初転法輪
四諦の教説と四苦八苦

 お釈迦さまは釈迦国の王子でしたが、世の無常なるを感じて何不自由の無い地位を捨て、人生の苦しみを解決すべく29歳で出家されます。その後は多くの賢者に教えを受けながら6年間の求道生活の後、時至り、
尼連禅河に沐浴しピッパラの大樹のもとで端坐瞑想をされ、一見明星を契機として大悟され仏陀となられました。その日は12月8日、この出来事を仏典は「降魔成道」(ごうまじょうどう)と示します。すべての悪魔を降伏させ悟りを開かれたという意味であり、禅家ではこの日に成道会(じょうどうえ)を行っています。
 人生の一切のとらわれが無くなり迷いを脱した釈尊は菩提樹の下で長い間坐禅を続けて、心静かに真理を楽しみ味わっていました。そして真理を悟られたお釈迦さまは、その真理の甚深微妙法(じんじんみみょうほう)は世人には理解できないだろうと誰にも伝えることなく、そのまま入滅されようとしていることを知った梵天(インド神話の神)は「世尊よ、法(真理)を説きたまえ!」と懇願します。成道の日から数えて、21日目にお釈迦さまは梵天の説得(梵天勧請)に動かされます。
 お釈迦さまは、人間の苦しみや悩みはどうしておこるのか。苦しみの根本原因と、苦しみの生起してくる過程を【12因縁】として説かれるのです。ごく簡単に説明しますと、

  1,無明 (因果道理を理解できない無知のこと)による、その無明から 
  2,行
  (縁に関わる力・行為)が生じ、行から 
  3,識
  (心作用・識別・意識)が生じ、識から 
  4,名色
(名は心、色は形という形態)が生じ、名色から 
  5,六処
(眼・耳・鼻・舌・身・意たる六種の感覚器)が生じ、六処から 
  6,触
  (心が対象と接触し認識する)が生じ、触から 
  7,受
  (苦楽と感受するはたらき)が生じ、受から 
  8,愛
  (苦を厭い楽を渇望する妄執)が生じ、愛から 
  9,取  (欲しいという執着)が生じ、取から 
  10,有
  (所有を欲する性格)が生じ、有から 
  11,生
  (生存性格を備えて生まれていること)が生じ、生から 
  12,老死 (生老病死の苦悩を受ける・生死輪廻)が生じるというものです。
 我々は誰でも自分は正しく見たり聞いたり嗅いだり聞いたり味わったりしていると思っています。けれども、名色や識の作用とは「行」によってとらわれ染められます。無明とは本能的に自分を守ろうとする自我です。そこからさまざまな煩悩が働きだします。仏教でいう「愛」とは、西洋的「愛」とは異なり、苦を厭い楽を渇望する妄執、執着と示されています。無明、煩悩、執着によってしがらみをつくりだして自縄自縛しおろかな行為をくりかえしてしまいます。この自分の都合に合わせてとらわれる故に「苦」が生じます。


 まず最初にお釈迦さまはかつての五人の比丘に教えを説こうとされます。これが伝道活動の開始となります。これを初転法輪(しょてんぼうりん)と呼びます。「輪」というのは古代インドで使われた武器で、輪の回りに刃物がついています。もちろんお釈迦さまは武器を手にされたわけではなく平和の「輪」の法輪を回転させたという意味です。
 お釈迦さまが5人の比丘に説かれた教えとは「四諦(したい)の教説」です。諦という字は道理をあきらかにするの意で、四つの真理という意味になります。

四諦(したい)の教説
1,苦諦(くたい)・・・・・苦に関する教説
2,集諦(じったい)・・・苦の原因に関する教説
3,滅諦(めったい)・・・苦の原因の消滅に関する教説
4,道諦(どうたい)・・・苦から解放される為の実践に関する教説

1,苦諦(くたい)とは「生きるということは本質的に苦である」ということです。お釈迦さまの教えの根本は・・・「無常なるが故に苦なり」と示されます。「苦」は、サンスクリット語では「思うままにならないこと」であり、生きることも老いることも、病気も死も同様です。
その基本的な苦として「四苦八苦」を説かれます。四苦とは、1,生 2,老 3,病 4,死です。
 あと、四つの苦が、 
5.愛別離苦(あいべつりく)愛するものとの別離は苦である。
6.怨憎会苦(おんぞうえく)怨み、憎む者に会わねばならぬのは苦である。
7.求不得苦(ぐふとくく)生老病死は生き物の本性なのに、病のない世界や老いのない世界を求めても得られるはずがない。畢竟求めるものが得られないのは苦である。
8.五蘊盛苦(ごおんじょうく)物質界と精神界のいっさいの事物、現象が苦である

2,集諦(じったい)とは、苦の原因に関する真理を示すもので、苦の原因とは執着にあるという教えです。その苦悩の根本原因は、渇欲・渇愛・無明であると説かれ、これらの煩悩をまとめて、貪欲・瞋恚・愚癡(とんよく・しんい・ぐち) の三毒と示します。

執着なる愛は三つに分類されます。
1.欲愛 (感覚的・物質的な欲望)
2.有愛 (未来の幸福を願う欲望)
3.無有愛(死後の世界の幸福を願う欲望)

貪欲には五欲を示します。
1.財欲(お金や財産を限度無く欲しがる)
2.色欲(見たもの、聞くもの、嗅ぎ、味わい、感覚にふれた事柄におぼれる)
3.飲食欲(ぜいたくな食物や美味、酒などにおぼれる)
4.名誉欲(地位や名誉をほしがる)
5.睡眠欲(わがまま勝手、怠惰な放逸な生活にふける)

愚癡(ぐち)とは偏見、無知な考えで「五つの悪見」を示します。
1.身見(我見ともいい、事物に対する固執の考え)
2.辺見(断見、常見のことで極端に片寄った考えのこと。「断見」とは死の一辺に偏り固執する偏見。「常見」とは生の一辺に偏り固執する偏見)
3.邪見(因果応報などない、今さえよければいいと刹那の歓楽にふける)
4.見取見(自分の見方に固執し、自己主義的独断論をふりまわす)
5.戒禁取見(過激な理論や苦行などを説く、また、迷信を正法なりというインチキ宗教など)

3,滅諦(めったい)とは、苦の原因を滅する為の教えです。「求むるところあるは皆苦なり」と示されるように、執着を無くすことを滅諦といいます。貪欲・瞋恚・愚癡 の三毒、即ち無明・渇愛から遠離しその火を消滅せしめるのが諦観(たいかん)で、この状態を「悟り」「涅槃」「寂静」「寂滅」「円寂」ともいい、禅語では「見性」「身心脱落」「大死一番、大活現成」などともいいます。「涅槃」とは、「煩悩の炎を消す、或いは火の消された清涼な状態.境地」という意味です。 

4,道諦(どうたい)とは、苦しみの生起するもとを知り、苦を滅する修行、実践に関する教えです。「苦しまない為には考えないこと思い出さないことと」と言われても、そんなことはできないから悩むのです。考え、思うときのポイントは、正しく思い正しく実践することなのです。釈尊は、これら四つのことの理解と実行以外に苦しみを逃れる方法はないことを体得され、実践され、教えられたのです。その実践道として「八正道」を示されました。


「八正道」
1.正見(しょうけん)正しい見方
 苦しみの基は「間違った見方」です。「諸行無常」と「諸法無我」なる現実を認識していないことに因ります。すべてのものは常に変化し、永遠に存続するものは何もない。すべてのものは「縁起」によって生じ、それ自体独立で生じているのではなく他との関係性の中にあるのです。自分の考えは常に正しいと信じ、自分に執着することを「我執」といいます。
2.正思惟(しょうしゆい)正しい思考
 「諸行無常」と「諸法無我」を基本とすれば、欲深く、とらわれ、求める心が迷いのもとと知ることです。
3.正語(しょうご)正しい言葉
 嘘を言わない、悪口や中傷するようなことは言わない。他人の噂を広げない、無益な言葉を離れることが正しい言葉が生まれる素地となるでしょう。
4.正業(しょうごう)正しい行為
 「「嫌なものは嫌」「憎らしいものは憎らしい」だけでは、結局は自我のモノサシです。自分の都合で分けて見ることを「分別」といいます。世間では「分別がある」のは良いこととされていますが、仏教ではこの分別が迷いの根源になるとされます。
5.正命(しょうみょう)正しい生活
 正しい生活の手段を持ち、自分の為すべき使命を全うすること。
6.正精進(しょうしょうじん)正しい努力
 空想も想像力も間違えれば邪念や妄想となる。正しい精進、努力が求められます。
7.正念(しょうねん)正しい心の集中
 「何も思わぬこと」ではありません。正念とは仏の教えを常に念頭において忘れないこと。
8.正定(しょうじょう)正しい心の安定
 正定(しょうじょう)とは身に戒律を保ち、口に慈愛の言葉を語り、心に慈悲心を持つことになるから、これを戒・定・慧の三学というのです。


 ブッダは大医王(すぐれた医者の王)とも呼ばれますが、名医とは、1,病を知り 2,病原を知り 3,病を治し 4,再び病を起こさせない。と言われます。
 お釈迦さまは名医が病気を治癒するが如く、縁起の理法に基づくところの「四諦」の真理を示し、八正道を実践していけば、いろいろな物事に対する執着が無くなり、執着(とらわれ)が無くなるから苦が無くなる。これが、「四諦、八正道」の教えであると示されるのです。
 後に大乗仏教が起こると、自己の利益(悟り)よりも他を利益(りやく)することを先とする菩薩道が説かれ、六波羅蜜(パーラミター)の教えが主となります。六波羅蜜(パーラミター)とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧であり、八正道と違うところは最初に布施が説かれているところであり大乗仏教の特色となります。

 十六羅漢岩 吹浦