「即心即仏」は、「無門関」第三十則に出てくる有名な公案です。 この公案は南嶽懐譲(なんがくえじょう)馬祖道一(ばそどういち)の話です。南嶽懐譲は六祖慧能の弟子で、馬祖道一は南嶽の弟子であります。ある日、馬祖が坐禅をしていました。そこに師の南嶽がやって来て、弟子に質問します。
南嶽懐譲「大徳、日頃坐禅をしているが、什麼を図っているか」 ・・(おまえは何のために坐禅をしているのか?)
馬祖「作仏を図る」 ・・(仏になるために坐禅をしています)
見ればわかるでしょう・・と言わんばかりに、馬祖が答えます。
ところで禅僧の問答とは、たんなる質問ではありません。禅の挨拶とは厳しい法問であります。それがわかっていないと、とんでもない目にあいます。
師の南嶽は、そこで、かたわらに落ちていた一枚の瓦を拾って、黙って石の上で磨きはじめた。
それを見て、馬祖が問います。
馬祖「師 麼を作す」 ・・(禅師、何をしておられるのですか?)
南嶽懐譲「磨して鏡となす」 ・・(意味瓦を磨いて鏡にするのだ)
馬祖「瓦を磨いてどうして鏡と成すことができよう」 ・・(それは無理でしょう。瓦を磨いても、鏡になる道理はありません)
南嶽懐譲「坐禅がどうして作仏することができようか」 ・・(それがわかっていながら、どうして汝は坐禅をして仏になろうとするんだい。坐禅したって、凡夫は仏にはなれんよ。
馬祖「如何にせば即ち是ならん」 ・・(それではどのようにしたらいいのでしょうか)
南嶽懐譲「人の車に駕(の)るようなもので、車がはしらぬ時、車を打つが是か、牛を打つが是か」
馬祖が答えなかったので、再び曰わく
南嶽懐譲「汝が坐禅を学ぶのは、為れ学坐仏することである。若し坐仏を学ぶようなことがあれば、仏には定相はない。汝若し坐仏せば、即是殺仏なり。若し坐相に執せば、その理に達せず。」・・(仏になるのではない。汝は是れ仏なのであり即心即仏なのだ。坐禅と仏と二つにしないことだ。つまり坐禅は、仏を忘れ、自己を忘れ、二見を離れるものであることをに気付かなければならない)
南嶽は瓦を研いで見せ、「瓦を磨いても鏡にならないように、坐禅をしたからといって仏にはなりはしないだろう」という言葉は理解に苦しむところでしょう。坐禅するのも、仏教を勉強するのも、悟りをひらくための修行ととらえてしまうのが一般的な考え方です。しかし、南嶽の示されるところのものは、信仰というものが外に向かって働いていくときには、坐禅は究極の大道とはなり得ないということなのです。
ところで、「如何なるか是れ仏」の問いに「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」と答える禅問答があります。南嶽の問答にとらわれるとますます混乱するでしょうが、我々の眼に見えるもの、耳に聞こえるもの、見えたり聞こえたりすること、すべて仏のはたらきであって仏のはたらきでないものはない。したがって、「牆壁瓦礫」といえども例外はないのです。ここのところを、別の言葉で示せば「坐禅を行じ抜いていくことが、実は瓦が鏡(自己)になることである」ということになるでしょう。
仏になるための坐禅ではなく、「打坐即作仏」です。信仰の根源というものを内にもとめていくのが正しい信仰というものでしょう。
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「無門関」第三十三則に非心非仏の公案が出てきます。
「馬祖、因みに僧問う、如何なるか是れ仏。祖云く、非心非仏」
「即心即仏」を徹底的に究明された馬祖同一禅師の答えであります。「非心非仏」とは心でもなければ仏でもないということを言ったものですが、先には「即心即仏」といい、今度は「非心非仏」という。これはどうゆうことなのか、ここは「即心即仏」公案の押さえどころです。
『景徳伝燈録』には次のような話があります。ある日馬祖が大衆に言った。「学道を学ぶ人達よ、自己の心が是れ仏であることを信ぜよ。この心は即ち是れ仏心である」。ある僧が更に問うた。「和尚はなにゆえに即心即仏と説く?」 馬祖曰わく「小児の啼くのを止めんがためなり」 僧曰わく「啼き止むときは如何」 馬祖曰わく「非心非仏」とあります。
つまり、「即心即仏」とは子供を泣きやます方便ということで肯定的に受けとめていますが、「非心非仏」とは禅の真髄を教えるための否定的方便といえます。これは言葉や文字ではなかなか表現できませんが、「即心即仏」の心がわかれば「非心非仏」になることを云ったものです。「即心即仏」にとらわれては「非心非仏」にならず、「非心非仏」にとらわれても、「即心即仏」にはなりません。
この話には続きがあります。
馬祖同一禅師の「即心即仏」の教えにより開悟した弟子、大梅法常禅師(752-839)の話です。大梅法常は開悟した後、天台山中の大梅山の庵に居して山を出ることなく修行を重ねていました。ある僧が「このごろ馬祖は非心非仏といっているそうだ」と告げた時、大梅法常禅師は「馬祖は非心非仏でよいのだ、私はただ即心即仏である」と答えた。そのことをその僧は馬祖に告げたら「大梅熟せり」とたたえたというのです。永平寺の中雀門には「熟梅」という額がかかっていますが、ここから来ているともいわれます。大本山永平寺は、この大梅法常禅師のような気概を念頭に置いて、福井の雪深い山中に道場を開いたものであることを表明しているということでしょう。
「鬼も悟れば仏となり、仏も迷えば鬼となる」という通俗的な言葉もありますし、「心が悟れば仏となり心が迷えば衆生となる」とも考えられますが、真実実際は心も衆生も仏も同じことですから「即心即仏」なのです。心や仏が特別にあると思って探し求めては「即心即仏」はつかめません。求めるという有所得のはからいを止めて、無我無心の心「廓然無聖」の心が「非心非仏」ということになるでしょう。
なるほど、合点!・・・・ とぬか喜びではいけません。

徹通禅師の自画賛に
故業受生雖格別(古業受生、格別なりと雖も)
即身是仏有何疑(即身是仏何の疑いか有らん)
従来倶住不知面(従来倶に住して面を知らず)
今日相看非吾誰(今日相看吾に非ずして誰そ)
大雑把に言えば、
めいめい顔や人格、考え方も、何もかも違う。それは長い間の結果であるといえども
即身是仏ということにおいて何の疑いか有ろうか
凡夫は、凡夫の自分に気づくことなく、仏の自分が一緒に住していることを知らず
そこをしっかり看てとれば、凡夫も仏もそれは一つであった
というようなことでしょうが、頭の理解ではけっして到達できるものではありません。無我無心の世界とは理解の及ぶ世界ではないのです。「即心即仏」も「非心非仏」も行の世界であり、それが「仏道」です。
道元禅師はここのところを「正法眼蔵」即心是仏の巻で詳しく示されます。
「仏仏祖祖いまだまぬがれず保任しきたれるは、即心是仏なり ・・・ 所謂 即心の話を聞きて痴人思はくは、衆生の慮知念覚の、未発菩提心なるを、便(すなわ)ち仏と思へり」 と述べられます。つまり、「心がそのまま仏である」 というのは真実ではあるが、誰でもそのままで仏になれる、仏であると考えるのは間違いであるといわれるのです。「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず」と明解に示されるのです。仏道修行がそのまま「即心即仏」であるということです。静かな良い環境で坐禅することは勿論のことですが、苦しい環境の中で呼吸を調え心を調え行じることは一般社会の即心即仏であるということになるでしょう。「修証不二」や「即心即仏」の仏仏祖祖の行とは、悟りも追っかけず、また何ものからも逃げずに、仏祖の坐禅に安住する「只管打坐」ということになります。畢竟、「即心即仏」とは仏の「行持」です。
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