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人類のだれもが平和を願いながら依然として悲惨な戦争が続いています。その原因に少なからず宗教がからみます。なぜに宗教が戦争の因にからんでしまうのでしょうか。
たとえば ・・・・・ 旧約聖書「ヨシュア記」には、神はイスラエルの民にカナンの地を約束した。ところが、イスラエルの民がしばらくエジプトにいるうちに、カナンの地は異民族に占領されていた。そこで「主はせっかく地を約束してくださいましたけれども、そこには異民族がおります」と言った。すると神はどう答えたか。「異民族はジェノサイドせよ」。−− 啓典宗教にとっては「啓典」は神との契約ですから絶対です。となれば「神を愛し隣人を愛せよ」という隣人に対する無条件、無報酬の奉仕も神の命令ならジェノサイドも神の命令となる。
イスラム世界に武装した異教徒があらわれた場合、すべての成人男子が侵略者を撃退するための戦いが「ジハ−ド」(聖戦)といわれます。 しかし、罪のない市民を殺すのはジハードとはいえないだろうし、ゆがんだ聖戦思想こそがテロの因縁となるであろう。イスラム教にはカトリックのロ−マ法王にあたる中心的権威が存在しない。その為に原理主義の聖戦解釈を覆すこともできない。逆説的には、聖典コ−ランの神の言葉を自由に解釈していることにもなる。
人間は有史以来、民族や自国国家の利権の為に戦争をしてきた。そして、戦争は常に正義(自己の正義)のために遂行される。世界全体が帝国主義とよばれる流れの中で、資源の乏しい日本はその活路を満州にも求めた。日中戦争ではジン滅・セン滅をかかげ、太平洋戦争への暴走を食い止めることのできなかったことは悲劇としかいいようがない。東洋の平和を担うというような正義がいつのまにか、内閣も軍部もマスコミも含め国を挙げて阿修羅の正義のようになった。敗戦が決定的となっても暴走は止まず、非人道的な毒ガスまで使用し、年端のいかない若い兵士を特攻へと送り出した。−−太平洋戦争で死亡した日本の軍人軍属およそ230万人、その多くの人々がどこでどのように無くなったのか今もわかっていない。犠牲となった民間人およそ80万人、アジア諸国ではさらに多くの人が犠牲になった。一方、アメリカもソ連がフィンランド侵攻にあたり実施した都市無差別爆撃や、ナチス・ドイツの無差別爆撃を非人道的だと非難しながら、英米空軍によるドイツ都市の居住地域に対する爆撃によってほとんどすべての都市は焦土となって593,000人がその犠牲となった。又、ポツダム宣言受諾が遅れたとはいえ戦力をなくした日本の広島、長崎に原爆を投下した。ベトナム戦争では次世代まで悲惨な結果をもたらすダイオキシン含有の枯葉剤を大量に使用した。兵士は自国の為、家族の為、聖戦と意識を高揚され、戦場にあっては非情な殺人軍団となり無差別虐殺となることも周知の事実です。
平成18年11月30日の衆議院本会議で防衛庁設置法と自衛隊法の改定が同時になされ、防衛庁が防衛省に昇格し海外派兵が国土防衛と同じ本来任務化の方向に傾いた。自衛隊の海外派遣を随時可能とする「恒久法」案の提出も審議されているようである。「愛国心」を標榜する教育基本法改正案がこれも数の力で強行採決(H18/12/14)、「正義と責任・我が国と郷土を愛する態度を養う」と正義を明記するが、シビリアンコントロール(文民統制)の方向によってはどうころがるかはわからない。平成19年5月14日、「日本国憲法の改正手続きに関する法律」通称「国民投票法」が審議不十分のまま国会で成立した。「日本国憲法」の改正とはまさしく国の根幹を変えることになる。現日本国憲法は1.国民主権 2.個人の自由と平等 3.非戦、平和主義を基本原則のはず。教育再生といいながらも審議不十分の儘では不安が生じる。日本国憲法の「非戦、平和主義」こそスイス同様、世界に類をみない美しい国日本の象徴であろう。もしも憲法九条が無かったならば、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争に全面参戦することにもなっていたと元防衛庁局長の主張があることを忘れてはならない。
人類は戦争の悲惨さを教訓としているはずなのに絶えることがない。しかし、正しい暴力がないように、正しい戦争などというものはない。にもかかわらず、北朝鮮のミサイルや・核開発疑惑が浮上してから、元麻生外相や中川政調会長、防衛庁の強硬な幹部からも日本の核保有論の必要性を指摘した経過もあり、他国からも日本の核武装論への懸念が台頭していることも報道されている。しかし、世界の人々に日本人は平和を愛する国民として敬愛されてきたのは「平和憲法」のお陰であろう。愛国心は麗しいが、自国の権益だけを考える知恵は手放しで喜んでいいものではない。人間の知恵で、自然を克服し征服した、神を超えたと錯覚するとき、人間は智慧の「心」を失うのです。
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| 完全破壊される前のバ−ミャン石窟群の大きい方の大仏立像。この大仏像は東大寺にまで影響を与えている。 |
マルクス主義の基本理念は唯物論。唯物論者は−−思惟は存在によって規定され、存在は思惟によっては規定されない・・と。この理念は「思い願うだけでは、物事は何もかわらない」とするのでしょうから、精神論で解釈せずに物質的、唯物的に解釈すべきであるというのでしょう。つまり、マルクス主義は無神論ですから、それに対して祈り信じることなども幻想に過ぎないということなのでしょう。 マルクスの「理想社会」とは、みんなが一生懸命働いて私有財産性を廃止し貧富の差のない社会を実現すれば精神的にも物質的にも豊かで平穏になる。つまり、そこに宗教の登場する余地はないというものでしょう。しかし、人間の夢や希望には我欲が絡むから難しい。「一日為さざれば一日食らわず」という禅師の方向と、「働かざる者食うべからず」ということはハラを据える方向が違うのです。唯物論では、思惟や意識がなければ存在は非存在なることを忘れているということです。
又、イスラムは仏像を礼拝の対象とするのは人民の心をまどわす偶像崇拝であるとして9世紀以降、西北アジアから東トルキスタン(西域)にかけて武力を繰り返し多くの仏教文化遺産を廃墟とした。 大国、隣国の思惑に主権を踏みにじられ、翻弄されて数十年も続く内戦と紛争のアフガニスタンの歴史は実に悲しい事実ですが、カブ−ルの国立博物館ではガンダ−ラ美術の遺品や仏像彫刻など数千点の仏像などがほとんど破壊されてしまったことも悲しい事実です。
シルクロ−ドの十字路にあたるバ−ミャンは仏教文化地域でした。ギリシャのアレクサンドロス大王の孫アショ−カ王(在位前268〜前232)はアフガニスタンとインドのほぼ全域を支配するのですが、戦争の悲惨さを知ったアショ−カ王は仏教普及に寄与し平和主義に転じます。そして、王は仏教を熱烈に信奉しつつもバラモン教、ジャイナ教など他の宗教も平等に保護したとされ、仏教美術とヘレニズムとの混交がなされてガンダ−ラ美術が花開くことになります。
しかしながら、玄奘三蔵法師(602〜604)が訪れたときには金色の大仏といわれた大石仏(高さ38mと55m)立像も、その後まもなくアラブ人の大侵入があってバ−ミャンは破壊されてしまいます。大仏の尊顔も偶像を否定する侵入者によって削ぎ落とされてしまった。更に平成13年、イスラム原理主義の更なる暴挙によって大仏像は完全に破壊されてしまった。
平成13年3月8日、アフガニスタンの報道によれば、同国のイスラム原理主義政権タリバン(パキスタンのイスラム神学校で学んだ学生たちが武装集団を結成し、世界で最も純潔なイスラム国家を建設することを掲げた集団)のムタワキル外相は8日、バ−ミャン石窟郡の大仏立像などの破壊作業を「今日から再開する」と宣言。 ムタワキル外相は最高指導者ムハマド.オマル師が出した彫像破壊の布告について「イスラム法に基づいており、イスラム教が伝わる前の彫像も容赦しない」と宣言、バ−ミャンの貴重な大石仏を破壊した。
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| 無残 ・・・ |
平成13年3月16日、バ−ミャン石窟群の文化遺産として世界的に有名な二つの大仏立像の破壊後、アフガン・イスラム通信は「偶像崇拝を禁じるイスラム教の教えに基づくもの」で「ブッダ(釈迦)自身がただの一人の人間として振る舞い、信者もその後数百年間は仏像を造らなかった。バ−ミャンの大仏はブッダの教えをしのばせるもので、それ以上のなにものでもない」というタリバン声明。
自分たちが信ずるもの、正義とするものに相反する存在を徹底的に排除する極めて不寛容な思想は一神教の特徴なのかもしれないが、そんな正義は阿修羅の正義になってしまう。アラ−が神であると同じように、仏教では釈迦は仏陀であり釈尊であり世尊です。故に古代の敬虔な信仰として造像せずに数百年間は仏足石信仰となったのでしょう。このことは、キリスト教も当初は偶像崇拝を潔とせずに、像ではなくもっぱら十字架崇拝であったことと同様でしょう。
国連事務総長やユネスコをはじめ世界の宗教、文化の諸団体が破壊の中止を要請したにもかかわらず耳をかそうとはしなかった。
ヒンドウー教ではブラフマンは創造する神、シヴア神は破壊の神とされる。キリスト教では愛情の人格化を神とし憎しみや嫉妬怒りを人格化して悪魔という。仏教では人間の感情を人格化することはありませんが、創造の源泉は愛情であり、創造したものを破壊するのは怒りの感情というところは同じでしょう。正しい怒りなどないばかりか、怒り続けると怒りそのものになり、怒りの人生に喜びはないということをしるべきでしょう。
仏教は「空」と「縁起」を根本思想としますが、啓典宗教とは実在論、つまり「神がすべてのものの創造者である」が根本です。「神を愛せよ、全知全能の神に祈りを捧げればなにごとも叶えられる」と我が寺にも若い布教使?が度々廻ってこられる。「ここはお寺ですよ・・」と言うと、「わかっています。でも、お寺であっても神の絶対無条件、無限の愛によって救済されるのです 教会に来て話を聞いてください」と冊子を勧める。しかし、田舎寺とはいえ、住職に対して「あなたの宗教より私たちのほうが有り難いから信仰してください」的な勧誘には開いた口がふさがらない。 「神が人間を救うのであって、神に救われるべき人間が神(仏)になれるという考えは神を冒涜する」「世の中に真理は一つしかない。他は認めない」という頑なな人間にとっては、「絶対的な神が絶対的に救ってくれる」という信仰なのでしょう。人間を救済に導くには絶対的な神にほかならないと信奉するのも信仰でしょうが、禅にはそういう絶対的なものは認めていない。仏教では「悉有仏性」、そして仏も人も自然も全ては縁によってつながっている。けっして一方的、絶対的なものの前提が無いのが仏教の「縁起」です。仏教というものの教えを一言で言えば「自分自身の中に信ずるに足るものがある。それを自覚せよ」、禅的に言えば自己究明の宗教です。仏像に礼拝するのは、自己の内心に秘められた仏の命と対面する為、心中深くにある仏心を拝む為の信仰です。
葬儀の時にも食事の時にも十仏名という仏様のみ名をとなえますが、お釈迦様の名号は「千百億化身釈迦牟尼仏」。その仏法が見えれば「草木国土悉皆成仏」ですから、道元禅師は「峰の色渓(たに)の響きもみなながら 我釈迦牟尼の声と姿と」と詠まれたのでしょう。
釈尊の弟子アッシジは行者サーリプッタに教えを乞われて釈迦の教えの要旨を語った。「もろもろの事柄は原因から生じる。真理の体現者はそれらの原因を説きたまう。」。これを聞いてサーリプッタは「もしそれだけが釈迦の教えであるとしても、それだけで十分である」と感嘆して直ちに仏教に入信した。因果律の法とは、救われるか救われないかは神仏が決めるのではなく、仏以前に存在する法(ダルマ)によるのです。その法なる真実とは諸行無常です。テロの暴挙もそうであれば報復行動もそうです。報復行動を美化することも批判することも、そして、報復行動を悲しむ我々自身もまた無常の存在にほかなりません。仏教では「怒りや傲慢」に身を焼く原因の一つは、この無常なる自己の存在を忘れているからと示します。
シナイ山上でモーゼが神ヤハウエより授かった『十戒』の第1は、「あなたは、わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と定め、第2は「あなたは、自分のために刻んだ像を造ってはならない」との定めがあるようです。その「あなた」、つまり「自己」に気づかなければ、絶対的な解釈の基で「一神教のパラドックス」に陥いるでしょう。 「汝自身を知れ」やムハッマドの「死ぬ前に死ね。死ななければ誰も主を見ることはできぬ」という言葉とは宗教全般共通のところでしょう。本来、仏や神との絶対的な合一状態においては、あらゆる解釈や対立は融和の中に解消するものでしょう。自己をしっかり見つめ知ることなき宗教や哲学であっては、空虚な観念論的迷妄の所産となる。自己の究明を無視した二元的な立場に立つならばそれは愛ではなくエゴイズムとなってしまう。本来、正しい戦争なんてありえない。世界中が「外部の敵」に対して警戒を強めていますが、「内部の敵」なる原因を検証することが大切でしょう。
恐れが生じたから武器を持ったのではない
武器を持ったから恐れが生じたのである (ダンマパダ)
リンカ−ンのゲテイスバ−グ演説の「The Goverment of the
people, by the people,for the people 」の少し前のところに「デイス・ネイション・アンダ−・ゴッド」という箇所がある。「神の下にある・人民の人民による人民の為の政治」です。「神の下にある」という政治こそが民主主義を基礎づけるものなのではないでしょうか。平成14年12月、中東和平や朝鮮半島和平など国際紛争の平和的解決に貢献したカ−タ−元米大統領にノルウエ−においてノ−ベル平和賞が贈られました。カ−タ−氏は受賞演説で「戦争はどんなに必要であっても常に悪であり、善ではない」と強調、軍事力に傾注する政権への批判をにじませました。日本でも、改正教育基本法の中に「自他の敬愛と・・」とか「他国を尊重し・・」或いは「自己の崇高な・・」と示される。字義上は問題はないでしょう。しかし、道元禅師が「他己」と示されるところの他を己と観るところ欠ければ「祖国愛」も自我となってしまう。平成18年10/15日、「核があることで攻められる可能性が低くなる。当然議論はあっていい」と、自民党の中川政調会長が核保有をめぐる論議の必要性を訴えた・・隣の国のことではない。他にも「対米対等をいかに主張しても、核兵器を持たずに何ができるのか」との非核三原則見直し論も飛び出す。しかし、核兵器を「持たず」「作らず」「持ち込ませず」という憲法九条は「刀杖などの武器を使わないで、常に正しい智慧に基づく方法、手段によって、もろもろの悪を遠ざける」(大般涅槃経)というものでしょう。この精神がなければ武器をちらつかせて外交する国と同等になってしまうでしょう。
日本は現憲法のもと、戦後「国権の発動」によって殺すことも殺されることもありませんでした。この事実を忘れてはならないでしょう。タイのパニタン、チュラロンコン大准教授は「中国の軍事的膨張は東南アジア諸国にとって驚異だが、日本が核保有しても地域の緊張を高めるだけだ。「核保有論」は自国の安全のみにとらわれ、東アジア全体を見渡せていないと指摘しますが同感です。平和を乱し争いを引き起こす根源なるものは自己の絶対化です。つまり「自我」です。「自我」とは自分が正しいという為に「あいつが悪い」といってしまうことです。仏教で迷いの世界として示される六道の中の「修羅」とは阿修羅の略で、闘争の世界という意味です。古代インドの神話によれば、阿修羅はもともとは正義を守る神だったのですが、あまりに正義感が強すぎたために小さな悪をも許すことができずに、際限なく他を責め続け闘いを挑んだ結果、ついに天界から追放されてしまったというのです。
「いのち」の根元を説く釈尊の「不殺生戒」とは「同じ神を信じる者を殺してはならない」というのではなく、「生きとし生けるもの」の生命を奪ってはならないということを人類は認識し直すべきでしょう。 独裁者を念頭に語るチャプリンの言葉にも「彼らは人間ではない・心も頭も機械に等しい。諸君は機械ではない。人間だ。心に愛を抱いている。愛を知らぬ者だけが憎しみあうのだ」と。
人類最大の崇高な宝は「信じる力」「恥を知る力」でしょう。この宝の自覚があれば、自己が傷つくことあろうとも恨みや悔いを増幅させることは無いであろう。人類の平和と希望の為に、「我が非に気づく戒め」「とらわれない静かな精神」「とらわれない智慧」を祈りの原点としたいものです。
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