|
これは、「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」といわれるものです。七仏とは過去七仏と云われる毘婆尸仏(びばしぶつ)・尸棄仏(しきぶつ)・毘舎浮仏(びしゃふぶつ)・拘留孫仏(くるそんぶつ)・拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)・迦葉仏(かしょうぶつ)・釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のことです。お釈迦さまはご自分をこの世における最初の仏とはなさらず、自分は古仏の跡を歩んだのであるとされ、この過去七仏の存在を説かれました。そして、この過去七仏も同じく説いたという意味で「七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)」というのです。つまり、これはお釈迦さまだけが説かれるのではなく、昔よりこの世にあらわれた諸仏がみな同じように説いている普遍の道理なのだというみ教えをあらわしたものです
仏の教えというと、難しいことを考えますが、仏教というのは、この一生を最善に、どうして生かそうかということです。それを、つきつめれば、「諸悪莫作・衆善奉行」なのです。しかし、非常に簡単なわかりやすい教理ですが、実行はなかなか難しい修行となります。
白楽天という詩人がいました。本名は白居易。唐の代表的な詩人で、晩年は、詩と酒と琴を「三友」として、悠々自適の生活をおくったという知識人です。白楽天の詩はご存じかと思いますが、在世中から民衆に親しまれ、牛追いや馬子までがこれを口ずさんだといわれています。
林間に酒を温めて紅葉を焼く
遺愛寺の鐘は 枕をそばだてて聴き
香炉蜂の雪は 簾をかかげて看る
などの詩歌は、『長恨歌』や『琵琶行』とともに、わが国でもよく知られています。
白居易は、大暦七年(772年〕、河南省の新鄭に地方官吏の次男として生まれました。彼は29歳で官吏登用試験に合格し進士となります。順調に官界コースを歩んでいましたが、40歳のとき母の死にあい、重ねて幼い娘の死に遭遇します。ここに彼は、儒教では解決しがたい人間の「死」の問題に直面し、道教や仏教に関心を強めました。しかも、しばらくして白居易は政治的に失脚し、左遷!。いよいよ彼は、仏教・道教に傾斜していきます。白居易、50歳の時です。彼はみずから求めて、杭州刺史となって赴任します。刺史とは州の長官、今の県知事に当たりますが、首都の権力闘争を避けて、彼は地方に出たのです。
杭州の秦望山には、鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼ばれる名物禅僧がいました。この禅僧、山中の松の木の上に巣をつくって稜み、木の上で坐禅をしていました。白居易は、この和尚の噂を聞いて、ある日、面会に出かけて行きます。白居易は、木の上で坐禅している道林を見るなり、こう叫んだ。
「禅師の住処、甚だ危険なり!」
白居易は、少しは仏教を学んでいる。それで、鳥彙道林をへこましてやろうとする気があったのでしょう。わざわざ木の上で坐禅をする。そんな奇をてらった和尚にいささか反発も感じていたのでしょうか。だが、鳥彙道林和尚は半端な禅者ではなかったのです。和尚はすぐに応じた。
「太守、あなたのほうが、もっと危険ですぞ!」
木の上にいるわしを危険だと言うあなたは、自分自身の危険を忘れているのではないか。あなたのいる世界には、左遷・失脚・裏切り・寝返り・犠牲などがいっばいある。おまえさんたちは、そんな危険を忘れてのほほんとしておる。あなたのほうが、もっと危険ではないのか −− というわけです。
白居易は返答できず、みごとに一本取られます。そこで、さらに問答を重ねます。
「仏法の大意とはつまるところ何なのか?」
道林和尚「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをするな、善いことをせよ〕
これはいたって平凡な解答です。どこかのおじいちゃん、おばあちゃんでも言いそうな言葉です。偉い禅師の言葉とは思えぬ、そう思ったのでしょう。
白居易は言う「そんなことは、三歳の童子でも知っていますよ」
だが、鳥彙和尚は動ずることなく「三歳の子供が知っていても、八十の老人すらこれを実行することはむずかしいぞ!」と応じるのです。
一切の悪いことをするな、善いことをせよということは、最も簡単な教理ですが、簡単なことほど実行するのは難しいところがあります。分かることと、行うこととはまったく別なのです。禅はなによりも「行」を根本とします。この教えも、三歳の子供でもわかりそうなことでも、実際のところは八十の老人にしても実行することは難しいと説くのです。
ところで、七仏通戒の偈は往々にして命令形に「諸の悪を作す(なす)莫れ、諸の善を奉行せよ」と読まれがちです。漢文はいろいろに読むことができるので、命令形に読むのをまちがいというのではありませんが、仏教的には他からの強制や禁止・命令によらず、自分から進んでする自由意志によるのを旨としますから、命令形に読み下すのは好ましくないのです。
たとえば、最も古い経典の一つの「法句経」の183句に、
 |
| 田麦俣 七ツ滝 H17年撮影 |
ありとある悪を作さず
ありとある善きことは
身をもって行い
おのれのこころをきよめん
これ諸仏のみ教えなり
仏教の善悪の教えとは、 「正しいこと」とは自他を活かし、共に喜ぶことであり、「悪いことと」とは自他を殺し、悲しませることです。
同、法句経に「悪の報いは自分にはこないと、小さい悪事を軽くみてはいけない。水のしたたり落ちる一滴一滴の水が、やがて水瓶をいっぱいにするように、愚かなる人は、ついに悪を満たすなり」とあるように、善きことを思い、善きことをなせば、幸福は必ず実現する。反対に、一時はずる賢く要領のいい人間がはびころうと、因果の法則はくらますことはできないという教えは人生の鉄則といってもいいでしょう。
道元禅師は七仏通誡(しちぶつつうかい)の偈(げ)は菩提の語として悟りの境地を示したものであると「諸悪莫作の巻」で説かれています。
つまり、悪いことはしまいと願い、悪いことはしないように心がけているうちに、修行の功徳力があらわれて、悪いことを行うことがないようになるというのですが、さらに、修行力が現成している人は、悪事をなしそうな場所にあったり、悪事をなしそうな機縁や悪事をなしそうな友と交際しているようであっても、悪事は自らなされなくなるものであると示されるのです。「悉有仏性」の立場においての「止悪行善の戒」とは、道徳や倫理の善悪ではなく、自主自律的に守られるであろう誓願であり聖戒なのです。
|