舎利礼文


一 心 頂 礼 ◇一心に頂礼したてまつる
万 徳 円 満 ◇萬徳を具足し円満なる
釈 迦 如 来 ◇釈迦如来の
真 身 舎 利 ◇本身(真理)なる舎利と
本 地 法 身 ◇本地の法身(実在)と
法 界 塔 婆 ◇永遠不滅の塔婆(縁起)とを
我 等 礼 敬 ◇我、等しく礼敬したてまつる
為 我 現 身 ◇(まさに)我が為に身を現じ
入 我 我 入 ◇我が如来に入り、如来が我に入る
仏 加 持 故 ◇仏の加持(願)の故に
我 証 菩 提 ◇我は迷いを断じて悟りの智慧を証します。
以 仏 神 力 ◇仏の神力を以て
利 益 衆 生 ◇衆生を利益し
発 菩 提 心 ◇菩提心を発し
修 菩 薩 行 ◇菩提行を修し
同 入 円 寂 ◇仏と同じく円寂に入らしむる
平 等 大 智 ◇その平等にして大智なる釈迦如来を
今 将 頂 礼 ◇今将に頂礼したてまつる

 平等大智とは「ほとけ」であり「仏性」です。「仏性」とは、ほとけの悟った本性であり、本性とは縁起・無自性・空・無我と示します。有限な現実の人生と、永遠無限な「空」の実相とは人間社会から見れば矛盾し対立するものではありますが、この矛盾対立する二つが一つとなるところに宇宙の真相・実相があると説かれるのです。「仏性」の立場からすれば、生と死との両否定であり、両肯定となるでしょう。両否定とは、永遠なる生命は不生不滅となり、両肯定とは「生死不二」となり、永遠な生命の活動ということになるでしょう。これが片否定の「生死不二」の生死肯定の面のみをとりあげれば、単なる現実肯定となり、世の差別や悪に満ちた事実相に反することにもなるでしょう。
 道元禅師の「生滅にケイ礙せざるゆゑに、よく生滅をして生滅せしむるなり」(空華)のお示しを生き方にあてはめれば、「限りある生命をもって無窮の宇宙に生きる」ということであり、「不二」や「一如」とは「生死」の超越であり、苦しみ悲しみも「真理」と受け止める大いなる智慧となるのではないでしょうか。このことは、いかなる時にも苦しみから逃げ出さずに人間の心の方向である「願」をもってハラをすえることを要求します。そのほとけのはからいのままにあろうとする菩提心によって仏の神力があらわれ、迷いを断じて悟りの境地があらわれるのです。今、まさにほとけを頂礼したてまつる。