小学生の頃「もしもし亀よ亀さんよ、世界のうちでおまえほど歩みののろいものはない、どうしてそんなにのろいのか」という歌をうたいました。そこからまた歌は続くのです。「な−んとおっしゃるウサギさん。そんならおまえとかけくらべ向こうのお山の麓までどちらが先にかけつくか」 という展開になります。 この勝負の結末は既にご存じと思いますが、ウサギが途中で昼寝をしたために追い越されて亀の勝ちになります。
 兎と亀が競争するこの物語は、ウサギの立場で言えば油断大敵。亀の立場に立てば、足の遅い亀でも一生懸命努力精進すればウサギにも勝てる。人間あきらめずに頑張ればできる、為せば成る−ということを教えているのでしょう。

 ところで・・・

 亀は寝ているウサギをなぜ起こしてあげなかったのか、フエアでないという見方もあるからおもしろい。一方、まじめで負けず嫌いな人は「ウサギは途中で昼寝をしないで、ゴ−ルしてから昼寝をしたらよかった」と、あくまで勝負にこだわる。必死に努力した亀さんには恨みはございませんが、勝った亀的努力がはたして「正精進」といえるかどうかを考えてみたいと思うのです。
 亀は歩くのがもともと遅い、一方かけっこの得意なウサギとの競争など比較の分母が違うのですから比較で量れるものではないでしょう。それでも、亀は兎の挑発にのってしまう。どうしてそんなにのろいのかと言われて、「何〜とおっしゃる兎さん・・」と相手の言葉に心を乱してしまうところが若い。早く走ることだけが人生ではないし、勝負に勝たなければ意味を失うというものでもない。人生は一得一失という自覚があれば、「おまえはのろい」と言われても、「俺はのろい、それがどうした」という心がもてる。
 ウサギも同様であろう。亀に「どうしてそんなにのろいのか」と言うことになったのか、その心は・・ ウサギ自身の劣等感ではないだろうか。自分の鬱憤を目下の者や立場の弱い相手にぶつけているようなもの。仏教的に考えれば、負けたくないという憤怒は畢竟「我−エゴ」なのです。自分に自信がないから自分と比較し「どうしてそんなにのろいのか」となる。

 ところで亀に負けてしまったウサギのその後の話をご存じでしょうか。

 負けたウサギが村へ帰ってみると、
 「カメになんぞ負けて、みっともない。よくのこのこ帰ってこれたな。お前はうさぎ村にはおいてやれない。出ていってくれ。」
 こういうわけで、村から追い出されてしまうのです。ところが、ちょうどそのころ、山のおおかみのところから、うさぎ村に使いがきて、
 「子うさぎを三びきさし出せ。」
というのです。うさぎ村は大変なさわぎになりました。
 「どこのうちの、子うさぎをさし出そうか。」
 「うちの子も、ひとの子も、みんなかわいい。おおかみにさしだすことなんか、できるものか。」
 カメに負けたうさぎが、これを聞きつけて、村にもどってきました。そして、
 「おれはうさぎ村を追い出されたが、もしおれが子うさぎをさし出さなくてもいいようにしたら、この村へもどってきていいかい。」
 「おまえが本当にそうしてくれるなら、また、仲間に入れてやる。」と村のウサギたちは言いました。
 そこで、亀に負けたウサギは、さっそくおおかみのところへ行きました。
 「おおかみさま。このたび子ウサギを三びき差し出せということですが、あなたさまのお顔がこわいので、みんなこわがって、だれもくるものがありません。つきましては、ちょっとのあいだ、がけの上であっちの方を向いて、すわっていてください。そうすれば、今すぐにつれてきますから。」
 そういうと、おおかみは、
 「おお。そんなことはわけもないわい。」
 といって、がけのはしへ行って、向こうを向いてすわりました。うさぎは、ここぞとばかりせいいっぱいの力を出して、おおかみの背中をけとばしたので、さすがのおおかみも、もんどりうって、谷底へ落ちてしまいました。
 「大成功、うまくいったぞ。」
 こうして、子ウサギ三びきはさし出さなくてもよくなったので、亀に負けたウサギは、また村のなかまのところへ、帰ることができるようになりましたとさ。

   どんぺんからっこねえっけど・・・


 ところで、ある有名仏教評論家は「競争は悪である」「運動会の競争でもいやでいやでたまらない子もいるのだから、順番などつけるべきじゃない」という論など振りまわすから、ある小学校の運動会では早い人が遅い人を待って一位もビリも皆一緒に手をつないでゴ−ルをするというようなことが起こる。最近の若い人たちが上司などから叱責されようものなら過度に反応するのは、社会に出てはじめて競争やストレスという現実に直面するからではないだろうか。もともと癒し的教育だけでは不充分ということであろう。人生とは矛盾を含むもので失敗や苦労の痛手も自分と向き合うことで自分の人生にとってどれだけ大きな力になるかしれない。もちろん、自分に負けてくじけてしまうのはいけないが、他人との比較で勝つことだけを人生の目標にしている人もいるが競争は暴力や戦争とは紙一重です。そのバランスを保つには戒めと慈悲が必要であり、それこそが修行の目標とすべきところと思う。

 更に注釈を加えます。
 道元禅師は修行の態度として「動静を大衆に一如す」「群を抜けて益なし」と示されます。僧堂の集団生活とは寝起きを共にしますから、各自が銘々勝手に行動したのでは滅茶苦茶になる。集団生活では動静を一如にすることは是非共必要な規律です。けれども、どこかの寮のような規律とは本質的に違います。寮においてならば、他人が寝た後でもがんばって勉強する。他人が一時間頑張るならば自分は二時間頑張ることで他人を凌ぐことができる −− そんな指導法もある。 しかし、本山道場では皆が寝てから一人勉強をすることは許されない。本山では坐禅修行でさえも勝手な行動は許されていないのです。「動静を大衆に一如す」とは「威儀即仏法 作法是宗旨」であり、威儀が「仏行」の行持から云えば、他人が寝ている間に努力をして、人よりも早くゴ−ルに達しようとするのは、感心なようなことであるけれども実はぬけがけの功名をねらうような根性ということにもなる面を戒めるのです。一斉に起き、一斉に坐し、一斉に食事する。・・・ そのプロセスこそ「仏道」であると示す故に「動静を大衆に一如」しながら信の根源というものを内にもとめていく。動静を大衆に一如しながら和する、その「今」の花を咲かすことが大事なのでしょう。
 渋柿はそのままでは食べられませんが、皮をむいて天日に干したり焼酎を施すと甘みに変わる。つまり条件によって変わる柔軟性がある。反対に「梅」の場合には条件を変えてもなかなか変わらない。梅は砂糖で煮ようが塩漬けにしようが頑固に本来の酸っぱさを失うことがない。この渋柿と梅を比べてどちらがいいか悪いかなどは愚論です。他人と比較しての幸福というものは夢幻泡影の如きものでしょう。ウサギにはウサギの生き方、亀には亀の生き方、自分は自分の生き方でいいはずで、自分が為すべきことを精一杯為せばいい。比較しない競争とは、切磋琢磨する中で個性を認め合いながら、自分の「今」のいのち、自分の「今」の花を精一杯咲かせていくということになるのではないでしょうか。
 食事や喫茶や睡眠がどうして仏の威儀になるか −− それが修行のねらいです。