三法印(三つの真理)
    明日ありと思う心の徒桜
       夜半に嵐の吹かぬものかは
  

福島県三春町 滝桜 H17年撮影
諸行無常偈(雪山偈)

 釈尊がこの世で悟りを開くにいたった過去世の因縁としての物語の中で、一人の修行者が雪山(ヒマラヤ)でひたむきに修行していた。その真摯な態度に感動した帝釈天(仏法の守護神)は、悪鬼(羅刹)のすがたに身をかえて修行者の前にあらわれた。そして「諸行無常なり、是れ生滅の法なり」と雪山偈の半分を称えた。
 修行者はこの真理の二句を聞いて大いに驚き歓喜し、あたりを見回すがそれらしい人影はない。そこに立っているのはおそろしい姿の羅刹であった。修行者はおそるおそる鬼に話しかけた。「今の言葉はお前がとなえたのか」というと「そうだ」という。修行者は「今の二句は真理を説いてはいるが、それではどう生きたらいいかという後の二句が説かれていない。知っているなら是非とも続きを聞かせて欲しい」。鬼は答えた。「もちろん続きも知っているが、腹がへって続きを称えることができん」というのであった。修行者は 「それではお前の食べ物を私が探してこよう。一体何が食べたいのだ」と聞くと、「人間の血と肉を食べたい」と言う。その修行者は真理を求めるために命をも惜しまない覚悟の上で言った。 「それでは、私の身体をあげるから続きを聞かせてもらいたい」、鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽と為す」との大きな声があたりにこだました。修行者はこれを聞いて驚喜し、後世の人の為に四句を岩に刻み約束通り谷底に身を投じた。その瞬間たちまち鬼は帝釈天の姿になって、やさしく修行者のからだを受けとめ礼拝した−−。この修行者というのが前世で修行している時の釈尊であった、というのです。
 この四句を諸行無常偈といい、葬儀幡として当寺で行う葬儀にはセレモニーホールなる葬儀会館にても龍頭と共に掲げていますが、現今では周辺市町村でもほとんど見られないと言う現状は誠に残念であります。葬儀幡は四本幡(四幡)ともいい旗ではなく幡です。幡は仏菩薩を称え、教えを表示する意味を持っています。この無常偈は、修行中の釈尊を雪山童子(せっさんどうじ)といいましたので、雪山偈ともいわれます。

  諸行無常(しょぎょうむじょう)−−− すべての存在は移り変わる
  是生滅法(ぜしょうめっぽう)−−− 是がこの生滅する世界の法である
  生滅滅已(しょうめつめつい)−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
  寂滅為楽(じゃくめついらく)−−−  寂滅をもって楽と為す

 これを和訳したものがいろは歌だといわれています。 いろはにほへと ちりぬるを・・・ という、ひらがなを、重ね字なく並べて読みこんだ四十七字の歌を「いろは歌」といいます。昔は手習いの手本やカルタ遊びの読み札として用いられました。しかし、戦後の国語教育では、「ゐ」や「ゑ」という字が使われなくなり教えることもありませんから、この歌を知る人も少なくなりました。 ところで、このいろは歌を「仮名手本忠臣蔵」とも言うのです。なぜ忠臣蔵なのかというと、最初の紙に「いろはにほへと」と書く。次に「ちりぬるをわか」三枚目に「よたれぞつねな」となっている。この仮名手本の一番下の字をつないでいくと、「とかなくてしす」。つまり、「咎なくて死す」であって、赤穂四十七士は主君の仇討ちをした忠義の士となるというのです。主君の仇討ちという忠義の士を幕府は切腹の刑に処したという権力者への痛烈な批判が込められていますが、どこで切るかによって意味がまったく違ってしまう見本のようなものです。このいろは歌は、『諸行無常偈』和訳したもので、弘法大師の作とも伝えられますが、はっきりしたことはわかっていません。その真偽はともかく、甚深なる意味が含まれています。

   いろはにほへと ちりぬるを
   わかよたれそ  つねならむ
   うゐのおくやま けふこえて
   あさきゆめみし ゑひもせす 

 このままでは意味がわかりにくいので、漢字を当てはめてみると、

   色は匂へど 散りぬるを −−− (諸行無常)
   我が世誰ぞ 常ならむ  −−− (是生滅法)
   有為の奥山 今日越えて −−− (生滅滅已)
   浅き夢見じ 酔ひもせず −−− (寂滅為楽)

となります。

 「色は匂えど散りぬるを」花は爛漫と咲き乱れていてもやがて散ってしまうように、すべての存在はうつりかわる。苦も楽もいつまでも続くものではない。我が青春と肉体を謳歌していても、月日のたつのは実に早いものであるぞということでしょうか。
「我が世誰ぞ常ならむ」この世に存在するものは生滅する法(真理)です。釈尊は「一切のものは無常である。諸法は無我である。故にすべての存在しているものには永遠不滅なるものなどは内在しない」と示されます。
「有為の奥山今日越えて」−− 有為とはインド語でサンスクリタ(作られたもの)英語で言うと the created しかし、キリスト教のように神によって創られたものということではなく、仏教では縁起思想ですから、原因と条件が合するところに万物は存在する。因縁は常に加わりますから、それに応じて常に相(すがた)を変えています。すなわち「無常」です。この「無常」なるものへのとらわれを滅して因縁の道理を知る、真実の道理に目覚めることです。有為とは為す有りとも読めます。人間のはからいとは「人生とはどうしたって有為だ大切なんだ」というのでしょうが、無為というのは為す無しということです。そのことに一所懸命には勤めるがアテを作らないこと。アテを作るとどうしても手前みそになってしまうのです。
 「浅き夢見じ酔いもせず」寂滅をもって楽と為す−− 有為の奥山を越えて観るならば、苦しみ悩みは「夢のようなもの」「酔っぱらっていた」ようなものである。「寂滅」とはやすらぎということです。有為の選択の結果が「苦」の原因であったと諦観して他にとらわれるのではなく、自分の我を滅する。我が滅しられ、煩悩の火が吹き消えた状態で、一切のものごとへのこだわり、とらわれの心がなくなった状態、やすらぎ、無や空の境地を示しています。
福島県三春町 滝桜 H17年撮影

 お釈迦さまはお悟りをひらかれた後、まず最初に共に修行したことのある5人の仲間たち、それが最初の弟子たちなのですが、その修行者達に先ず正法を説かれました。それがいわゆる初転法輪(しょてんぼうりん)というものです。 その最初の説法で三法印という三つの真理を示されました。それが「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」です。お釈迦さまの教えの根本道理とは、この世の道理、仕組みををしっかりと心に持ちなさいという三法印(三つの真理)の教えです。

猊鼻渓 岩手県

 お釈迦さまは29歳で釈迦国の太子の地位を捨て6年の厳しい修行のあと35歳でお悟りを開かれました。それから45年の間、そのお悟りの尊い教えを説いて巡られ、やがてクシナガラの町外れサーラの林で80歳のご生涯を終えられました。その日は2月15日、満月の夜であったといわれます。お釈迦さまは別れを惜しんで集まった人達に最後の説法をなされました。
 「生まれたものは必ず死ぬのであって、誰しもが諸行無常(意・一切は変化する)の道理にさからうことはできない。それゆえ諸法無我(意・一切は所有できない)の道理をさとって欲を少なくしなければならない。そこに涅槃寂静(意・とらわれの無い永遠のやすらぎ)に入るさとりがある、と最後の説教にも三法印(三つの真理)を説かれたのです。


 諸行無常(あらゆる一切のものはうつりかわる)
 「諸行無常」とは前にも示したようにあらゆるものは変化するという意味です。人は昔より不老長寿を求め願いながら生きているものですが、某医師は「長生きするのは健康な証拠と考えるのは短絡的だ。長生きすればそれだけ病気にかかる率は当然増える。うっかりすれば長生きした分、病気で苦しむだけということになりかねない」と語るように、長生き即幸せとはいえないところがある。人生の「生老病死」が仏命というもので「生者必滅、会者定離」が諸行無常のあらわれということになります。
 諸行無常の人生をどのように生きるか。道元禅師は「観無常心は発菩提心なり」と示され、「わが命の露よりもはかなきことを悟ったとき、人は永遠の真実を求める仏心にめざめる」と教示されるのです。自分の命脈の流れ去る速さを実感するときには、生かされて生きる身命と共に生きる使命と価値を見いだすべく求道の心が自然に発ると示されます。

諸法無我(すべてのものはひとりでは存在しえない、多くの縁のおかげで存在する)
 執着の根元とは「我」であると示される。無常なる「もの」を我がものとして、あてを作り自分の尺度に都合のいいように執着するのを「我」というのです。人間の苦悩や争いの原因は畢竟「我欲」ゆえに相手の立場を軽んずる故に自ら苦の世界を作り出してしまう。人間であれば欲は必ずある。けれども、その欲をほしいままにすれば、俺が俺がの貪欲となってあげく憎しみ争うことになります。
諸法無我とは「一切は所有できない」とさとることが「有為の奥山今日こえて、浅き夢みし酔いもせず」ということになり、この迷いの山を越えれば、煩悩の夢にうなされることなく、やすらぎの目覚めになるということになるでしょう。

一切行苦(生きているものは苦しみを覚えるものである)
諸法無我と涅槃寂静に間に「一切行苦・一切皆苦」を加えて,四法印とすることもあります.
「一切皆苦」とは、人間は原則的に「楽」の受を求め、自分に心地良いようにと計らっているつもりが、悉く苦を生み出す諸源であるともいえるでしょう。諸行無常であり諸法無我であることを認識し、人生の味は「苦」を標準とすると本物の妙味が味わえるということでしょう。一切行苦は「四苦八苦」として示されますが、その諸々の苦を消してしまうのを「四諦」(四つのさとり)として示されます。その諦観を得るために、正しい八つの道の修行「八正道」を示されます。

 涅槃寂静(欲望煩悩の火が消えれば、身心は落ち着いてゆける)
 涅槃という言葉は簡単にいえばさとりです。つまり、自我以前の世界、自我を超えた世界といってもいいでしょう。 道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなり」とさとされました。「自分とは何か」で悩む人にとって「自分を放下する」ことが自己を習うことだというのは難問題でしょう。難しいところですが、簡単に言えば、執着する「我」に執着しなければ、もだえる自己は無くなります。
 黒沢明監督の言葉に「なぜ、人間は幸せになろうとしないんだろう。生きているのは、辛いとか何だとか言うけれど、楽しいもんだ。」との如く、四苦八苦の人生で辛苦を耐え忍ぶだけでなく、楽しみや喜びを他者と分かち合う為を眼目とした映画のように思うのです。四苦八苦にとらわれることがなければやすらかな人生となり、それを安楽と示されるように思うのです。

猊鼻渓 岩手県
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