親孝行したくないのに親がいる・・
蔵王山頂の地蔵様と樹氷原 H17.2.9
ほろほろと鳴く山烏の声きけば
父かとぞ思ひ母かとぞ思う

 という古歌があります。
親思う 心にまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん
 この句は、明治維新の志士、吉田松陰の辞世の句であります。
 しかし現代は、教育の為と言い訳をする虐待事件が頻発しています。日本語の「そだつ」とは「添え立つ」から生まれたといいます。親がしっかりと添え立ってこそ子供は育つはずなのに、その親が育っていないからでしょぷか・・「親孝行したくないのに親がいる」とうそぶいてしまう。少し昔、「烏なぜ鳴くの、烏の勝手でしょ」という戯歌がありました。勝手たるものとは自我でありエゴです。「親にしていただいた」ことを忘れて不平不満をつのらしますが、「恩を返したこと」を語れるのでしょうか。
 ある晋山式の上堂問答に「人生に一番大切なものは何か?」と問われた新命が「ハラ・ハラ・ハラ、ハラばかり!」という説示がありましたが、今や、その「ハラ(腹)」はセクハラ、パワハラ、ドクハラ、アルハラなどのアカハラ(アカデミック・ハラスメント)になってしまったようです。嫌がらせ、弱い者いじめ、虐待といった陰湿残忍な事件が相次いでいますが、価値基準を自分の感覚だけにおくことを自由とは言わない。自由とは「自らに由る」ということです。その由るべき自己が自我で凝っていたら「不自由」になるのです。

 昔、ある人が娘を嫁にやるというので、人の道を説く先生のところに娘を行かせ、嫁に行ってからの心がけを教えてほしいと願った。娘が帰ってきてから、お父さんが聞いた。 「どんなことを教えてくれた?」 「お嫁にいっても親孝行なんかしてはいけない、と教えてもらいました」。 それを聞いたお父さんは・・カンカンになって先生のところへ行った。
「あなたは偉い先生だと尊敬していたが、とんでもない人だ。嫁にゆく娘に親孝行しちゃいかんとは、それなら親不孝をするというのか!」 先生は「馬鹿なことをいいなさんな。孝行さえしちゃいかんのだから、親不孝はなおさらしちゃいけない」 ・・・ と。

  この偉い先生はいったい何を示そうとしているのでしょうか・・
 

 ところで梵網経の中には「もし仏子、一切の疾病の人を見て、常に供養せんこと仏における如くにして更にことなることなかるべし、八福田の中にて看病福田は第一の福田なり」と示されます。
 福田というのは幸福が生じる善い功徳の種をまくにふさわしい田んぼという意味です。
この福田には、敬田(きょうでん)恩田(おんでん)悲田(ひでん)の三福田があります。敬田というのは、1.仏  2.聖人  3.僧 に供養すること。 恩田は、4.師匠 5.あじゃり 6.父 7.母 に恩返しをすること。悲田は病入の看護をすることです。そしてこの八福田中にあって、病入の看護が第一であるというのです。
故に「父母の恩を知ることこそ道のはじめである」ということを合せて考えると、父母の看病というのは、自分の本業に専心することよりも、経典読誦よりも功徳があるということになります。

 父母恩重経の最後のところには「汝等大衆能(よ)く聴けよ、父母の為に心力を尽して有らゆる佳味(かみ)美音、妙衣(みょうえ)車駕(しやが)宮室(きゆうしつ)等を供養し、父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、もし未だ三宝(仏、法、僧のこと)を信ぜずば、猶(な)を以て不幸と為す」とあります。
 父母に対し、あらゆる栄華の孝養をつくしてもなお、この大恩に報いることはできない。しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、貪りをすてて施しをするその喜ぶ心を得さしめることが出来れば、はじめて父母の大恩に報いることができる。そして無上の功徳があると説かれます。
 悟りにしても、俺は悟ったと思うようなら既に悟りにはなりません。同様、孝行を私はしていると思ったら、それは本当の孝行とはいえません。恩というのは字の通り「原因の因を心の中にかみしめてみる」という字であり、その辺をポイントに「父母恩重経」を読んでいただければと思います。

世の若人よとく往(ゆ)きて父母の御前(みまえ)にひざまずけ、世の乙女子よいざ起(た)ちて父母の慈光(ひかり)を仰げかし、老いて後、思ひ知るこそかなしけれ、此の世にあらぬ親の恵みに          
報恩の道(意訳父母恩重経)へ


蔵王樹氷原 H17.2.9