人生に宗教は必要か
真の心のよりどころを持たないから
行いが乱れ、道を誤ってしまう


--- 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり ---
 
山岡鉄舟と弟子の話にこんなのがあります。−− 鉄舟が無心に禅の本を読んでいた。すると弟子がやってきて、「先生、そんなに神仏を信じたって、しようがないじゃないですか。わたしは、毎朝、道場に通ってくる前に、神社の鳥居で立ち小便をしてきますが、いっこうに罰などあたりません」と言った。すると、鉄舟が 「馬鹿もん!」 と一喝。 「すでに罰が当たっているではないか。立ち小便と言うのは犬や猫がやることだ。りっぱな武士が鳥居に立ち小便をするとは、犬や猫になりさがっている。それが罰だ!」と言ったといわれます。

 宗教の意識調査では昔も、「信じなくても幸福な生活が送れる」と考える人はいましたが、近年においても「宗教とは、人間が人生の窮地に陥ったとき、最後にすがるセイフテイネッとだと思う」という評論家は増えているような気がします。
 考えてみれば、産業構造が農業から工業に移行して以来、地方の主力労働者は都会に向かわざるを得なくなり、旧農村型家庭は劇的なほど変化し里山の風景も大きな変化が感じられる。そんな都市型家庭の多くには神棚もなければ仏壇もない。家庭では宗教的慣習も教わることなく、学校でも地域でも教えられていない。教育といえば「お受験」しか考えられないような家庭教育では、家は単なる住宅となり家族は同居人となる。夫婦仲が良ければそれでも救われるが、そうでない家庭の子供たちは人生に憧憬や希望を抱くこともなければ、結婚をも望まない若者が出現しても不思議ではない。
 これは、日本人に宗教心が無くなった訳ではなく学習させてこなかっただけなのであろうが、心の芯の空洞な若者が数を増していく。その隙をつく新宗教なるカルト教団も出現するが、その宗教扇動に世間は動揺し、逆に宗教は危険なものという偏った認識がすり込まれてしまった。「無宗教」を標榜する文化人?がマスコミにとりあげられ、葬儀も「無宗教葬」が為される背景には、「人が、人らしく生きる」為の「よるべ」を見失ってしまった結果のようにも思える。
 
 あなたは・・ 何を求めて生きるのか? 
 あなたは・・ 何を信じて生きているのか?
 あなたは・・ 何の為に生きるのか?
平成16年撮影 秋田栗駒山中にて
 「何の為に生きるか」「どのように生きるか」という人生の学びには「信念」が必要となるでしょう。けれども、「聖戦」も信念なら、「ラベル偽造」も信念といえる。信念という字は、「人の言葉を今の心として生きる」と書くが、誰の言葉を学ぶかによって信念の有り様もまことに危ないものになる。法句経の中に「己こそ己のよるべ 己おきてたれによるべぞ よく整えし己にこそ まこと得難き よるべぞを得ん」という詩がありますが、この「己を調える」という宗教がなければ真実相など見えるはずはないのです。
  釈尊の教えに 「心に従わず、心の主(あるじ)となれ」という言葉があります。「心こそ 心迷わす心なり 心に心 心許すな」という歌もあるように、この心をどう制御していくかが大切なところです。「心の師となるも心を師とすることなかれ」とも示される。心の主となっている人とは、人知れず知らん顔して人の為になることをしているものですが、心を師としている人とは「私がこれをしてやったあれもしてあげた・・」「相手がこうしたああいった・・」「理解してくれない・・」と「他の誰か」や「何か」のせいにする。そのくせ、こっちで何かしてるとワ−!あっちで何かしてるとワ−!タダでくれるなら何でも貰おうとウロウロ。 「どうせ人間いつかは死ぬ」とわかったようなことは言っても、その姿勢と呼吸にはおだやかさと落ち着きがない。 「人生無目的」という状態は仏教の言葉で言えば「我痴」というのです。勝っても調子づいて道を失い、負けても道を失う。お金を持っていても道を失い、お金がなくても道を失う、これを「無明長夜の闇」と示しています。 
 
 釈尊は、執着する故に道を誤ってしまうと説かれますが、ではいったい我々は何に心を執らわれているというのでしょうか。「地蔵十輪経」には十の事柄が挙げられていますが、内容を簡単に説明します。
二の滝 鳥海山中腹(遊佐町)
一には仕事に楽著する。 
二には談論に楽著する。 
三には睡眠(怠惰)に楽著する。 
四には営利に楽著する。 
五には艶色に楽著する。 
六には妙声に楽著する。 
七には香りのいいものに楽著する。 
八には美味に楽著する。 
九には肌触りの良いものに楽著する。 
十には自分の考えに楽著する。

 ここに挙げたものは、生きていくうえで活力になりそうなものばかりですから、なぜこれが悪いのかと思うでしょうが、であるからこそ執着すると人生をあやまってしまうのです。仕事をする時には徹底して仕事に打ち込む。そのことが大事なことに違いはありません。しかし、徹底もその為す方向が違うと道からそれてしまうのです。
 
一の滝 鳥海山中腹(遊佐町)
 ではいったい何をよりどころとすればよいのか。
 先と同じく「地蔵十輪経」から要旨を紹介します。
一には、浄心を具足し、一切の善悪の業果あることを信ず
二には、慚愧(恥じること)を具足し、悪友・悪見を遠離す。
三には、律儀(戒めを持つ)に安住し、殺生や飲酒を遠離す。
四には、慈しみの心に安住し、怒りの念を遠離す。
五には、悲心(他人の悲しみ苦しみを我がこととする)に安住し、困窮するものを救う。 
六には、喜心に安住し、言葉の四悪業(妄語・綺語・悪口・両舌)を遠離する。 
七には、捨心(執着を捨てる)ことに安住し、むさぼりや嫉妬を遠離する。 
八には、正帰依を具し、一切の妄りに吉凶を執することを遠離し、邪神、外道に帰依せず。 
九には、精進を具足し、志を堅くして諸々の善法を修す。 
十には、常に寂静をねがって、法義を思求し、歓悦して倦むこと無し。

 
  科学的証拠にもとづいている真理は信じる必要はありません。何故ならそれは客観的な事実だからです。では何を信ずればいいのか・・首楞厳経には心という字を「常住の理(ことわり)を信ずる」こととあります。間違いのないところの道理を信ずるということといえるでしょうか。
 神仏に限らず、粗末にするから罰があたるのではなくて、粗末にしていることが既に罰があたっているという「常住の理(ことわり)」に気づくことが大切です。「頑張って尽くしてきたのに感謝もされない。何のために頑張っているのかわからない」とグチってしまう自己を見据える。「何のために・・」と問うこと自体が自我のなせるワザに気づくべきでしょう。悟りを開きたいと思っての修行ではあっても、矛盾するようだが悟りを得るための修行であっては辛く苦しくつまらないものになってしまうのです。只、「今」「此処」を悟り生きるとは、正しい精進で見返りさえも期待せず楽しみや幸福を見つけ出すことです。

信念という字は「人の言う今の心」と書きます。仏の心に気づくには「信念」ではなく「念仏」であり、「信」というは「まかせる」ということも含まれるのです。

信はわが蒔く種子である
智慧はわが耕す鍬なり
身口意の悪業を制するは
わが田における除草である
精進はわが引く牛にして
行いて帰ることなく
おこないて悲しむことなく
われを安らけき心にはこぶ

      (雑阿含経より)