天童山景徳禅寺(中国浙江省寧波、五山の第三位)の坐禅堂ではいつものように坐禅がおこなわれていた。坐禅中に居眠りをする修行僧もいるが、この日も坐禅の姿のままコックリコックリ居眠りをする僧がいた。いつもなら、警策は勿論のこと、時として草履でも打つ如浄禅師がこの日は鋭くその僧の背に叱責の声を発した。
 「参禅は身心脱落(しんじんだつらく)である。ひたすら眠りをむさぼって、なんの役に立つというのだ。覚触せよ」その声は坐禅堂いっぱいに響き、どこまでも響いていくようであった。その如浄禅師の声を聞いた時、道元のわだかまりはすっと一瞬のうちにすべて消え去り想念は忘却され眼前は黄金色に輝いていた。 坐禅が終わり、如浄禅師が方丈に戻ると道元はやや遅れて方丈に参上し、焼香礼拝した。−− 「作麼生(そもさん)」【道元よ、どうして焼香するのか】 如浄禅師が問うと−−「身心脱落」と道元禅師は申されました。−−「身心脱落・脱落身心」(しんじんだつらく・だつらくしんじん)如浄禅師は笑みを浮かべつつ、力強く答えられたのです。
・・ 道元禅師の大悟の機縁でありました。


 道元禅師が如浄禅師の「身心脱落」の一喝で大悟されたということを知ったのは大学2年頃のことです。この「身心脱落」の話を聞いた時には、自分には理解できずに「特別優秀なお方であるからそうゆうこともあるのだろう」位にしか考えられず、「悟り」の概念さえ全く理解できない時節だったことを覚えています。

 その後も、一休禅師は湖上を渡る鴉の鳴き声を聞いて忽然大悟したということを知り、公案等からも仏法を多角的に追求することになります。
 たとえば、香厳智閑禅師(きょうげんちかん)と霊雲志勤禅師(れいうんしごん)はともに中国唐代の禅宗僧侶ですが、禅門では古くから二人の悟りの機縁は「撃竹大悟(げきちくたいご)」「桃花悟道(とうかごどう)」の話として語られています。
 「撃竹大悟」の話というのはこうです。香厳があるとき、墓の前を掃除していて偶然瓦が飛んで竹に当たった。。香厳はその竹の響きを聞いて忽然と大悟したというのです。もう一方の「桃花悟道」というのは・・・ 時は春まっただ中、村里には桃の花が咲き乱れていた。霊雲はその咲き乱れる桃の花を見て、大悟したというのです。
 「撃竹大悟」「桃花悟道」の話は別のペ−ジでも掲載していますが、あなたは、竹に瓦があたった音を聞いて大悟したという話を信じますか?桃の花を見て大悟したという話についてあなたはどう思われるでしょうか?。 その点について少しふれてみます。

 岡山県倉敷市に古林智香さんという看護婦さんがおられます。小林さんは高校三年生のとき、看護婦さんになろうか、なるまいか、と迷います。なぜ迷ったかというと、「人間が人間を愛するということはどういうことなのか」 それがわからなかったからです。わからないままで看護婦さんになっても仕方がないのではないか、そう古林さんは思ったというのです。
 そんなある日、古林さんはある養護施設を訪ね、そこでひとつの事件に出会います。機能訓練室に入ると、五十歳を越したかと思われる看護婦さんが、足の不自由な子に歩行訓練をさせていたそうです。ところが、この子がなかなか歩かないで看護婦さんを手こずらせる、一歩出せたのにつぎの足を出そうとしない、なんとしても言うことをきかないのだそうです。そのうちその子は何を思ったか、近くにあった積木を取って看護婦さんに投げつけると、看護婦さんの額が切れてまっ赤な血が流れた−− と、その子は、こわくなって逃げようとして、瞬間二、三歩あるいたというのです。するとその看護婦さんは駆け寄って、「よかったね、歩けたね」と言って腕の中に抱きしめたそうです。これを見ていた古林さんは、この時「あの看護婦さんのようになろう」と決心し、迷わずその道をとったというのです。
 このいきさつの一切を古林さんは作文に書き、高校生の作文コンクールで″文部大臣賞”を受賞しました。「教育報道新聞」に発表された作文のなかで、古林さんはつぎのように言います。
 「愛するということの上にあった私の迷いは消えました。ほんとうに愚かな迷いでした。私は施設に勤めます。それは決して施設でなければほんとうの人間愛に近づけないということからではありません。私の迷いは自分の心の中に、真実の愛を見ることのできなかった愚かさからでした。この仕事を選ぶ限り、私はあの看護婦さんの生きる姿を手本として頑張ります 」

 ありがたい機縁です。こういう場面にぶつかるということは、古林さんがいっしょうけんめいに迷っていたからでしょう。そして機縁が至ったのです。ぼんやり生きている人の目には「ばかな子がいたものだ」くらいのことで終ってしまうのです。しっかり迷っているうちにその出来事に輪郭が備わり、それを他人に語るだけの言葉をが開かれると、人はその体験をより深めていくことができるようになるのです。
 「撃竹大悟」「桃花悟道」の話もそれまでの状態が一変した話しなのですが、現前の現象が一変に変わったわけではないのです。一変した時だけの悟りであっては、結局悟りの錯覚にすぎません。悟りの内容とは現前する真理をどうとらえるか、自分自身の真理としてどうとらえるかということですから対象は自己となります。そして、諸行は無常ですから「悟る」内容も変わっていきます。存在するものはみな仏性を備え、森羅万象は真理の表相ではありますが、竹の音や桃花を見たからといって誰でも悟れるわけではありません。竹の音や桃の花、或いは雷や雀の声、闇夜のカラスの声とはあくまでもきっかけであり、長い参学修行の結果として機縁が熟したということです。目からうろこが落ちるというような自己意識というのものも、一度我見の枠がちょっとはずれたからといって大解脱できるものではありません。法というものは入れば入るほど深くなるものです。「悟り」は深められ、拡大されていかねばならない。つまり、「悟り続ける」ことを修行というのです。

 ちなみに、霊雲志勤禅師(れいうんしごん)の悟りの偈を述べてみましょう。

 三十年来剣客を尋ね、
 幾回か葉落ち又枝に抽(よ)る。
 桃華を一見して自従り後、       
 直に如今に至るに更に疑わず。
〔大意〕
三十年来剣の使い手を探し求めた

毎年、葉は落ちて又芽吹いた 
桃の花を一目見てからと云うものは 
今に至るまで疑うものはない


 霊雲志勤禅師は出家の後、30年間修行しておりました。しかし、日々の移り変わりに心を惑わしていた自分を悔いているのです。そして、桃花を見てからのちは真実の自己に目覚め、いっさい迷うことはない、と述べておられるのです。 
 この偈(げ)に対して道元禅師は「見桃花悟道を詠ず」という歌を読まれています。
 春風に 綻(ほころび)にけり 桃の花 枝葉にわたる 疑ひもなし
 「春風に心の迷いが桃の花のようにほころび、枝葉の自然なように、自分の些細なわだかまりなどはない」と歌われているのです。煩悩なるとらわれが春風によって解けていく様を花にたとえられているのです。自然のありのままに感動するときには「自我」は消えている。「無心」というところで向き合っている。「無心」なればこそ「木人まさに歌い」「石女が踊る」世界が展開するのです。
 お釈迦さまは明けの明星を見てお悟りを開かれた。霊雲和尚は桃の花をみて悟りを開いた。香厳和尚は掃除をしているときに瓦のかけらが青竹にあたった音を聞いて悟りを開いた。芭蕉は蛙が古池に飛び込む音を聞いて悟りを開いた。蛙が飛び込んだ「ドブン」という音とは雷鳴の比ではなく、大宇宙が爆発したほどに芭蕉には感じたことでしょう。ところで、人生前向き主義、積極的人生の人々はそんな驚くべき世界の中で暮らしているのにいっこうに驚かない。積極果敢な人間は視野が狭まり呼吸は上がる一方です。坐禅の時にはそれとはまるで逆の構えということになるのです。悟りの実証とは心意識の奥底に蔵された仏性の開発ですから、仏教本を読んでいるだけでは本当は役にたたないのです。
 しかしながら、道元禅師の「正法眼蔵」仏性にこうお示しがあります。
仏のたまわく「仏性の義を知らんと欲(おも)はば、まさに時節因縁を観ずべし、時節若(も)し至れば、仏性現前す」と、そうして「仏性に出会う時節はかならずあるし、現前しない仏性などない」と力強く結んでおられるのです。これは出家道のみのことではなく、万人の人生の方向を示されているお言葉でもありましょう。



悟りは悟りを得たいと思わぬ時に得られるという有名な譬え話です
 ある木こりが山へはいって、あちら、こちらで木を切っていると、そこへひょっこりと妙な動物が出てきたという。これは見慣れない動物だと思って、「お前はなんだ」と声をかける。その動物がいわく、「私は、さとりというものだ」それを聞いて木こりが、「そうか、そいつは俺が欲しくてならぬものだ。よし一つ捕らえてやろう」とこう思ったら、そのさとりという動物がいわく、「お前は、私を捕らえようと思っているな」とすぐ覚られてしまったから木こりは驚いた。こちらの思っていることをさとりはちゃんと知っているが、なんとかだまして捕ってやりたい、忘れたようなふりをして、つかまえてやろうと考えたら、さとりが、「お前また、私をだまして、忘れたようなふりをして、後ろからでもつかまえようと思っているんだろう」 すると、木こりが「はなはだ怪しからぬやつだ」と心の中で怒っている。「お前は、私がつかまえられぬので怒っているな」 自分の思うことがことごとくさとりに分かるようでは仕方ない。それで、うっちゃらかして、今度は木を切りに来たんだから、いろいろな欲を起こさないで木を切ろうというので、悟りということは忘れて、そうしてともかく、木を切ろうとして斧を振り上げ下ろしたところ、その振り下ろした所へさとりがひっかかった。−−− というのです。