人間の澱(おり)について

「貧ふして諂らはざるはあれども富で奢らざるはなし」
 正法眼蔵随聞記

 道元禅師は如淨禅師より正法を受け嗣がれますが、如淨禅師から「国に帰って法を広め、衆生を利益せよ。市中など繁華なところには住むなかれ。国王大臣に近づくなかれ。深山幽谷に住すべし、ただ真箇の道人に法を伝えて我が宗を断絶せしむることなかれ」と示されます。
 如浄禅師から嗣法した教えとは釈尊正伝の仏法であり、只管打坐の坐禅こそ正門であり大安楽の法門であるとして『普勧坐禅儀』を著 し坐禅の方法や心得をひろく大衆に説き勧められるのです。  1230年(寛喜2)ごろに建仁寺を離れて深草の安養院に移られます。 これより、主著『正法眼蔵』の著述を開始し、正法の普及に尽力されるのです。やがて深草に一寺を建立し観音導利院興聖宝林禅寺としますが、天台宗徒の弾圧を避けるためと、また波多野義重公の切なる拝請もあり、寛元元年(1243)錫を越前の山中に移します。寛元2年、越前志比庄に大仏寺を建立され 1246年(寛元4)6月、大仏寺を永平寺と改めます。一箇半箇でも、真の求道者に正伝の仏法を伝える熱意に燃え、「正法眼蔵」の著述に心血を注がれました。そして北越入山5年後の1247年(宝治1)北条時頼の招きを受けて一時鎌倉におもむきますが程なくして(約6ケ月)再び越前に戻られました。

 その時にこんなエピソ−ドがあるのです。
 道元禅師は如淨禅師の「国王大臣に近づくなかれ」という教えを守り、越前の永平寺において真実仏法の興隆と後継者の育成に力をそそがれておられました。上記のように、禅師48歳の時、波多野義重公のたっての頼みに応じて約半年、鎌倉で教化につとめられるのです。権力に近づかぬように心がけられていた禅師ではありましたが、北条時頼は21歳の若さで執権という位に就いた身であり、権力争いなどに疲れた時頼を救いたいとの慈悲心から鎌倉に赴かれたのでしょう。時頼は深く道元禅師の教えに帰依し、鎌倉に京都の建仁寺と対になるような立派な寺を建てて開祖としたい懇願されるのですが、丁重にその申し出を断られ、越前の永平寺に戻られます。
 ところが、その後、弟子の玄明が喜びいさんで時頼からの越前の土地の寄附状を持ち帰るのです。これは−− 越前の広大な土地を仏法興隆の為にお使いください。そして是非、鎌倉にも法を説きに来てほしいという道元禅師を思う時頼の善意であったことでしょう。寄進状を持ち帰った玄明は得意げに、あちこちで自慢話もしたのかもしれません。そのことも、師を思ってのことだったでしょう。しかし、道元禅師はその名利心を深く咎めて、玄明を追放処分すると共に、玄明の坐禅していた床下の土を掘り捨てさせること七尺に及んだといいます。

 最近の禅の本の中で、道元禅師のこの行動を下記のように評していました。
「この道元の行動には好悪(こうお)があって当然だろう。これを、名利を嫌った道元の高潔さを示す逸話と言い切ることは筆者にはできない。「その床下の土を掘り捨てること七尺」という部分には、道元その人の中に潜む、底深い人間の澱(おり)のようなものを感じずにはおれない」と評していました。
 或いは、超有名な仏教評論家は「禅と法華教」の中で
それで腹を立てた道元は、玄明を下山させ、玄明の坐禅する場所を取り去り、床下の土を七尺も掘り下げて捨てさせたという。いささかクレイジ−(狂的)である。道元にすれば、鎌倉に下向して自分がピエロ的に扱われた。たった寄進状一枚のために権力に迎合したかのように、彼は自分の行動を自虐的に受け取っている。そこに玄明が、寄進状をみせびらかすに及んで、彼は自分の恥部を見せつけられる想いがしたのであろう。その気持ち、わからぬでもない。でもさ、やっぱりクレイジ−だよね。

 「親の心子知らず」というがごとくで、拙僧は受け止め方がまったく違います。

 「国王大臣に近づくなかれ」という如淨禅師の訓戒を守られたということは、道元禅師は人間の本性というものを深く透徹されておられたからのことでしょう。権力者にへつらう心こそが名利を求める心と表裏一体となって仏法を破り、後に禍を残すとして、正法を求める弟子達に深く刻みつける方便としてなされた行動と思うのです。 先の筆者は「道元その人の中に潜む、底深い人間の澱(おり)のようなものを感じずにはおれない」と評していますが、「人間ならば誰しもが因縁生としての澱(おり)があるからよくよく気を付けよ」ということであろうと受けとめています。

 先の筆者と私の受け止め方の異なる根拠を少し示してみます。


 《道元禅師求法の頃の時代背景について》 

 道元禅師(1200-1253)は比叡山を下りてから日本臨済禅の開祖栄西禅師(1141-1215)の高弟明全について禅仏教を学び共に正法を求めて入宋します。栄西禅師は渡航が困難な時代にあって、二度も入宋した超エリ−ト僧であり、頼朝の妻で尼将軍といわれた北条政子や源頼家などを味方に付ける政治的才覚の持ち主でもありました。時は天台宗僧兵の圧迫も強く京都での布教も困難となると鎌倉幕府に接近、その庇護のもと京都に建仁寺を建立、さらに東大寺の僧正にまで出世しています。天台座主の慈円は、その著「愚管抄」で栄西禅師を「増上慢の権化」と非難し、大師号の沙汰に対しても反対します。それでも栄西禅師は生前に称号を合法的に受けて臨済禅を確立するのです。栄西禅師には天賦の政治的才覚で、当時の国家権力を十二分に活用したしたたかさがうかがえます。日本仏教における禅の確立ということからみれば時代意識も権力機構の認識面からいっても天才であったことには違いありません。
 この栄西禅師を道元禅師はこう見ていたと二祖様は「正法眼蔵随聞記」に示されています。
 ある日、建仁寺の栄西のもとに貧しくやつれた男がやってきた。何か恵んでくれと言うのである。栄西はその男に薬師如来像を造るために用意していた銅財を与えてしまった。その処置に修行僧らが驚いて、つめよったところ、栄西は「仏の心を思えば、そうするより仕方がなかった。たとえ自分が仏罰で地獄に落ちようと悔いはしない。あくまでも衆生を救うつもりだ」と諭したという。
 道元禅師は栄西禅師の戒律の厳しさと、衆生への慈悲をのちのちまで懐かしみ、称揚した。と・・

 道元禅師が栄西禅師の高弟明全和尚について建仁寺で学んでいる時(1217-1223)とは、源実朝(3代将軍)が甥の公暁(父は2代将軍頼家の子)に暗殺(1219)された時期です。鎌倉幕府を開いた源頼朝が1199年に亡くなると、2代将軍に就任したのは頼朝の嫡男頼家であったが、北条時政(頼朝の妻、北条政子の父)は頼家を伊豆修善寺に幽閉し殺害・・。頼家の弟、実朝を将軍に据え自らは幕府の実権を掌握します。だが、時政は実朝を廃して娘婿を将軍にしようとしたことで時政の嫡男義時の反発を受けて失脚します。源氏将軍3代の血統が途絶えたことを期に、後鳥羽上皇は幕府から実権を取り戻そうと倒幕(1221)の兵をあげます。これを「承久の乱」といい道元さま22歳の時のことです。戦いは朝廷の敗北となり、上皇は破れて隠岐にながされ、以後鎌倉幕府が倒されるまでは北条家が実権を握ることになるのですが、実に世相は動乱の時勢でありました。
 実は道元禅師は関白のあとつぎになるようになっていたといいます。そうゆう教育を周りは考えていたのでしょうが、それを逃げ出して横川(よかわ)の叔父さんのところに行くのです。しかし、叔父さんも出家を思い止めようとなされた。それを道元禅師は「母の遺言」と言って出家されたのです。道元さまは明全らと本格的に禅の修行を求めて宋に渡ったのは24歳の時でした。

 当時大乗教というのは法華宗と言われた天台宗と華厳宗が最上といわれていた。そこに弘法大師が真言宗を伝えられるのです。その中において「只管打坐」はどのようにすぐれているのかという問いに対して正法眼蔵弁道話の中で 「しめしていわく、しるべし、仏家には、教えの殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」と示されるのです。正法の主張により比叡山の圧迫は更にきびしくなったこともあったのでしょう、如浄禅師の遺言通り、興聖寺を開かれて10年、深山幽谷の北越山中に道場を開かれて弟子の育成と「正法眼蔵」の著述に邁進されるのです。
 ところで孤雲懐奘がはじめて道元禅師を訪れ法戦を挑んだのは1228年(安貞2)です。懐奘は日本達磨宗2祖覚晏の高弟です。この頃、覚晏は天台宗の弾圧を避けて大和(奈良)の多武峰の妙楽寺に身を寄せていましたが、今度は興福寺衆徒の焼き討ちで多武峰を退去します。懐奘が道元禅師を訪ねたのはこの焼き討ち直後であったと伝えられます。実に騒々しい動乱の世相であります。けれども、道元禅師は他教に対しては「どの宗の教えがすぐれているとか劣っていると云うような比較論争があってはならない」と示されておられるのです。他宗のお祖師様にはないお示しです。
 道元禅師は帰宋後、すべて透徹された上で「国王大臣に近づくなかれ」を守られ、正伝の仏法の為にあえて福井の山中に入られたのです。建長2年(1250)、御嵯峨院は禅師の徳風を慕い、勅使を永平寺に使わし紫衣を賜わりました。禅師は再度固辞したのですが、勅使三度に及んだことから、礼を失うに至るを懸念されこれを拝受されたと伝えられます。しかし、紫衣は一生高閣に蔵めて用いることはなかったと伝えられています。

 《道元禅師の著書から》

 正法眼蔵(山水経)の巻の中に、「むかし徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみしすなわち、華亭江の賢聖をえたるなり、魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや」という文章から引用します。
 徳誠和尚というのは薬山惟儼(やくさんいげん)の法嗣です。この徳誠和尚が夾山善会(かっさんぜんね)という法嗣を得る話になるのですが、おおまかに話を進めます。

 唐の天子が道教を信じて仏教寺院を破壊し僧侶を強制的に還俗させた「会昌の破仏」の仏難の為に徳誠和尚は薬山惟儼のもとを離れて華亭江で渡し船の船頭をしていました。
 同じ薬山門下の道悟円智と雲巌曇晟も行脚していました。たまたま秀州の京口寺に住した夾山善会の上堂に居合わせます。その上堂にてある僧が質問します。道悟は善会のあまりにも型にはまった答えに思わず失笑します。それを見た善会は法座を下りると威儀を正して道悟に問うのです。道悟はそれに対して「私には同門下の僧がいる。今は華亭江で渡し船の船頭をしながら学人を待っている。汝がそこにいけば必ず得るところがあるであろう」と教えるのです。
 夾山善会という和尚は本当の求道者であったのでしょう。道悟の教えに従い華亭江に向かいます。船頭徳誠が善会を見るとさっそくいろいろな問答となるのです。
 ・・・ 「千尺の糸を垂れる修行は深い淵の真実を求めるからだ」 という善会に対し、船頭徳誠は 「三寸の釣り針(舌先)を離れてなぜ真実をいわないのか」 と詰め寄ります。そう言われて善会が何か言おうとすると徳誠は善会を水の中に突き落とすのです。善会がやっと水から頭を上げると徳誠はまた「いえ、いえ」と迫ります。善会がまた言おうとすると徳誠はまた打つのです。その時に、善会は忽然として大悟したというのです。
 そこで善会は問うのです「釣り糸や釣り針をあやつるあなたの真意は何なのか」
 徳誠が言います。「私の仏法を受けとめる人を待つ思いである。汝、速くいえ、速くいえ」
 善会は「言葉には深い意味があるが、これを述べようと舌で話そうとしても話にはならない」 
 徳誠が言います。「河の水をつりつくして(無所得の坐禅をして)自己の正体に出会うのである−−今後は人の多く集まるところに住することなく、一箇半箇を接取して断絶せしむることなかれ」と諭すのです。
 善会はこれを領とし、お礼を言って岸に上がります。何回も何回も振り返り遠離っていきます。
 師がついに呼びとめます。善会が振り返ります。
 徳誠は「汝、道ふべし、別に更に有ること在り」。言い終わって自分で船をひっくり返して波間に沈んだというのです。
 仏難の嵐の中でも、正法を伝えたいとの切なる思いは、渡し船の船頭になってでも持ち続け、更にこの教えを深く刻みつけるための方法としての命をかけての説法であったのでしょう。正法眼蔵の話の中でも実に感銘深い話です。
法体の滝  H10年撮影

 道元禅師は名門の関白の出身ですから、勅許を受けて正法を広めることも、あるいは考えておられたかもしれません。いや、全く眼中には無かったかもしれません。学問というのは統計であり憶測ですから、勝手な観念でこうだろうとか、ああだろうと論評しますが、結局は人それぞれ自分の身丈ほどの見方しかできないものでしょう。私もまた然りではありますが、マ−フィ−の法則という中に「完全に理解している人だけが、それを説明できる。ゆえに、ほかの誰もそれを理解できない」というのがあります。悟られたかたの心境や境地とは凡人の伺い知るところではないでしょう。それは、それとして・・
 貪名愛利の葛藤となっていた伝統集団の対立する勢力は好むと好まざるとにかかわらず大きかったと思われます。それは、いわれなき天台衆徒の弾圧という形を招くことになります。そして、深草の興聖寺を去り、錫を越前の山中に移すことになったときに、正法を何としても残さなければならないと思われたときに、先の船頭徳誠の話を惹かれたのではないでしょうか。
 
 道元禅師は他の禅僧のような天衣無縫とか、人を人とも思わないような反骨禅、あるいは勇猛禅というような禅ではありません。それに、著書「正法眼蔵」はあまりに難解でありますから、凡愚の私どもの理解がなかなか及ばぬ境界ではあります。けれども、その「正法眼蔵」にちょっとだけ触れた感じを率直に語れば、道元禅師は大智の人であり、大慈悲の宗教者であると私は受けとめています。
 「おろかなる吾は仏にならずとも 衆生を渡す 僧の身なれば」
 私にとっては、この一首を見るだけでも「澱がある」とは思いもしません。禅師は常に、菩提心を起こすべきことを示されています。この「発菩提心」というのは「自未得度先度他のこころ」、つまり、「自ら未だ渡るを得ざるに他を先に渡す」、そうすることによって自らも救われると述べられているのです。 又、『正法眼蔵』観音の巻には「不留朕跡」(朕跡を留めず)という言葉があります。この意味を俗的に解釈すれば、「泥棒であれば足跡を残さないように苦心し、人間は自分の足跡を見せびらかして、自分を偉く見せようとする。それに対して、ほとけは大悲をもって社会に奉仕するが、それを人に知られようとはしないものだ」というような意味です。又、仏道をそれて利欲にはしり、おごりふける者に対しては「たとい権実(ごんじつ)の妙典を読むことあり、顕密の教籍(きょうじゃく)を伝うることあるも、いまだ名利をなげうたざれば、未だ発心と称せず」(用心集)と示されるのです。禅師は発心がそのまま得道であり、捨てきることが得ることである主旨を語られています。
 
 時の執権北条時頼から、京都建仁寺と対になるような大寺を建立してその開山としてあげようなどといわれれば、金襴のお袈裟が好きな和尚なれば目尻がさがろうというものでしょう。さらに北条時頼より道元禅師に越前六条の地を寄進しようと言う申し出も、道元禅師はその厚意も丁重に辞退して受けられなかったのです。翻って見れば、凡なる人の「人間の澱」の噴出はマスコミを年中賑わしています。
 「随聞記」には「世間に自体財宝に豊かに福分もある人は、眷属も囲繞し人もゆるす。それを是としおごるゆえに、傍らの賤しき人はこれを見てうらやみいたむべし」 「亦心にきょう心(きょうの字はりっしんべんに橋の右側を書く、意はおごる心)はなけれども、ありのままにふるまえば、傍らの賤しき人はうらやみいたむべきなり。是をよくつつしむをきょう奢をつつしむとは云うなり。我が身の富は果報にまかせて、貧賤の人見てうらやむをはばからざるを、きょう心と云うなり。」 《略訳「お金や福徳ある人の処には、蜜に蟻がたかるように人が集まる。その集まった人達は、腹の中ではどのように思うとも逆らうということはない。そこに我が儘勝手が生まれ増長する。しかし、当人は是としているから、我が儘であることには気づかない。」「亦、奢る気持ちは少しも無いのだけれども、勝手気ままに振る舞えば、かたわらにいる貧しい人たちは羨み迷惑に思うであろう。このところに十分配慮することを奢りの心をつつしむというのである。自分が富んでいることに無責任に、貧しい人が見てうらやましがる心に無神経だったり、これを無視するような心を、思い上がりの心というのである。」》と教示され、「学道の人はまず須く貧なるべし、財おほければ必ず其の志を失う」と道を学ぶ者へ説示されるのです。学道
の人であっても捨てるということや放棄することの実行はたいへん難しいことです。であればこそ道元禅師は「学道の人はまず須く貧なるべし」と繰り返し繰り返し倦むことなく説き続けられるのでしょう。

 ここのところは、自説に自信のある評論家には理解の難しいところでしょう。「道元の清貧に対する絶対的な要求の厳しさには従うことはできない」などと勝手な注釈をつけられるが、これは在俗の評論家に対しての示しではない。まして、「法然に念仏の時、眠気に襲われ念仏を怠ってしまうことがありますが、いかがしてこの障害を止められましょうか」と、ある人が聞いたところ、「目が醒めたら、また念仏すればよいのです」と答えたという。これこそ本当の名僧の言葉という気がする」などと自分の好き嫌いで解釈をされている。どちらが好きとか合理的かなどと比較しないことです。理が違うのですから家風ととらえるべきではないでしょうか。
 豪雪地の雪の苦労は雪国に住む者でなければ理解できないでしょうが、同じ越前でも日本海に面するところは雪も少なく冬でも水仙の花が咲くのです。何故に道元禅師はよりによって雪深い山奥を選ばれたのでしょうか。・・・ 道元禅師の心底には、純粋に只管打坐の仏法を修行し、真の道人を育てる為には、国王大臣(権力・財物)に近づくことなく、都からは離れてもっと山奥に入らなければいけないという本願があったのではないかとも思うのです。昔も今も一個半個の真の道人とは限られることのように思いますが、道元禅師は本当の道人だけを相手に修行したかったのでしょう。人間の名利心を深く洞察されていたからこそ、「その床下の土を掘り捨てること七尺」ということを以て、「人間の因縁生の性(さが)としての澱(世人の情)に気を付けよ」と厳罰に処されたのでしょう。名利を求める心によって、法がゆがみ、すさんでゆくことを心配されたからではないでしょうか。玄明個人に対しては道元禅師はきっと熱い涙を流されたことでありましょうが、真実の仏法を伝える為には止むを得ず、法孫がけっして忘れることのないようにと強く示唆されたものと私は受けとめます。


 宝治2年(1248)3月14日、鎌倉行化から帰山された翌日の上堂語にて「・・・ 山僧出で去る半年余、猶孤輪の太虚に処するが若し、今日山に帰れば雲喜ぶ気あり、山を愛するの愛初めより甚だし」と示されます。道元禅師の鎌倉行化は禅師の本意であろうはずでなかったことは、この上堂語の全体にもあらわれているところですし、この時期『正法眼蔵』の撰述は、寛元四年(1246)の「出家」の巻以後、建長五年(1253)最後の「八大人覚」の巻まで七年間も撰述されていないのです。この時以降、道元禅師の姿勢は古風を慕っての弁道と清貧なる家風づくりにいっそう力をそそがれたのでしょう。 当時のご心境を歌われたという句に「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」 という和歌があります。そこには禅師の澄みきった境涯が漂うばかりで、クレイジ−(狂的)な俗的あつくるしさなどは微塵も感じられません。


 明治35年(1902)、高祖大師650回忌に明治天皇より「承陽」の勅額が下賜され、その際、大遠忌法要に随喜していた十名が発願して、時の貫首森田悟由禅師に玄明首座の恩赦を誓願しました。悟由禅師は玄明首座に代わり高祖大師の真前で大展懺謝をされ、六百五十年ぶりに赦免されることになったといわれています。