「悉有仏性」について
  「 しつうぶっしょう 」 について

「悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く「悉く仏性有り、如来は常住にして変易(へんにゃく)あることなし(悉有仏性 如来常住 無有変易)」に基づきます。
 私どものこの命というものは、広大無辺の宇宙いっぱいのいのちです。この命というものは途方もない因縁によって生じているのです。太陽系も因縁生なら地球も因縁生であり親兄弟も因縁生ということになります。この因縁生の中で本当の自分を見いだすことが「一大事因縁」と示されています。
 「悉有仏性」のことを、法華経では「諸法実相」ともいいます。 「悉有(しつう)」は、あらゆるものに、すべてにゆきわたって確かに存在するということ。「仏性」は、仏になる可能性ですから「悉有仏性」とは、一切の衆生は例外なくみな仏になる可能性を持っているということです。


 悉有仏性は訓読みする場合は「悉く仏性有り」と読むのが通例です。ところが、「悉く仏性あり」というと、私たちはどうしても「仏性」という何か実体があるように考えてしまいます。しかし、「一切衆生悉く仏性有り」といいましても「これが仏性だ」と指し示すことはできません。故に道元禅師は「正法眼蔵」仏性の巻で、「悉有は仏性なり」と読み変え示されるところでしょう。原典の涅槃経の思想をさらに深めて、「悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ」と説き示されるのです。ここにも道元禅師の鋭い思想眼が輝きます。すなわち「悉有」は、悉く有りという保有することではなく、天地全部が仏性であるということなのです。また「一悉」という一は、たんなる数字の一ではなく全ということですから、一悉を言いかえると「全悉」となるでしょう。したがって「悉有の一悉」は、悉有の一部分ではなく「その存在の全て、悉く」ということになります。よって道元禅師が「悉有の一悉を衆生といふ」のは、「一切衆生(生命あるものすべて)に仏性がある、一切衆生が、そのまま仏性である」と示されるのです。


 道元禅師は「正法眼蔵」仏性の中で次のように述べられています。
 「ある一類おもわく、仏性は草木の種子のごとし、法雨のうるおひしきりにうるおすとき、芽茎(がきょう)成長し、枝葉華果も(茂)すことあり、果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解(けんげ)する。凡夫の情量なり。」
 意訳すれば次のようになります。
 ある一群の人達は、仏性というものを草木の種と同じように考えている。種をまくと、日光の恵みや雨のうるおいで、やがて芽を出し茎も成長し、枝や葉が茂り、花が咲き実を結ばせる。仏性もその通りで、衆生の中に仏性の種が宿っていて、いろいろな仏縁や良縁、つまり因縁がこれを育てると、ついには結実して仏性があらわれる。このように思っている者が沢山いるが、これは凡夫の勝手な憶測にすぎないのである。
 つまり、自分の中に仏性という種子があって、それをうまく育てると、やがて仏性の花が咲き、仏性の実を結ぶというのではない。「只管打坐(しかんたざ)」とは坐った刹那に仏性そのものなのだということになります。坐禅したから、その時間に応じて少しずつ仏性という実が結ばれるというのではない。草木で例えれば、花や実だけが仏性というのではなく、その芽も仏性現前、茎も枝葉も仏性現前です。全部一切が仏性そのものだという受け取め方によってとらわれのない坐禅になるのです。

 菩提心とは、無常を観ずるときには吾我の心を生ぜず、無常を正しくみつめる心もまた菩提心(切実に人生の道を求める心)といってよい」と示されています。その菩提心をおこすことを「発菩提心」(ほつぼだいしん)といいますが道元禅師はこれを重視します。「発菩提心」、略して発心といいますが、道元禅師は発心し、修行し、それから身心脱落するとは示されません。『発菩提心はそのまま得菩提心』ということになるのです。いいかげんな発心ではどうにもなりませんが、本当の発心ならば、その発心のところに道が得られているというのであります。けれども、その発心が一時の夏の線香花火のようなものであれば、火が消えればそれと共に道も消えてしまいます。それ故に、発心の連続が要求されるのです。発心さらに発心さらに・・発心であります。道元禅師は百千万発の発心と示されるのです。その発心が切れ間無く続くならばそれが「仏道」というわけです。
 仏教では短い時間のことを「刹那」といいますが、これは時間の単位のひとつであって、指をはじく間の時間が64刹那という説や、一昼夜が648万刹那(時間計算では約0.013秒)という説があります。この一刹那にあらわれ一刹那に消えていくことを「無常」といいますが、「無常」というのは、たとえていえば、人間の体は分子生物学によると、6ヶ月経つと完全に細胞が入れ替わってしまうというのです。茶髪にしようと指を染めようと、髪も爪も皮膚も血液も、そのままあり続けているのではなく、分子レベルでいえば生死は刹那にいれかわっているということなのです。同じように流れ続けているように見える川の水にしても全存在も同じことです。


 面山和尚の言葉で言えば「一寸の坐禅は一寸の坐仏」です。線香が一寸燃える間の坐禅であっても、只管に坐れば、たとえ初心者であっても年が若くても、直ちに仏性そのものであり、坐仏です。 道元禅師の教えは「只管打坐(しかんたざ)」ですが、黙って坐るという形のみを示しているのではないのです。只管とはよそ見をしないことです。余念のないことです。
 坐禅をすればじょじょに悟ることができるとか、坐禅をすれば悟れるとかいうのは「只管打坐(しかんたざ)」ではありません。悟ろうとか、仏性というものを手に入れようと思っているかぎり、悟ることはできませんし、仏性を体得していない証拠でもあります。生のときは生が仏性、死のときは死が仏性です。
 つまり、悟りや仏性を追い求めるという姿勢ではいつになっても正法を得られるものではないということになります。