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人間、誰でも「しあわせ」を求めない者はないでしょう。学問も科学も総ては人間が幸せになる為に発展進歩してきたはずなのに、その「しあわせ」を実感できずに悩む人は多いのではないでしょうか。
さて、お釈迦さまがジェータ林というところに御滞在のとき、ひとりの人が、「最上の幸福とはどういうものですか」とお尋ねしました。このジェータ林というのは、お経に給孤独園(ぎっこどくおん)と出ていますが、土地の長者が身寄りの無い人々に食物を給する公園のような所であったらしいのです。そこに群れ集うてくる人々、つまり不幸に打ちひしがれた人達の中から出された質問ですからきわめて真剣な質問です。
そのとき、お釈迦さまはどう答えられたか、さいわいにもその教えの言葉が今日まで伝わっていて、スッタニパータ(経集)というお経の中に収められています。
「最上の幸福とは」
◇ 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 適当な場所に住み、前世には功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起していること ・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 博愛と、技術と、訓練をよく学び受けていること、弁舌巧みなこと
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 悪を厭(いと)い離れ、飲酒を制し、徳行をゆるがせにしないこと
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 尊敬と謙遜と満足と感謝と時々教えを聞くこと
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 耐え忍ぶこと、温良なこと、諸々の道の人に会うこと、時々理法について論議をすること ・・ ・・・・ これがこよなき幸せである。(経集858)
◇ 修養と清らかな行いと聖なる真理を見ること、安らぎを証すこと
・・・・ これがこよなき幸せである。
◇ 世俗の習慣に触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れなく、安穏であること
・・・・ これがこよなき幸せである。
◎ これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆるところで 幸福に達する ・・・・ これがかれらにとってこよなき幸せである。
(岩波文庫青二八八〃ブッダのことば〃より)
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| 船岡城址公園から白石川を望む |
快楽の量が多いほど幸せだと人間は錯覚しがちです。しかし、快楽を求める欲望には際限がないことに気づかなければ本当の安心はつかめないでしょう。幸福の概念を中国的に言えば「福禄寿」、福は家庭の幸でしょうか、禄はお金、寿は寿命です。けれども、「思うこと一つ叶えばまた二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や」というような具合になるのです。幸せな人とは、過去の生涯から幸せなことだけを記憶している人、不幸な人とはそれの反対を記憶している人であるともいわれます。「嫌い」ととらわれず認めて感謝するほうが楽に自然に生きられます。愚僧なりに「しあわせ説法」を要約すれば次の三つになります。
第一には、人生の師、導きてを持っている人は幸福である。
人生の根本となる生き方を学ぶには、確かな導きてに遭うことは何より大切なことです。『諸々の愚者に親しまないで諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人を尊敬すること、−− これがこよなき幸せである』。尊敬すべき正しい人生観を持っている人に親しむことですが、善い友人をもつことができればそれも同様でしょう。釈尊の教えに、朋友には三種の要素があるという。一つには、もしも過ちをおかした時には忠告しあうことができる。二つには、好いことがあったら共に喜ぶことができる。三つには、苦危にある時には精一杯助け励ます。
第二には、みずから正しい誓願をおこしている人は幸福の人である。
人生においての価値とは長生きでもなく、何でも努力すれば良いというわけでもない。努力すべき目標は正しい誓願と示されるのです。誓願がないと人生の方向が定まらず不平不満の愚図ついた人生となります。 誓願とは、「人を助ける看護師になる」「安全で美味い米を作る」「主婦として家庭をささえる」など他者への幸せを大切にする。それにより自分自身の幸せの意識も深まり、自分の心も安らいでいくのです。
第三には、自分を信じ、自分を生かすことに努力している人は幸福な人である。
仏教の幸福観は、富や健康などの万人にとってのぞましい状態を否定するものではありません。頑張るのもいい、あきらめない姿勢もいい、ただ部分的にとらわれて血眼になる愚かしさを教えるのです。私たちは不幸になったときに、その原因は自分の外にあるように思いがちです。しかし、自分が悪くないならば、ほんとうは幸福なはずなのです。その「幸福」にもとらわれず、幸福になる必要なんかありはしないと放下できた時、幸福がつかめるものかもしれません。
善(よ)きことを作(な)すものは
いまによろこび
のちによろこび
ふたつながらによろこぶ
「善きことをわれはなせり」と
かく思いてよろこぶ
かくて幸ある行路(みち)を歩めば
いよいよこころたのしむなり
(法句経・18)
人はいろいろな関係をもって生きています。生きているということはあらゆるものに支えられている関係性の中で生きているということです。生きるということは、あらゆるものの布施を受けているということですから、自分も「何か役に立つ」ということが大切です。役に立つといってもだいそれたことではなく、お茶を入れたり、ほほえんだり、あかるく挨拶するとか、そういった小さなことでも「役に立つ」ということです。
「無財の七施」という教えがあります。自分に何も持てるものがなくても、笑顔ややさしい言葉をかけることは誰にでもできます。ただし、代償を期待する施しや、これをしたら魂がきれいになるという目的や考えではいけない。「陰徳を積む」という言葉もありますが、陰徳とは他人の目を意識するのではなく人知れず、仏行、浄行として行うことです。相対的善、自我なる善を放棄した行為の時に真の功徳が現れるのです。
釈尊のことを「世尊」とも尊称されますが、原語の「バガヴアット」は「幸いある人」という意味になります。
釈尊は常に微笑みをたたえ、弟子たちの目にも幸せに見えたのでしょう。それは、釈尊の人生に悲しい出来事がなかったということではありません。釈尊の出身である釈迦族は、隣国の王の為に滅亡しています。また、十代弟子といわれて、釈尊が最も信頼を寄せていた舎利弗と目蓮は、釈尊より先に亡くなったと伝えられています。しかし、こうした悲しい出来事をも静かに受け入れ、常に微笑みをたたえた「幸いある人」である故に「世尊」と尊称されるのです。
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