吹浦 十六羅漢岩

怨みは 怨みによって 果たされず
忍を行じてのみ 
よく怨みを 解くことを得
これ 不変の真理なり        「 法句経 」


 我が国の宗教を評して、『日本には「家」の宗教はあっても、個人の心には宗教は無い』と指摘する識者がありますが、はたしてそうでしょうか・・・。
 確かに師走ともなれば、日本中にクリスマスツリ−が飾られ賛美歌が流れる。「聖バレンタインの日」は義理チョコが横行し、ホワイトデ−なるものもある。2000年・・日本もメデイア挙げてミレニアムを祝いました。西暦とはイエスの降誕をもって区分した歴史観に基づくものですが、その西暦の紀元という表現をなんの抵抗もなく使っています。除夜の鐘を聞いてから神社に初詣、結婚式を教会でやるのに仏滅を避けたりする。お盆には先祖の墓参りの民族大移動。結婚式は教会で葬式は仏教。赤ちゃんが生まれれば氏神さまにお参りし、お稽古ごとは弁天さま。受験シ−ズンともなれば天神さまか文殊さま。 −−
 日本人のこの宗教感覚は一面「無節操」ともいえるとも言える。既成概念にはとらわれないという意味では悪いことではないが、クリスチャンでもない日本人のカップルが、神妙かつチャッカリと神父の前で戒めを誓う。だからといって入信するわけでもない。もしかすれば、日本のクリスマスなるものは、聖なる夜を静かに祈ろうとするクリスチャンからすれば苦々しいところがあるかもしれません。故に日本人の宗教は「万華教」と揶揄されるのでしょう。
 こう言えば、いかにも批判的と思われるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、反対で自然でとらわれない宗教観(感)ともいえるでしょう。先進国のなかで学校での宗教教育が無いのは日本ぐらいといわれます。国公立学校で宗教教育が特になされていないのに宗教心が随所にみられるのは生活の中に仏教的心の土壌があるからといえるのではないでしょうか。その宝物に気がつかず「無宗教・無信仰」とうそぶいているなら実に勿体ないことです。


 日本人は、昔から霊山に登る時には身心を清め「六根清浄、六根清浄」と唱えながら登頂し、そして山頂からご来光に手を合わせます。キリスト教では「神が神に似せて人間を創り、その人間が生きていくために自然が与えられた」とする世界観になるのでしょうが、日本古来の自然観では「自然を征服する」とは言わずに「山神さま」をお祀りし感謝の祭りが行われます。日本人は宗教を強く意識しなくとも、正月行事や農耕儀礼、神道儀礼など年中行事や全国の祭りの行事の随所に「宗教」を見ることができます。「いただきます」や「おかげさま」というこころとは「すべてのいのちをいただいて生かされている。目に見えぬ力のお陰で無事に生活できる」ということでしょう。仏教というのは、キリスト教のように、神と人間の関係を説いたものではありません。ヨ−ロッパの思想は、神と人、物と心、いわゆる主観と客観とをはっきり分けている。自分と他人を分けているのです。ところが、仏教とは「自分の中に信ずるに足るものがある。それを自覚する」ものであり、「仏道は自他の見をやめて学するなり」という教えです。したがって、絶対の神を深く信じている他の宗教とも本来は摩擦を起こすところはないのです。
 「和」とは規則を守ることによって保てるものですが、かりに規則を破ったとしてもそれを許す心の広さも「和」の精神です。「和」の反対は「競争」です。競い合うところに人としての進歩も併せ持ちますが「和」の精神のない競争に安らぎはありませんし、「和」の無い正義とは「阿修羅」の正義となります。




 1995年3月21日、世界の人々をも震憾させた地下鉄サリン事件。修行中に死なせてしまった信者を公にしないために秘密裏に処理、それを知り脱会しようとした信者を殺害するなど、無差別な殺人計画、残虐な殺害などが組織の中で行われこのために命を落とした方々、信者とはいえ将来ある青年の将来をにぎりつぶし、且つ後遺症に悩む多くの人達の事を思うと怒りがこみあげる。この行動は仏教には基づくものではない。修行と難行苦行も違う。釈尊は6年間も難行苦苦行を積まれた後に、結局それが無駄であると知り、新たに修行をした。難行苦行の否定とは人間の欲望には際限がないからです。故に戒(きまり)や定(坐禅)智慧を身につけるための修行を説かれるのです。そして「殺すなかれ」は最初の戒律です。
 ここでオウムの事件をとりあげるのは、あれほどの無差別大量殺人事件を起こしたオウム真理教が壊滅せず、未だに新しい入信者がいるという事実を、あなたはどう考えているかという提言です。

 愛知県津島市の津島市民病院で2002.1.7日、市内の50代の女性が死亡宣告を受けた20分後に生き返ったというニュ−スがあった。−− 世にはそんなこともある。
 ところで、脳死とは生物学的には「生きた死体」で分子生物学的にはもちろん生きているというところまでは納得するとしても、スウエ−デンでエジプトのミイラからDNAを取り出した頃から、最先端の生物学的にはDNAが一個でも残っていたら最終的な死ではないという。この論法であれば、最先端の生物学的思考とは、完全に灰にしなければ完全なる死ではないということになる。もっとも、これを肯定する思考の一つだろうが、「火葬場での高温処理ではDNAが破壊される。そんなお骨は魂の抜け殻であるばかりかDNAの死骸ともいえる。そのような骨を埋めてあるのがお墓なのだから、墓に特別な意味をもたせる理由がわからない。だから、私は父や母の墓に行っても、手を合わせて拝むことはしていない」という提言もあった。同様に−−
 2000年1月、ミイラ化した子供二人の遺体が見つかった宮崎市の「加江田塾」事件は、千葉県成田市で起きたライフスペ−ス事件同様、独特すぎる死生観を持つ宗教教団?の存在を裏付けた。異臭ただようミイラ化した真っ黒な遺体が見つかったのは1月20日、男児は東京都内の会社役員の二男。腎臓病を患った6歳の子供を預けたが、所在がわからないと県警に届けて発覚。逮捕された塾の主宰者は「自分は創造主の代理人」 「復活する可能性があるので、エネルギ−を送り込んでいた」と言い切ったという。「先生は絶対的な方。疑うなんて考えられない」 「先生は世俗の人とは違う」 と東容疑者の逮捕後も塾生達は語る
 
2001年3月にも、大宮市の54歳の長女は両親の死後も1ケ月間放棄、「今までの仏教に固まっているよりももっと明るい宗教をほしかった」と、親族や近所にも知らせず、「遺体復活の為には乾燥させて、ミイラ化にすることが一番良い方法 ・・ 聖書から導き出された考え」と供述。

 近年メモリアルグラッシ−とかで、遺骨を究極の形見として飾り物などに加工する業者もあらわれました。「故人の方のご遺骨は、日々、ご遺族の近くから、ひとときも離れることなく惜しむことのない愛を注いでくれることでしょう・・。」という宣伝文句。 2001年にはDNAを目に見える蛋白質状にしてペンダント加工する企業も現れた。死後も誉められたい、忘れてほしくないという凡人心情をよく分析して益々多様化している葬祭サ−ビスです。(-.-;)
 
 マインドコントロールという言葉もオウム事件で話題となりました。マインドコントロールとは心理学を応用し、本人が自覚しないうちに、その思考や行動を操作しようというものです。精神医学的にはマインドコントロールは簡単にできるといわれます。すなわち感覚を遮断しておいて、判断能力の無くなったところで論理を与えるというもの。感覚の遮断とは、たとえば、一切の情報の遮断、暗くて狭い部屋に監禁する、善玉悪玉の利用。睡眠や食事の制限、薬物や慢性的疲労を与えるなどして正しい思考を遮断するのです。深層意識の悪応用ですからマインドコントロールが解けたとしても、本人の知性や偏差値にかかわらず、生きる目的を失ったり、うつ状態になったり、自発性の欠如や情緒不安定といった後遺症にながく苦しむことになります。


 道元禅師のお示しの中に「仏祖に曰く、・・・ 野千之心を発すと雖も、二乗自調之行を作すこと莫れ(永平広録)」という言葉があります。野千之心とは、この世の最も下劣な心という意味であって、二乗自調之行とは自分の理想とするものを目指して頑張る自力行、独善行のことです。そんな二乗自調之行をするぐらいならむしろ野千之心のほうがましだとさえ言われるのです。
 どこぞの教祖?のように、「自分は人間と地球を救う創造主の代理人」 とか 「自分は神のお告げ」 などと主張し、査察を受けると知っては「シュレッダ−にかけたのは天のタナオロシ」という有所得行なら、何もしないでゴロゴロと好きなことをしている人のほうがましであると示されるのです。
 禅の言葉に「諸見無きは、即ち此れ無辺身なり。若し見処有らば、即ち外道と名づく。外道は諸見を楽しむ」とある如く、仏心とは諸々のこだわりなど一切無いものであり、反対に自分の主義主張の思想をいかに巧みに作り上げようと、たとえそれで法悦を獲得したとしても、そんなことは自己満足に陶酔したまでのことであるということでしょう。本来の仏道とは、有所得、自己満足、自己陶酔の為の瞑想などというものは方向違いの修行ということです。

 
 「人の心もとより善悪なし、善悪は縁に随っておこる」『随聞記六−十五』」 古来よりいろいろな宗教観によって、人間の性質というものは「善だ」「悪だ」と評論されていますが、仏教では元来人間には善悪という固定した本性などは無く、善も悪も因縁によって起こる(因縁生無自性)と示される。あのナチスのユダヤ人虐殺などを考えると、人間は大義名分があればどんな命令にも服従してしまう本性があるといえるでしょう。タリバンのバ−ミャン仏像破壊行動や米国の同時多発テロ事件のみならず、正義の報復戦争も同じです。けれども、そうしてしまったその人の本性が悪であるとは示しません。だからといって過失の責任を他に転嫁していいというのではありませんが、悪縁に引きずられ事件を起こしたことは深く懺悔すべきではありますが、「善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず」『正法眼蔵』と示されるように、悪事を行ってしまった人の本性というものが「悪」であるという思い違いはするでないということでしょう。
 浄土真宗開祖の親鸞聖人も「業縁(ごうえん)がないときには殺そうと思っても一人だって殺せない、業縁、いわゆる原因と条件があれば意志がなくても千人でも万人でも殺してしまうことがあるのだ」と述べられています。
 我々は善悪の基準を、行為の結果に置いて考えますが、人間には「やれ」といわれても悪いことができない、「するな」といわれても善いことをせずにはおれない根元的な心がそなわっています。これを仏教では「仏心」とか「仏性」といいます。しかしながら、邪悪な心を持っている人と付き合うと、こちらの邪悪な心が刺激されます。逆に、清らかな人と付き合うと、こちらの聖なる心が刺激されるものなのです。

 テロを無くす為の行動は当然のことでしょうが、仏教的思惟によるとすれば、原因の無い事象は存在しないのです。これを縁起と云います。 縁起とは−− 昔、数万羽のモズが空中で争っていた。なぜ戦っているのかよく見れば、一匹のモズが小さい死鼠を見つけた。それを横取りしようとするモズと争ううち、二匹が四匹と増え、ついに大群の入り乱れた戦になったというもの。こうして争い組んで落ちる鳥の群を漁師が来て叩き殺した。この光景を見た国王が迷いを覚まし、隣国との争いを止めたと経典に出ています。個人の問題も同じで、怒りや興奮はいつも些細なことからはじまります。妄想というものはどんどんエスカレ−トしていくものですから冷静さを失います。あとはちょっとしたことで感情の雪崩が起きてしまいます。宗教、文化イデオロギ−の差異による人間の愛憎は、しばしば拡大されて民族間のそれにも及び、結果は戦争になってしまうものです。

鳴子峡

 太平洋戦争後、憲法が盾になって日本の平和が保たれました。けれども湾岸戦争の時には憲法があるからと何もしませんでした。そのかわりに150億ドルの出資をしながらもお金の問題ではないと諸外国からひどくバカにされた。出資も協力に違いないのに、それが恥ずかしい、くやしいと小泉総理はアフガニスタン軍事行動に協力(01)。更に有事法制の整備(03)イラクへの自衛隊派遣(04)など、日本を戦争ができる国にするための既成事実がどんどん積み上げられています。
 もしも憲法九条を変えて武力を持つことを正式に認めれば、日本人がアメリカと共に戦場で他国の人を殺すことにもなってしまうでしょう。九条があったからこそ、戦後の日本は戦争にも巻き込まれず、また過去に侵略した国々との間で過度の緊張が生まれなかったのだという事実を認識し直すと共に、「戦争放棄」を謳った九条を持つ我が国こそ国際紛争を仲裁する役目を担うべきであることを再認識したいものと思うのです。
 「北朝鮮の弾道ミサイルの脅威に対しては、こちらも敵基地攻撃能力を保有すべき」という政治家もいます。しかし、それでは一触即発の「恐怖の隣国関係」にもなりかねない。憲法が禁じる集団的自衛権の解釈見直し、敵基地攻撃論、核保有論など懸念すべき動きが次々と表面化しているのは、戦争の悲惨さを肌身で知る世代が少なくなっていることが大きく影響していると思われる。

 法句経に「怨みは怨みをもっては、ついにやむべからず、忍を行ずることによって、怨みはやむべし。これ如来の法なり」とあります。第二次世界大戦の東京裁判の時、セイロンの代表大使が、この法句経の言葉をひいて、日本への報復を放棄されたことは多くの人の知るところです。
 仏教の「縁起観」というものは、これによって惑溺または愚癡を滅し、謬見を遠離することができると示されます。「報復の連鎖」とは「縁起観の欠如」とも言えます。 宗教とは人々の救いと安寧の為にこそあるのであって、いかなる宗教であろうとも人を殺していい道理や大義などあろうはずはないのです。コ−ランにも聖戦は認めても「神の道において戦え、。だが、不義を犯してはならぬ。神は不義をなす者を好み給わぬ」と説いているではありませんか。イスラム教には「イン・シャ−・アッラ−」という言葉があります。「アッラ−の神がお望みならばことは成就するし、お望みでなければ成就しない」という意味だそうですが、正義という報復が「本当の正義か、神のこころに本当に叶うことなのか」しっかりと観つめることが今後の人類の課題でしょう。



 H13/10/6設定