日本神話の概略  

 国生み・神生み
 遠い昔、天地(あめつち)は境もなく混沌(こんとん)としていました。しかし、やがて澄んだ気は天となり、重い気は地となり世界が二つに分かれました。
 この天地の中心高天原(たかまがはら)に生まれたのが。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)神産巣日神(かみむすびのかみ)でした。続いて宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ) 、天之常立(あめのうとこたち)神が発生しますがこの五柱の神はそのまま姿を現さず隠れてしまいました。その後も続けて神々は誕生し、その七代目に伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)という神が生まれます。
 この二神は天の沼矛(ぬぼこ)で淤能碁呂嶋(おのごろじま)を作りこの島に天降(あまくだ)って夫婦の交わりをします。しかし、先に誘いの声をかけたのが女神伊邪那美(いざなみ)であったため、生まれたのは蛭(ひる)のような子だった。そこで今度は伊邪那岐(いざなぎ) の方から声をかけてやり直しました。すると今度は無事に淡路島と四国が生まれました。こうして次々と八つの島を生み、ここに大八嶋(おおやしま)(日本列島)が完成するのです。
 国生みが終わると、次に山の神や海の神など数多くの神を生みます。ところが最後に火之迦具土(ほのかぐつち)という火の神を生んだことから伊邪那美(いざなみ)は体を焼かれ死んでしまいます。


 冥府下りと三貴子誕生
 あきらめきれない伊邪那岐(いざなぎ)は黄泉の国(死者の国)に向かいます。そこで伊邪那美(いざなみ)に戻ってくるよう頼んだところ「私は既に黄泉の国の食べ物を食べてしまいましたから帰ることはできません。でも、この国を支配する神に相談しましょう。その間決して戸を開けないでください」と言われます。しかし、いくら待っても妻が出てこないので、痺れを切らして中に入ってしまいます。すると、そこには、腐って死体にはウジのわく伊邪那美(いざなみ)が横たわっていました。驚いた伊邪那岐(いざなぎ)は、怒って追いかけてくる伊邪那美(いざなみ) を振り切り逃げ帰ります。ところが凄い形相で更に追いかけてくるのです。伊邪那岐(いざなぎ)は桃の実を投げつけて邪気を払い、大岩で道を塞いでしまいます。伊邪那美(いざなみ)は「あなたがこんなひどい仕打ちをするなら、私は毎日千人の人を殺しましょう」と言い、それに対し伊邪那岐(いざなぎ)は「ならば私は、毎日千五百人の子を生もう」と答えました。この時からこの世では一日五百人づつ人口が増えることになります。
 黄泉の国の汚れにまみれて戻った伊邪那岐(いざなぎ)の神は九州の阿波岐原(あわぎはら)の清流に身を浸して禊祓(みそぎはらえ) をしました。これによって、直毘神(なおびのかみ)(禍を直す神)等多くの神が生まれた。その最後に左目を洗うと天照大神(あまてらすおおみかみ)が生まれ、右目を洗うと月(つき)読神(よみかみ)が、鼻を洗うと須佐之男神(すさのをのかみ)が生まれました。伊邪那岐(いざなぎ)神は大いにこれを喜び、後生を託す「三貴子(みはしらのうづのみこ)」として、「天照大神には天の高天原を、月読神には夜の世界を、須佐之男神(すさのをのかみ)には海を納めよ」と命じられました。
伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)を祭神とする滋賀県犬上郡の多賀神社は創祀は少なくとも八世紀以前と言われます。
※火之迦具土(ほのかぐつち)大神は火防せの神として静岡県周智郡の秋葉山や京都愛宕神社も有名です。
東北最大の修験道の霊地出羽三山神社の月山は月(つき)読神(よみかみ)が祭神です。


 天の岩戸(あまのいわと)
 三貴子(みはしらのうづのみこ)はそれぞれ治めるべき任地に赴きますが、須佐之男神(すさのをのかみ)だけは任務を果たさず、母のいる黄泉の国へ行きたいと泣き喚(わめ)くので邪那岐(いざなぎ)神は須佐之男神(すさのをのかみ)を追放し、近江の多賀の宮にこもってしまいます。
【※多賀の宮とは滋賀県犬上郡多賀町の多賀大社のことです。
 そこで須佐之男神(すさのをのかみ)は姉の天照大神にいとまごいをするため高天原に向かいます。ところが、天照大神(あまてらすおおみかみ)は乱暴な須佐之男神(すさのをのかみ)が高天原を奪いにきたものと思い、武装して迎え入れ、邪心がないかを明かさせるための呪礼を行います。これによって須佐之男神(すさのをのかみ)の疑いは晴れ、しばらくは高天原にとどまることを許されます。しかし、気性の荒い須佐之男神(すさのをのかみ)は心がおごり、種々の乱暴を働くようになります。それでも天照大神は大目に見ていましたが、機織(はたおり)の女神が殺されるとついに怒り、天の岩屋に隠れてしまいました。その為世界は暗闇となり、あらゆる災いが起こったのです。困った神々は相談をし、天照大神を引き出すお祭りをすることになりました。
 まず伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に八尺鏡(やたのかがみ)、玉祖命(たまおやのみこと)に八尺勾玉(やさかのまがたま)を作らせ、さまざまに飾り付けをし、岩戸の真前で天宇受売命(あめのうずめのみこと)が裸で踊ると八百万の神々はどっと笑い出します。
 天照大神は外があまりに賑やかなので不思議に思い、岩屋の戸を少し開け、「何がそんなに楽しいのか」と尋ねます。天宇受売命(あめのうずめのみこと)は「あなたより尊い神が現れたからです」と答え、他の神が八尺鏡(やたのかがみ)を差し出した。天照大神は、そこに映った自分の姿をその尊い神と勘違いし、よく見ようと身を乗り出したところを、怪力の天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が手をとって外に引き出し世界に光が戻りました。
 しかし、この大事件のきっかけとなった須佐之男神(すさのをのかみ)は、その後に天から追放されることになるのです。
日本最高の社といわれる、伊勢神宮には天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として内宮と外宮からなり、総氏神が鎮座する荘厳な神域です。内宮は垂仁天皇の時代(三世紀後半)、宮中に祀られていた天照大御神(あまてらすおおみかみ)をこの場所に移した時を創祀とし、内宮、外宮とも社殿は日本最古の建築様式のひとつ、唯一神明造(ゆいいつしんめいつくり)。檜を素材にして清楚なたたずまいを見せています。


 八俣大蛇退治(やまたのおろちたいじ)
 高天原を追放された須佐之男神(すさのをのかみ)は、出雲(いずも)の肥(ひ)の河(かわ)の鳥髪(とりかみ)というところに降(くだ)った。川をさかのぼっていくと、老夫婦と娘が泣いていました。事情を聞くと「この地には八俣大蛇(やまたのおろち)という目はほおずきのように真っ赤で、体が一つなのに頭と尾が八つある巨大な蛇が棲(す)んでいる。今年はこの娘櫛名田比売(くしなだひめ)が食べられることになっているので泣いている」というのです。
須佐之男神(すさのをのかみ)は櫛名田比売(くしなだひめ)との結婚を条件に八俣大蛇退治(やまたのおろちたいじ)を約束するのです。
 須佐之男神(すさのをのかみ)は八つの酒樽を用意させて待ちかまえた。やってきた八俣大蛇は須佐之男神(すさのをのかみ)の考え通り八つの頭を酒樽に突っ込み酔って寝てしまいました。そこを、すかさず須佐之男神は大蛇を斬り殺します。その時尾の中から一振りの剣が現れた。それを天照大神に献上しました。それが皇室に伝わる三種の神器の一つ「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」です。
【※須佐之男神(すさのをのかみ)と櫛名田比売(くしなだひめ)を祭神とする京都の八坂神社は祇園祭りで特に有名です。牛頭天王(ごずてんのう)を祀りますが、これはインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神といわれ、須佐之男神(すさのをのかみ)とは同一神とされる。
※三種の神器の一つ「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を祀るのは名古屋の熱田神宮(あつたじんぐう)です。祭神の熱田大神(あつたのおおかみ)とは、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を御霊代(みたましろ)として関わる天照大神(あまてらすおおみかみ)のことです。又、八尺鏡(やたのかがみ)は伊勢神宮に祀られ、八尺勾玉(やさかのまがたま)は宮中にあり、三種の神器は日本最高の秘宝といわれています。


 因幡(いなば)の白兎
 須佐之男神(すさのをのかみ)の子孫として登場するのが出雲大社に祀られる大国主神(おおくにぬしのかみ)です。「因幡(いなば)の白兎」神話は、童謡にも歌われていますが、この神のやさしい性格が描かれた有名な話です。
 大国主神(おおくにぬしのかみ)には八十神(やそかみ)と呼ばれるほどの沢山の兄弟神がいました。ある時、稲羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に兄弟揃って求婚に出かけるのです。大国主神(おおくにぬしのかみ)は、まだ若かったので兄達の荷物を持たされ、遅れてついて行くと一匹の兎が皮をむかれて赤裸になって泣いていました。事情を尋ねると兎はこう言うのです。
「私は隠岐島(おきのしま)から本土に渡りたいと思い、ワニをだましてあざ笑ったところ、怒ったワニに皮をはがされてしまいました。痛くて泣いているところに八十神が来て「海水で洗って風にあてれば治る」と教えられたのでその通りにしたら、さらに悪くなり痛くて痛くて泣いているのです。」
 大国主神は兎を哀れに思い、すぐに真水で体を洗い、蒲(がま)の穂を敷いてその上で寝ころぶよう教えました。兎がそのとおりにすると皮膚は元通りになりました。その兎は大変喜びそして言いました「八十神(やそがみ)ではなくあなたが八上比売(やがみひめ)と結婚するでしょう」。兎の予言したとおり大国主神は八上比売(やがみひめ)と結ばれ葦原中国(あしはらのなかつくに)(水穂の国)の王となるのです。


 大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲りと天孫降臨(てんそんこうりん)
 高天原は天照大神が、葦原中国(あしはらのなかつくに) は大国主神がおさめていたのですが、ある時天照大神は葦原中国は息子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に治めさせようと言い出します。天の神々は相談して大国主神に使者を派遣しますが、最初の使者は大国主神に媚びて戻らず、次の使者は大国主神の娘と結婚してしまいました。こうなると、天照大神としては強談判しかないということで派遣したのが建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)という大変強力な剣の神でした。
 建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が国譲りを迫ると、大国主神は二人の息子と相談します。八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)は承知しますがもう一人の息子建御名方神(たけみなかたのかみ)はすぐには承知せず勝負を挑むことになりますが破れて諏訪に下がり「以後、この地から一歩も外に出ない」と誓うのです。こうなると大国主神も否応は無く国譲りを承諾します。その条件として、「立派な御殿を造ること」として国神の長(おさ)として鎮座(ちんざ)することになった。これが現在の出雲大社です。
※出雲大社本殿は、はるか昔にはその名にふさわしく、高さ三二丈(約97b)平安時代でも十六丈(約48b)という規模を誇り、10世紀に書かれた「口遊(くちずさみ)」では当時15丈あったとされる大仏殿をしのぎ、日本一、世界最大の木造建造物だったと紹介されています。現在の建物は江戸時代の寛文七年に八丈(約24b)の高さになり、地元では大社を敬い24b以上の建築物は建てないと言います。
 平成12年4月、巨木を3本束ねた平安時代の本殿の棟持ち柱(宇豆柱=うずばしら)が見つかりました。9本の柱のうち、本殿の中心で心御柱(しんのみはしら)と南東の側柱と宇豆柱の3本の発見で、高層本殿が実在した可能性がさらに高まりました。

※建御名方神(たけみなかたのかみ)の祭神の神社は諏訪大社です。寅と申の七年ごとに行われる御柱祭は天下の奇祭として有名です。
※建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が祭神の神社は奈良県若草山の春日大社や茨城県の鹿島神宮などです。

 さて、葦原中国(あしはらのなかつくに)に天の神が下ることになりますが、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)は自分の代わりに天津日子番能迩迩芸(あまつひこほのににぎの)命(みこと)を降ろすことになります。この場面がいわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)と称されます。
 天津日子番能迩迩芸命(あまつひこほのににぎのみこと)は神々を引き連れ、猿田毘古神(さるたびこ)の案内で威風堂々、天の浮橋を渡って、三種の神器と共に天下りすることになりました。降臨したところは宮崎県の霧島高千穂(たかちほ)ないしは同高千穂峡と言われています。


  天孫の結婚
 高千穂(たかちほ)に天下(あまくだ)った迩迩芸命(ににぎのみこと)はある日、美しい女性と出会います。名を尋ねると木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)という。さっそく父である大山津見神(おおやまつみのかみ)に結婚の願いをします。大山津見神(おおやまつみのかみ)は大変喜び、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と共に姉の石長比(いわながひめ)売まで献上しました。しかし、石長比(いわながひめ)売はひどく器量が悪かったために親元に返してしまいます。すると、大山津見神は「娘を二人差し出したのは、天神(あまつかみ)の御子の命が常磐(ときわ)の石のように続き、又花の如く栄えるようにと祈ったからです。しかし、石長比売(いわながひめ)を返したので天孫の命は花のように栄えますが、命は限りあるものになるでしょう」と言いました。この時の因縁により、神の子孫である天皇も人間と同様に死ぬことになったのです。
【※ 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を祭神とする神社は富士山を鎮(しず)め崇(あが)める浅間神社(総本宮)です。孝霊天皇(Bc三世紀頃)の時、富士山の大噴火で国の荒廃甚だしく、これを憂いた垂仁天皇が浅間大神を祀ったのがはじまりで、現在の社殿は徳川家康が、関ヶ原の戦勝に応えて寄進したものです。


 海幸彦と山幸彦
 木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)が迩迩芸命(ににぎのみこと)に出産の報告をすることになります。けれども迩迩芸命(ににぎのみこと)は一夜で妊娠したことに疑問を持ちます。そこでヒメは、「もし国津神(くにつかみ)の子でしたならば無事には産まれないでしょう。でも、あなたの子なら安産にまちがいありません」と言って出入り口の無い産屋に入って火を放ちその中で出産をするのです。火が燃えさかる中で火照命(ほでりのみこと)、そして、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほをりのみこと)が無事に生まれました。
 兄弟は成長すると火照命(ほでりのみこと)は海幸彦(うみさちひこ)として漁につき、火遠理命(ほをりのみこと)は山幸彦(やまさちひこ)として狩りをして暮らしていました。 ある時、山幸彦は海幸彦に獲物をとる道具を交換したいと頼みます。海幸彦も承諾して、山幸彦は兄の釣り道具を持って漁に出かけましたが、一匹の魚も釣れない上に、その釣針を無くしてしまいます。兄の海幸彦はどうしても許さないので困って海辺で泣いていると塩椎神(しおつちのかみ)が現れ「海神の娘に会ってみなさい」ということで海宮を尋ねることになります。 海宮に着いたところで山幸彦は海神綿津見神(わだつみのかみ)の娘、豊玉毘売(とよたまひめ)と出会います。二人は互いに好きになり結婚して幸せに過ごしていました。こうして三年も経った頃、失った釣り針も首尾良く見つかったので、山幸彦は地上に戻りました。
 でも、海幸彦は依然(いぜん)として弟を許しません。何だかんだと言っては山幸彦を攻めるのです。けれども、山幸彦は海神から貰った潮の満干をあやつる潮盈玉(しおみつたま)・潮乾玉(しおひるたま)でこらしめます。火照命(ほでりのみこと)はついに降参し、以後山幸彦火遠理命(ほをりのみこと)の従者になりました。


 神武天皇(じんむてんのう)の誕生
 やがて、山幸彦の子を宿していた豊玉毘売(とよたまひめ)がお産の為にやってきました。ヒメは海辺に産屋を作って中に入るとき、夫の山幸彦に決して中を覗(のぞ)かないようにと懇願(こんがん)しました。ところが夫はその言葉に不審をいだき覗いてしまいます。すると豊玉毘売(とよたまひめ)は巨大なワニになってのたうちまわっていたのです。山幸彦が驚いて逃げ出すと豊玉毘売(とよたまひめ)は未練を残しながらも生んだ子を置いて海へ戻ってしまいました。
 その子は鵜葺草葺不合命(うがやひきあへずのみこと)と名付けられ、豊玉毘売(とよたまひめ)の送ってきた妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられました。鵜葺草葺不合命(うがやひきあへずのみこと)は成長して後、玉依毘売(たまよりひめ)と結婚して四人の子供が生まれます。けれども二人の子は常世の国と海原に入ってしまいました。残った五瀬命(いつせのみこと)と神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)は高千穂に宮を構えていましたが「西はずれのこの国は天下を統治するにはふさわしくない」として軍を起こし東に向かいます。この大和に東進する話は「日本書紀」に神武東征として伝わります。
 進路は日向(ひむか)を出発して豊国の宇沙(宇佐)に行き、瀬戸内海ぞいを東進して安芸国(あきのくに)に七年、吉備(きび)の高嶋宮で八年を過ごしました。更に東に軍を進め浪速(なにわ)から一挙に大和に攻め入ろうとしたのですが、長髄彦(ながつねひこ)というものが攻撃をかけ、五瀬命(いつせのみことは毒矢に射られてしまいます。五瀬命は後、この毒矢のために命を落とすことになりますが、「我々は日の神の子孫であるのに、お日さまのほうに向かって矢を射たのが間違いだった。今後は遠回りしてもお日様に背を向けて戦おう」と船団は海に出て紀伊半島を迂回、熊野からの道を選ぶことになるのです。熊野に上陸後には天から遣わされた八咫烏(やたがらす)の導きで吉野川上流に到着。更に山を踏み越えて宇陀を平定。その後に神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は大和の地をすべて平定し、畝火(うねひ)の橿原(かしはら)に大宮を築いて即位します。これがすなわち初代神武天皇となるのです。
 
畝火(うねひ)の橿原の大宮とは神武天皇が即位された橿原の宮の址に建つ奈良県橿原市の橿原神宮(かしはらじんぐう)のことです。明治二十二年に創建された優雅な社殿です。

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  神道と日本の歴史について  

 神道は日本に起こった固有の宗教ですが、仏教やキリスト教等のように特定の創始者によって説かれたものと違って、教義や教説は無く、その意味では道教やヒンズー教などの自然宗教に近いといえます。
 神道は古来「神ながら言挙げせず」といって教理を立てることは無かったため、その起源を探求しようにも記紀などにたよるしかないようです。
 その記紀神話は、ギリシャ、中国、マレー、ポリネシア系の神話との類似性なども指摘されます。他にも狛犬の原形はエジプトやペルシャにあるともいわれ、阿吽の形は中国の陰陽思想や仏教の影響があり、注連縄や玉串には神垂を下げますが、これも、アイヌの信仰形態が基盤となっているようでもあります。こうしてみますと神道のルーツは日本の土着的なものと大陸系の宗教、文化が混じり合い渾然一体となっているようです。
 七福神の一人、大黒様は本来のルーツはインドのヒンズー教の最高神で破壊をつかさどるシバ神の化身といわれ、その姿は牙をむく忿怒の形相で髪は赤く逆立ち、髑髏とヘビの首飾りをしています。一方の大国主神(おおくにぬしのかみ)は笑顔で豊満な体で打ち出の小槌を右手に持ち大黒袋を背負っています。「因幡(いなば)の白兎」神話など、やさしい性格が描かれています。それが、大国が大黒という発音が共通することから大黒天は大国主神と同一視されていますが、その背景には神仏習合の考え方があったことはいうまでもありません。さらには、大国主神と同一視された西宮の夷(戎・恵比寿)とも習合し、戎・大黒と併称されることにもなります。


 地元の歴史学者の方に「今回の寺便りは記紀神話を特集しました」と話したところ間髪入れず「あれは作文だ!」と言い切られてしまいました。 「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)は共に天武天皇の勅旨によって編纂され、戦前の津田左右吉博士は、それらは天皇支配の正統性を根拠づけるために後世に作られたものだという論文を発表していますからそういう意見も出てくるのでしょう。
 「古事記」は「帝紀」という皇室系図と「旧辞」という神話伝承を上中下の3巻でまとめたもので、建国神話から推古天皇までが記されています。「日本書紀」は「帝紀」「旧辞」を原本としながら中国などの歴史を取り入れ巻数も30巻・系図1巻という膨大なものです。
 同時期に同じような歴史書が成立した編纂目的とは、「古事記」は天皇家に保存される私的蔵書であり、「日本書紀」は正史として編纂された公的記録といえます。「日本書紀」は以後も「続日本紀」「日本後紀」と五つの正史が編纂され、全体で「六国史」(りっこくし)となります。
 記紀神話の神武天皇の東征、出雲の国譲り、日本武尊の蝦夷征服などの神話や説話は、大和朝廷の国家統一を反映した伝承であり、そんな神話が無理なく天皇家へつながるよう編纂されていると言われるところもあるのでしょう。


 平安時代には、仏教が広まるにつれて信仰の習合が起こり、前記の本地垂迹説が生まれました。その後、鎌倉時代に吉田兼倶が仏教や儒教などをまじえることのない惟神の道を唱えます。それは、神を主として仏を従とする立場をとるものであり、そこから唯一宗源神道の理論を打ち立てます。
 江戸時代には、山崎闇斎が朱子学を用いて垂加神道を唱えます。垂下神道は天照大神への信仰とその子孫の天皇が統治する道を神道とし、天皇崇拝、皇室の絶対化を強調しました。これらの思想は本居宣長の復古神道に受け継がれていきます。そして、国学では日本古来の信仰が強調され、平田篤胤は復古神道によって神国思想、尊皇論を説きます。
 明治時代になると前記の通り、政府は神仏分離令を行い、国家神道を確立して世界に対抗できる国家建設を目指します。そして、日清戦争においては台湾・遼東半島を日本に譲るとした講和条約に至りますが、三国干渉によりやむなく清国に返還することになります。日本はまだ三ケ国と戦争をしても勝つ見込みがなかったからです。これより、いつかは遼東半島を奪い返そうという決意を込めた「臥薪嘗胆」という言葉が広がり日本は軍備拡張に乗り出すのです。対してロシアはまもなく膠州湾事件を口実として旅順を占領、東清鉄道の支線を旅順まで伸ばし満州占領を準備するロシアに対抗し日露戦争が勃発します。多大な犠牲を払いながらも日本軍は旅順・奉天(瀋陽)を陥落、バルチック艦隊をも壊滅し講和条約が調印されます。しかし、「賠償金無し、樺太は半分」という条件に国民は猛反発し暴動騒ぎも勃発します。その勢いは教育においては戦争の正義感と国粋思想、国家総動員法も作ってしまいました。日本は愚かな軍拡に向かって更に悲しい歴史に向かっていくことになります。−− 第二次世界大戦後、国家と神道は分離されることになりました。

 昭和20年に日本は敗戦、占領政策は神国思想・尊王論の根幹となる神話伝説を科学的史実ではない実証的根拠はないとして教科書では教えない日本神話となりました。「建国記念の日」の2月11日は、戦前は紀元節といわれました。つまり、神武天皇即位の第一日皇紀元年(西暦前660年)正月1日が太陽暦の2月11日にあたるとして、明治5年に制定されたものです。戦後は反戦思想などもあって建国記念の式典は行われなくなりました。以来復活のための紆余曲折の審議を経ながら、昭和41年に敬老の日・体育の日と共に国民の祝日に制定されたのです。国家神道を基本にした不幸な戦争に対する反戦思想とは「建国記念の日」や「国旗、国歌の法制化」など、戦前の憲法に逆戻りとの声もあり、その受け止め方となっているところでしょう。
 このような歴史の中で「神の国」発言は実に誤解を生みやすい発言でした。 
 日の丸・君が代に反対する人達は、戦時中の軍国主義や天皇賛美につながると言います。そうした日教組や現場の教師には文部省の「入学式や卒業式などでの日の丸掲揚と君が世斉唱方針」に従わない者もあり、学校管理者は両者の間に入って苦慮することになります。そのような状況のなかで、平成11年2月28日、翌日の卒業式を前に広島県世羅高校の校長が自殺するという悲劇がありました。この事件によって、法制化の動きが一気に加速し、衆議院、参議院共に圧倒的多数にて可決され、平成11年8月13日「国家及び国家に関する法律」が公布、施行されました。
 

 ところで、神仏分離令や廃仏毀釈などの苦い歴史もありますが、日本の建国の様子を語る史話として、日本国の民族の成り立ちを説明する時の貴重な史書として語りつぎたいものです。
 古来、邪馬台国=大和朝廷と考えられ、所在地も大和(奈良県)と信じられていましたが、これに異をとなえたのが江戸時代の本居宣長です。本居宣長は邪馬台国=九州説を主張するのですが、邪馬台国の女王卑弥呼が三十余国を支配したというその位置については九州説(東京大系)と大和説(京都大系)があり未だに結論は出ていません。結局は大和朝廷による統一の過程ははっきりしていないのです。
 平成6年10月、島根県加茂岩倉町の岩倉遺跡から大量の銅鐸が発見されました。年代は弥生中期から数百年に渡っているといいます。はじめは畿内(関西)から岩倉に運び込まれたとする見方でありましたが、その後の調査では、むしろ同地で作ったものを余所に配布した可能性も出てきたようです。同遺跡から十数キロ離れた荒神谷遺跡でも358本の銅剣が発見されており、古来島根県には巨大勢力があったとされています。
 平成12年3月には奈良県桜井市のホケノ山古墳 【 邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の一角にある 】 で当時最大で最古の前方後円墳から中国製とみられる画文帯神獣鏡などが見つかりました。これは、卑弥呼が魏から与えられた「銅鏡百枚」のうちの一枚だった可能性もあり、邪馬台国論争にも影響を与えそうで、今後の研究成果も楽しみでもあります。