな いなら、早く部屋を出て、外でするように・・・。 ◇ おならをするとき、ひざを浮かせて、ことさら大きな音がするようにしてはならない。 ◇ 食事をしている最中におならをしたくなったら外に出てすること。このときも、食事をしている人達 に聞こえるような、ひざを浮かせて大きな音をさせてはならない。 ◇ もし、人の前を歩いているときおならをしたくなったら、その人たちより後ろに下がっておならをす ること。人の前を歩きながらおならをして、クサイにおいを後ろの人にかがせてはならない。 下風の声 投子山大同禅師(西暦819〜914)は英傑といわれる禅師でありました。この投子禅師に、ある一人の坊さんがやってきて、投子禅師に質問したのです。 僧「一切の声(せい)は、是れ仏声(ぶっせい)なりと、是(ぜ)なりや否(いな)や」 投「是!」 これが問答の始まりです。この宇宙に生じる一切の音という音は、すべて仏の声といいますが、和尚はこれを是(イエス)とするか、否(ノウ)とするか、という質問になります。これに対して投子禅師は「是」と答えられたのです。 道元禅師の「峰の色 渓の響きもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と」という御歌のように、見るもの聞くものがすべて釈迦牟尼仏の声と聞き、お姿と受けとめられるというところのものは、悉有仏性−−ありとあらゆるものは、仏性であるというのが大悟する人の一致するところでありますから、「一切の声は、是れ仏声」に一点の疑いもありません。 そうすると、僧は次の質問を重ねるのです。 僧「和尚、屍沸碗鳴(とくふつわんめい)の声なるとこ莫(な)きや」 投子、便(すなわ)ち打つ 僧は「そうなれば、和尚、下風なる声もやっぱり声であるでしょうね」とやったわけです。 それに対して投子は「この馬鹿ものめ」とぴしゃりとやって示したのです。けれども、打たれた僧も、一大事の質問でありますから、ひとつぶたれたぐらいで引っ込むわけにもいきません。 僧、又問う。 僧「麁言(そごん)及び細語は、皆な第一義に帰すと。是なりや否や」 投「是!」 麁言とはおおざっぱな表現、細語は麁の反対で丁寧親切な言葉の意味です。即ち「一切の言葉は麁言であろうと細語であろうと、すべて仏法の第一義のものであるというが、それに相違ありませんか」と言ったのであります。 僧はまず、言質を押さえておいて、本論に入ろうという魂胆なのであろうが、投子はそれに「汝の申す通りである」と答えるのです。そして、僧としての本論である最後の問答となるのです。 僧「和尚を喚(よ)んで一頭の驢(ろ)と作(な)し得る麼(や)」 投子、便(すなわ)ち打つ 「驢」とはロバの驢ですから、「うすのろ」というような意味であって誉め言葉ではありません。つまり、僧は「どんな言葉も仏法第一義の表現だとすればですね、あなたを一頭の驢馬と言ったらどんなものでしょう。この呼び方もまた第一義と喚んでいいはずですね」というような質問になるでしょう。「投子、便(すなわ)ち打つ」
盲腸手術の後での「一発の下風」とは有り難い「仏声」です。しかしながら、仏声の聞こえない人に「下風も悉有仏性也」と言うと珍事惨事になってしまうのです。 ... この馬鹿ものめとばかりに、僧にぴしゃりとやった。そして、この問答はこれでおしまいです。 「屁問答」とはいえ禅問答、解釈をしても尚も不可解ではないでしょうか。 打たれた僧も、打たれて覚ったという気配もない。なぜ打たれたのか、さっぱりわからないのです。 しかし、投子の二度にわたる「便ち打つ」は実は懇切丁寧な指導なのです。 世間の男子トイレの小便器の前には「急ぐとも 心静かに手をそえて 外へもらすな 松茸の露」という張り紙を目にします。これは「するな」「禁ず」ではない、和歌を使ったゆったり感が、せっぱ詰まった者に対しての呼吸をととのえる効果を生みだしています。冬季、雪国では道ばたに黄色いおしっこの痕を見かけることがよくあります。新雪の清らかさとは裏腹な痕跡は誰でも不快には違いないでしょう。用を足した後にちょっと気を配ればすむことなのですが、頭でわかっても行動がともなわない「へ理屈」には「便ち打つ」しかありません。 「便ち打つ」ということもここでは手段であり方法であるとしての示唆を含んでいるのです。 |
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| 蔵王の樹氷原コ−ス 平成17年2月9日撮影 |