四摂法(ししょうぼう)

 大乗仏教のもっとも大きな特徴は布施の実践にあります。六波羅蜜(ろくはらみつ)の最初に布施波羅蜜(ふせはらみつ)がおかれているのもこの大乗の特徴を示す為といわれます。自未得度先度他(じみとくどせんどた 意は自分の為より先にまず他人を度す)という菩薩の精神は布施の実践にあるのであり、この布施をもっとも理想的に行なうためには、四摂法によらなければならない。ここに道元禅師が発願利生(ほつがんりしょう)の実践として四摂法を説かれた理由があると思います。
 この「自未得度先度他」を“自分が救われていないのに他人を救うこと”等と訳してしまいますと、「不安な人が不安な人を安心させられるはずがない、それでは、おぼれている子供のところに泳げない親が行っても、かえって共倒れになるだけ」 「自分で十分の力量を持ちもしないうちに人に対して力になることはできない」という解釈になってしまう。しかし、救われてないとか十分の力量を持つなどという判断の元とは他ならぬ「自我」なるものです。「自我」の反対でもある四摂法とは「済度摂受(さいどしょうじゅ)」のこと、済度摂受とは慈悲心の発露ではないでしょうか。

不動の滝 差首鍋谷地の沢

 この、慈悲心は、詳しくは慈悲喜捨(じひきしゃ)の四無量心(しむりょうしん)として説かれ、仏陀如来の四無量心は大慈・大悲・大喜・大捨とされます。四無量心の慈・悲・喜・捨の四つにはそれぞれ多少の区別があります。「慈」は親しみをもって相手に心の安らぎを与える親愛のことであり、「悲」は悲しみ苦しんでいる相手に寄り添う憐憫の心情であり、「喜」は相手とともに喜び合うこと。「捨」とは同一の心をもつことであって、不違(たがわず)ということにも通ずる。親しみ愛する人にも、怨み憎む者にも、すべて同一の心をもつことが「捨」ということです。
 以上のような四無量心が実際行動として現われるとき、それは布施・愛語・利行・同事の四摂法となるのです。大慈とは、一切の衆生に楽を与え、大悲とは、一切の衆生の為に苦を抜くとのお示しがありますが、釈尊は慈悲の行為について人間を対象にするだけではなく生けるものすべてに対する慈悲の心をも教えられています。道元禅師が四摂法を菩薩の行願として強調されたのは菩薩の行願が慈悲行であり利他の実践であるということからこの四摂法を説かれたのでしょう。


修証義第4章第21節 注 読みやすいように原文よりひらがなを多くしています。

衆生を利益すといふは四枚の般若あり、一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事、是れ即ち薩たの行願なり、其布施といふは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障(さ)へざる道理あり、其物の軽きを嫌はず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生(ししょうたしょう)の善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世(しせたせ)の善根を兆(きざす)す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず、自らが力をわかつなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり、治生産業もとより布施に非ざること無し.

 「其布施といふは貪らざるなり」真の布施は、三輪清浄または三輪空寂の布施といわれて、施者・受者・施物の三輪が清浄であり、空寂となっていなければならないとされます。つまり施者は受者に対してこれは価値ある品物なんだ、わたしがこうしてっやったというような恩をきせないこと、また、その報果を期待するような、交換条件による布施であってはならないのです。
 「我物に非ざれども布施を障へざる道理あり、其物の軽きを嫌はず、其功の実なるべきなり。」とは、布施は施物の大小によるものではなく、貪らざる心が大切であるというのです。もし、惜しみ貪る心をもって布施するならば、それは真の布施とはならないのです。わが物でないものの布施とは、例えば風を入れて涼を人に施すとか、路傍に井戸を掘って世人に水を施すとかいうようなものです。
 「正法眼蔵」四摂法には「・・・みづからもちいるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし。もしよく布施に一塵を捨せんときは、みづからが所作なりといふとも、しづかに随喜すべきなり。諸仏のひとつの功徳をすでに正伝しつくれるがゆえに、菩薩の一法をはじめて修行するがゆえに。」 とあります。父母妻子に対しての布施であっても布施に違いなく、そして、ほんの少しの布施であっても身・口・意の三業が清浄なるところのものであるならば、自分の為した所の行であろうとも、しづかに喜ぶべきことである。なぜならば、三輪清浄または三輪空寂の布施というのは、諸仏のひとつの功徳のあらわれであり、菩薩の行なるが故にと示されるのです。「こうしてしてやった」ではなく「させていただいた」と謙虚におごらずに為したいものであります。

 先に示した四無量心とは禅定の一種であって、慈悲喜捨を心に念じ、一切世界のすべての衆生に対して慈悲の念を持ち続けることによって、慈心定等の禅定がえられるとされます。『阿含経』では、慈心定を修することによって十一種の功徳があるとされるのです。

十一種の功徳とは、
1.夜は安らかに幸福に眠りにつき、
2.睡眠中には、追われたり、争ったり、殺されたりするような悪夢を見ることもなくうなされることもない。
3.朝目がさめる時にも安らかで幸福にみちている。
4.誰からも愛され好意をもたれる。
5.人間だけでなく、非人としての動物や鬼神などにも親しまれ愛される。
6.諸天神に守護されることになる。
7.水火や竜蛇や刀剣の難から避けられる。
8.精神統一に入り、自由に入定できることはいうまでもなく、
9.顔色が明朗である
10.また臨終においても、眠るが如く、安らかに息をひきとるであろう。苦しみ悩んで混迷したり、恐ろしい形相をして死ぬようなことはない.
11.平素の慈心定の習慣のために、たとえそれがさとりに達しないとしても、来世には梵天という色界天に生れて幸福な生活を送り、悟りの境涯に至る。

修証義第4章第22節

愛語といふは、衆生を見るに、先づ慈愛の心を発し、顧愛(こあい)の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子(じねんしゅじょうゆうにょしゃくし)の懐(おも)ひを貯へて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐(あわれ)むべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面はずして愛語を聞くは肝
に銘じ魂(たましい)に銘ず、愛語能く廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり、

 愛語というのは、愛欲の愛とか渇愛の愛とかいうような自己中心的な愛を基とする言葉とは違います。慈悲による博愛の愛をさしています。このような慈悲心から発せられる言葉がここで示される愛語であります。そのために「愛語といふは、衆生を見るに、先づ慈愛の心を発し、顧愛(こあい)の言語を施すなり」とされているのです。顧愛(こあい)とは、同情憐愍による慈愛です。すべての衆生を見るのに、母親が自分の赤ん坊に対するように、自己の苦労も忘れ、欲得の心をはなれて、ただその成長と幸福を願って子供のためにつくすように、一切衆生に対して同じような慈愛の念をもって言語するのが愛語です。

 その愛語を語る場合に注意すべきことは、もし相手にすぐれた徳があり、長所美点があるならば、それをほめたたえ、相手をさらにその長所美点に向かわせ励むようにしむけてあげるのです。徳がないのにいたずらにほめたり、徳があるのに無視したりさげすんだりしてはならない.徳がないのにほめることはへつらいか、相手を利用しようという魂胆があるからであり、徳があるのにほめないというのも、相手をおさえつけたり、おとし入れたりするような邪心があるからです。もし相手に徳がなく、美点長所がなかったとしても、しかったり軽蔑したりすることなく、相手をあわれみ、ますます慈愛の心をもって愛護すべきと示されます。それは親が出来の悪い子供を、他の子供よりも一層不憫に思って可愛がるようなものであり、そこに愛語のまことが見られると示されるのです。

 そして、自分をうらみにくんでいるような怨敵を降伏して、そのうらみを解消させ、にくしみを除き去るのも、またあらそっている君子(立派な人物)を仲なおりさせるのも、すべて愛語がその根本となる。もし慈愛の心がなく、憎悪の念が去らないならば、怨敵を降伏したり、君子の争いをとどめて和睦せしめたりすることはできないでしょう。
 『法句経』に「怨みは怨みをもってしては、ついに休息することをうべからず、忍を行ずることによって、怨みを息めること得。これ如来の〔永遠の真理の〕法なり。」と、ここの「忍を行ずることによって」とは、パーリ文では「怨みなきによって」とあります。つまり「慈愛による心からの愛語によって」ということになります。そして、慈愛のこもった言葉を面前で聞くのは、晴れがましい喜ばしいことであり、心を楽しくさせるものであり、さらに自分のいない所で、自分に対する賞讃などの愛語が語られたことを、後になって伝え聞くならば、それは深く心に銘じて、その愛情や親切をいつまでも忘れないものです。

 道元禅師の『正法限蔵』には「しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり.」という句がありますが、これは愛語が愛心や慈心を根本としていることを示しています。愛語を語るに根本を為すものは愛語の語句や文法などではなく愛心や慈心を根本とするのだということになります。愛語というのは語学を学ぶことではなく仏道の修行ということになるのです。
 そして、慈愛にみち、誠意のこもった愛語をもってするならば、廻天のカさえあるとされます。廻天とは、ここでは天とは国王、天皇を意味します。国王が一たび決定したことがらは、天の運行のように絶対に変えることができないとされるけれども、愛語の力は国王の決定事項さえもひるがえさせることができるとされるのです。

修証義第4章第23節

利行と言は貴賤(きせん)の衆生に於きて利益の善巧を廻(めぐ)らすなり、窮亀(きゅうき)を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単(ひと)へに利行に催ほさるるなり、愚人謂(おも)はくは利他を先とせば自からが利省れぬべしと、爾(しか)には非ざるなり。利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり。

 利行とは他を利する行為を指します。それは貴い人間とか動物を問わず、すべての衆生に対して、利益し救済しようとすることです。あらゆる手段方法をもって、一切衆生を救済利益することが利行であるということです。この利行の例として、窮亀や病雀に対する慈悲愛護の故事があります。これはいやしい衆生に対してでもひとしく善巧方便をめぐらして利行をなすべきことを説いたものです。

 凡愚な人は、自分のことよりもまず他人を利益するようなことをすれば、自分の利益は損なわれてしまうと考える。実際、せちがらい世の中であっては他人のことなどかまっておれないと自己中心的な行動になってしまう。しかしそれは大きなあやまりであると示されるのです。もし自分のことだけしか考えず、損得勘定だけで他人の迷惑などは全く省みない人があるとすれば、周囲の人も又損得勘定だけで相対するでしょう。自分の利益だけを考えて行動すれば、それは直ちに相手にも通ずることですから、相手もまた警戒してかかり、その人に心を許したり好意を示したりもしなくなるでしょう。そのために自己中心の人は周囲のすべての人から好意や同情をもたれることもなく、他の人々や動物とも、温かい気持で心が通じ合うこともなく精神的な面でも、非常に大きな損失を招くことになるでしょう。

修証義第4章第24節

同事といふは不違(ふい)なり、自にも不違なり、他にも不違なり、譬(たと)へば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗に同ぜしむる道理あるべし自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり。是故に能く水聚(あつま)りて海となるなり。

 「同事といふは不違なり」とは、自他の区別を立てないことです。不違とは、違わないこと、区別や差別をつけないことです。「自にも不違なり、他にも不違なり」とは、自分に対しても他人に対しても、これを等しく同じに見て、そこに区別をつけないことです。
 海が河水の流入を拒否しないのは同事の有り様であるとして示されます。海は河の水を受け入れることによって、まず他(水)をして、自(海)に同ぜしめ、同時にその河の水を海水となすことによって、自(塩味)をして他(河水)に同ぜしめるのであります。これによって大海が成立し、そのすべては同じ海水として海の諸徳を具することになるのです。
三昧耶真言というものがあります。それはオン、サンマヤサトバンという真言であって、これは「入我我入」を示すものであるとされます。入我とは相手が我に入って相即することであり、我入とは我が相手に入って相即することです。相手の立場に立って生きること。相手と事を同じくし、喜びや悲しみを同じくする。それが同事の世界です。

小安峡 秋田県皆瀬村