道元禅師と典座和尚

 道元禅師は「威儀即仏法、作法是宗旨」(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)といい、私たちの行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四つの威儀や、普通の作法以外に仏法の極意はない、と随処に説示されます。「威儀即仏法 作法是宗旨」を平たくいうと、すべての立ち居振る舞いが坐禅に一致するというお示しです。坐禅が日常の行往坐臥に展開されるということです。
 道元禅師が、食生活全般について教える有名な著書に「典座教訓」があります。この書は、38歳のときになるものです。この「典座教訓」にかかわる話しをご紹介します。

 道元禅師は貞応2年(西紀1223)24歳の時、入宋して中国に禅道の真髄を究めようとされました。3月博多を出帆して4月に慶元(寧波)に着きました。道元禅師が着いたこの寧波とは現浙江省東部の港町です。この地は、かつては日本の遺唐使の上陸港として知られ、宋・元時代はわが国の禅僧の遊学地で、禅師のいう故建仁寺の僧正『栄西禅師』も上陸したところです。道元禅師もさぞ感慨深かったことでありましょう。慶元の近くには五山といわれる阿育王山広利寺や、天童山景徳寺などがあります。禅師はまだ上陸していないで、船を宿としておられました。5月4日の午後、港から160キロメートルほど離れた阿育王山の広利寺で典座(禅寺で修行僧の食事を司る役職〕をつとめる一人の老憎が、道元禅師と同船していた日本商人から椎茸を買い求めているのに出会います。道元禅師は知識欲おう盛ですから、この老僧を引きとめていろいろと現地の情報を聞こうとされたのでありましょう。
 この阿育王山の老典座和尚は、日本船入港ときいて、節句を前にダシにする椎茸を買いに来たのでありました。聞いてみると、昼食後、5里以上もある道を歩いてきて、買出しがすめばまたすぐ帰るのだという。老典座は永い間修行もしたし住職もしたことがあるが、もう一度志を立てて阿育王山へ修行に来たのだという。それを聞いて禅師は、「再度志を立てたほどの貴憎が、どうして典座の職などしているのですか?。修行というのであれば、坐禅をしたり、お経の研究をするとか、公案工夫をするとかでなくては、意味がないのではないですか?」といわれたのです。するとその老典座は答えられました。


『外国の好人、未だ弁道(仏道)を了得せず、未だ文字を知得せざること在り』  《 典座教訓 》
 老典座は慈眼をもってこれに答えるのです。「立派なお若い外国のお客人よ、惜しいことにあなたはまだ修行や求道のなんたるかがわかっておられない。文字の何たるかもおわかりでないようですなあ」

 禅師は入宋前、建仁寺で、明全和尚について6、7年も臨済禅を学んでいたので、仏道や禅については相当分っているつもりでいたかも知れないのですが、老典座からなにも分っていないと云われて「発慚驚心」とありますから、おおいに冷汗をかいたのでありましょう。そこで、禅師は自分の失礼をわびて「その、仰有る文字の道理、修行の道理、仏法とはどうゆうものですか」と教えを乞うたところ、老典座は慈顔をもって答えてくれます。
『若(も)し問処(もんじょ)を蹉過(さか)せずんば、豈(あに)その人に非(あら)ざらんや』
「今あなたが質問した、まさにそこのところを踏み外さないように通過しないと、文字や弁道を知った人とはいえませんよ」・・・。これは、仏法を頭でわかろうとするなら、問題の要点とすれ違って何も得られまい。問題と自分と一体になることだ。問いと自己と一つになるその人こそ、文字を知り道を体得した人に外ならない」ということになろうと考えますが、老典座は「そうしたことは、すぐには了解できないだろう、今日はゆっくり出来ぬが、阿育王山へ来てくれれば、その時にじっくり文字の道理を語り合いましょう」と立上った。禅師は名残りを惜んで、是非泊ってもっと聞かせて下さいと懇請したが、無断で外泊もできないし、第一明日の食事に事欠くことになると云うので、禅師が「阿育王山には係りの人も多かろうから貴僧一人ぐらい居なくてもかまわないのではないか」と云うと、老典座は「年老いてからの再修行です。どうして自分の勤めを他人に譲ることができましょうか」と言い残して船を降りていきますが、この言葉は禅師の心に強く残るのです。

 道元禅師は、おそらくは去っていく阿育王山の老典座の後ろ姿をじっと見つめながら、自分の視野をさえぎる目のうろこが一枚ぽろりと落ちたのを感じたことでしょう。それまでの道元禅師は、現代の私たちと同じような発想法ですべてを対立的に考えていたのでしょう。即ち「本を読んで考える」とする私という主体と、書物や物という客体と相対的な解釈といえます。
 今まで日本の学校教育では掃除は当然のように為してきましたが、この風習は世界共通のものではないようなのです。アメリカでは掃除は清掃員がすべきものと考えているようですし、インドでは掃除などは卑しい人間のやることであるという観念(カ−スト)があるので生徒にはそういうことをやらせない。儒教でも額に汗して働くということは君子のやることではない、田畑を耕したりの肉体労働などは士がすべきことではないという概念があるのです。士は、国家のことを考えたり、詩や歌を作ったりするのが大切というわけです。道元禅師も公家の出身でありますし、当時の比叡山や建仁寺などの教学のありかたも含めて、掃除や炊事は学問や修行ではない。それはたんなる労働か雑務に過ぎないと見下げていたのでありましょう。

 しかし、老典座にとっては行住坐臥が修行であり、典座の自分は炊事の担当こそが道だったのです。道の実践であったればこそ魂もこもるのです。寺から5里余もある所をやって来て買い出しを済ませ、またその足ですぐ帰る。帰れば夜の勤めもあり、翌日の食事の仕度や指図もせねばならぬ・・・。道元禅師の心は開きはじめます。「そうだ、掃除も炊事も雑用ではない、禅者にあっては本来雑用は一つもない。こちらの心が粗雑でいやいやするから雑用になる。すべて仏道の実践である」という真実の道にめざめつつあったのです。 それは、その喜びを感激の言葉でつづります、「山僧(わたくし〕いささか文字を知り、弁道を知るを了ずることはすなわち彼の典座の大恩なり」(「典座教訓」)

 道元禅師は、寧波の船中で老典座に出会ってから2か月後に天童山に登り修行に入りますが、計らずも前の阿育王山の老典座がひょっこり訪ねて来た。訳をきくと、7月の年度代りを期として典座職を退職し、郷里四川省に40年振りで帰るのだが、貴憎がここに居られるとうわさを聞いて帰る前に是非一度逢いたいと思って訪ねて来たというのです。言葉の含みでは歳も歳だし、四川へ帰れば無論再会は無理だろうから帰る前にもう一度逢って、船中での話の結末をつけて上げたいと思ってやって来たというのでありました。禅師はほんとうにうれしかった。涙がこぼれた。挨拶もそこそこに船での話の中断した「文字弁道」について老僧に教えを乞うと、老僧は姿勢を正して答えます。

 「文字を学ぶ者は、文字の故(そもそも文字とは何か)を知らんと為す(知ろうとするのが大切)。弁道を務むる(仏道に励む〕者は、弁道の故〔弁道とは何か)を首はん(納得する)ことを要す」と。道元禅師は深くうなずいてさらに教えを求めます。

道元「如何にあらんか是れ文字」
典座云く「一二三四五」
道元又問ふ「如何にあらんか是れ弁道」
典座云く「偏界(世界中あまねく)曾つて蔵さず」

 文字とは一応経典などの文字ですが、それだけには限らぬから、経典を学ぶ場合は、ただ経典の文字を読むのでなく、何を説くのが経典かと、その文字の示すものを、深く堀り下げて究明せねばならぬ、と云うのです。禅師が、「では文字とは何か」と聞くと、典座は、仏の本性とは「何から何まで。あるものがあるがままに文字だ」と答えるのです。更に何が修行か、どうあることが道の体得かと聞くと、「総てのものが弁道修行の処であって、なにもかくしだてはしていない」。この時のことを禅師は「山僧いささか文字を知り、弁道を了得す」と述懐しています。自分が文字を知り、弁道ということの本領を知り得たのは、彼の典座和尚の大恩のお陰であるということでしょう。


 道元禅師が天童山で修行中、別の老典座和尚から身をもって重ねて教えられることがありました。
 仏殿(本尊さまを安置する堂)の前で一人の老僧がきのこを日に干しています。熱い陽ざしの下で笠もかぶらずきのこを並べているのがいかにも苦しそうです。老僧の背は弓のように曲がり、眉は鶴の羽のように白い。道元禅師がその方に近づいて、おいくつでございましょうか、そう質問しますと「68歳」という。「なぜ行者(修行僧)や下働きの人を使わないのですか」と聞くと、老典座は 「他は是れ吾にあらず」(自分が修行せずに他の人にしてもらったのでは、自分のしたことにならない)と答えます。
道元はこの言葉に感じてひとしお尊く思ったのでしょう。
「その通りでありましょう。しかし、もう少し涼しくなってからなされてはいかがでしょうか」と彼をいたわると、彼の老典座は「更に何れの時をか待たん」〔いまやらずに、いつするのだ)との、老いた僧のするどい答えに、若い道元禅師は深い感銘を受けたのです。

 道元禅師の胸を強く打ったのはこれらの言葉がいずれも典座職、とくに老僧の言葉であるからです。典座は前に記したように炊事の任にある者です。家庭ではともかく、何かの必要で会社の社員たちが共同炊事をする場合、たいがい若い新入社員が炊事の任にあたるので上級社員や重役など炊事仕事はしないでしょう。 しかし禅門では、後に記すように典座の任にあたる老僧は、世間とは逆に修行経歴も長く、人望もある修行者が選ばれるのです。なぜかといえば、修行が未熟ですと、お米や水の尊さを知りませんからものを粗末にします。ものに「いのち」があることを会得せずば「修行」にはならないのです。修行僧の集まる叢林(そうりん)はもとより、禅門の社会では典座和尚さんを尊敬する理由がここにあります。すでに禅師は気づかれたのでありましょう。
「山僧便ち休す。廊を歩する脚下、潜かにこの職の機要たることを覚ゆ〔私は、口をつぐむよりほかなかった。そして心中ひそかに典座職がいかに大切であるかをさとった)」と。
 炊事に限らず、それまでは雑用だと軽んじたり、或いは大切な勉学や修行のさまたげになると思っていたささいな仕事が坐禅や修行と全く別ものでない真実を知らされて、道元禅師は日本で考えていたことの過ちを知るとともに、今後の修行の持ち方に貴重な方向づけを得たのです。世間でも禅家でも、本当に修行ができた者であれば自身の悟りの境地、清浄な境地にどっかり腰を据えてはいないものです。娑婆社会には多くの迷い悩む人々がいる。世間の苦悩を我がことのように思い手を差し伸べる行者を「菩薩」というのです。典座の「行」とは、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)『日常の立ち居振る舞いのこと』すべて仏法でないものはないとの威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)も、食事・入浴・洗面の日常の作法も、みなこれ宗旨(深い意味がある)という道元禅は、このとき芽生えたのでしょう。

 老典座にとっての「修行」とは自己の成仏道の実践であったのです。ひとのためにしていると思うことが、知らぬ間に自分のためにしていることになっている。こうしたことを道元禅師は「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」(四摂法)と示されます。
 道元禅師は文字の意義、弁道の所在を知らしめるために、特に『典座教訓』一巻を著わして勤労禅、ことに炊事禅を強調されましたが、「茶裏、飯裏、別所に向わず」と示されるが如く、禅の要諦はお茶をいただくにも、ご飯をいただくのも仏道にほかならないと示されるのです。