生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸

 時は金なり。娑婆世界においては一刻一秒を競い、悠長に構えていては遅れをとることになる。一方、大本山での時の流れは俗世の流れには一切迎合することなく、毎日の修行は昔も今もほとんど変化はありません。
 夜も明けぬうちに始まる早朝勤行では150名余の修行僧がかもし出す読経と一糸乱れぬ進退作法が見事ですが、それを導き指揮しているのはいろいろな鳴らしものです。この時のおごそかなる雰囲気は静寂があってこそです。集団生活の中にあっては自分一人位の小さな声はたいしたことはないと思っても、小さな一人の声であっても大勢が声を出せばうるさいくらいの声となる。それ故に、静寂を必要とする修行生活では、話すことを禁じ、すべて鐘、木魚、手磬、太鼓、木版(もっぱん)、魚鼓(ほう、と呼び上記写真の警策を持っている人の上にある魚状の法器)等の鳴らしものや修行僧自身の動作で意志表示をすることになっている。そして、集団生活の行動の伝達方法として、作務(さむ・掃除等の作業)普請を知らせる普請鼓(ふしんく)、夜明けの時報である暁鼓(ぎょうく)、日没の時報である昏鼓(こんく)、入浴を知らせる浴鼓(よくく)等、鳴りものの音を聞き分けて修行僧は生活しているのです。

 上記の「生死事大・・」の言葉は修行道場の木版に書かれている語句です。
 木版というのは、厚みのある板で作られた法具です。朝、起床の合図である振鈴(しんれい)に引き続き、洗面板というこの木版が打たれます。 この木版には、『生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸』 生死事大(しょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)と書かれています。 その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められています。
 私たちは、人生の約三分の一を眠りに費やしています。60歳の人生ならば20年は眠って過ごした計算になる。睡眠は体にとって重要なことですが、何の為に生きるかということは人間にとって更に重要です。インドでは「無常を恐れおののくことを宗教心という」そうですが、道元禅師も「学道用心集」に「無常を観ずる時、吾我の心、生ぜず。名利の念、起こらず。時光のはなはだ速やかなることを恐怖(くふ)す」とあります。時はまたたくまに過ぎ去り、一度去った時間はとり返すことはできない。「諸行無常、時はとどまらず必ず衰えゆく我が身は朝露の如き命である」とのお示しの如く、私たちは限られた時間の中で生きています。この「無常」に目覚めると、人は人としての理想の生き方を求めるようになります。その心を発すことを発無上心(ほつむじょうしん)というのです。

 『「今日が最後だ」と思って真剣にとりくめよ!』と、先人が警鐘を鳴らし、木版を打して教えを示しても、凡愚な者は「生あるものに老いや寿命があるのは当前のことだろう。そんな話し自体が縁起悪い」と真の縁起の理法は見えず聞こえはしない。 川柳に 「いつまでも、生きている気の、顔ばかり」 というのがありましたが、「他人の死」を感じることはあっても、自分の死についてはなかなか自覚できないものなのでしょう。
 医学の進展により寿命は延びていますが、一休禅師は「生まれては死ぬるなりけり、おしなべて、釈迦も達磨も」と示しているように、生あるものは間違いなく死ぬのです。

g厳美渓

 経典に「愚者は放逸を楽しむ」とあります。放逸とは怠惰ということです。無常の迅速なることを自覚して、早く解脱するためには五欲(財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)にとらわれない、こだわらないところを弁道精進していくわけです。「遺教経」の中で「煩悩の毒蛇(どくじゃ)睡(ねむ)って汝が心(むね)に在(あ)り、たとえば黒がんの汝が室にあって眠るが如し」「我々の身体の中に煩悩の毒蛇がいて、放逸であれば自分の心の蛇に食い殺されてしまうぞ、苦から離れたければ「正(まさ)に放逸を棄(す)つべし」ということです。
 木版の『生死事大 無常迅速 各宣醒覚 謹莫放逸』という言葉の中には、叩いて音を出し、合図をするだけではなく、その音で修行者の心をも目覚めさせようとの意味もあるのです。鳴らしものの音とは、時計であり、合図や言葉であり、感性を磨き悟性の境地へと導く仏声です。正伝の仏法とは草や木々の自然にも、太鼓や木版の音、そのような音声の中にも、深甚微妙な真実のみ教えが説かれていることを示しています。

法体の滝 平成15年撮影