|
禅の極意を文字簡単にあらわせば誤解を生みます。というより簡単に示せるようものは極意でも何でもありません。しかし、あえていえば、「禅」とは物事を正しく認識し、心を整える「行」ですから、宗門では「只管打坐」であり、その心は『威儀即仏法・作法是宗旨』(いいぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)となります。
世間では「形よりも心が大事」という風潮がありますが、人間の形というものは微妙です。「このやろう!」と言えば怒りの心持ちになり、合掌して「南無釈迦牟尼仏」と唱えれば仏心が芽生えます。仏道の作法というものは、坐禅の時には坐禅堂に入るにはどちらの足から入れ、坐り方はどう、息の整え方はどう、目線はどう、手の置き所はどうというキッチリとした決まりがあります。食事の時にもなかなか厳しい作法があります。頭で納得のいく仏法を習おうと思ってきたのに作法ばかりをたたきこまれる、と考えがちですが、実はこの威儀や作法が普通にできるようになると自己の身の扱い方に迷いがなくなるのです。即ち「禅の修行」とは挨拶や、口の利き方、箸の上げ下ろしまで徹底して叱られる。これは我執なるエゴが出ている為に叱られるのです。しかられ通して、そこをつきぬけると本当に力のこもったアクの抜けた心を持つことができる。禅とか宗教とか何とか堅苦しいことではなく、いっぺん自分の常識と思っているエゴを捨てないと本当のところはわからないのです。禅生活とは作務(仕事)や食事や洗面などの日常生活の中の些事を、その些事を大事と悟らせることです。
この極意というものは、師子相承で師が弟子に直々に相伝していく。仏祖の宗教経験の真実世界、その自己の深い自己に対する「きずき」というようなものを伝える。これを単伝といいます。 正法眼蔵嗣書の中に「佛佛かならず佛佛に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する。これ証契なり、これ単伝なり。このゆえに無上菩提なり。佛にあらざれば佛を印証するにあたわず、佛の印証をえざれば佛となることなし」と示されます。師と弟子がぴったり一つとなって、師がそれを認めたとき弟子となるのです。道元禅師は「辨道話」でも「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり」と示されます。この「単伝」を禅では「不立文字」(ふりゅうもんじ)ともいいます。本来、禅というのは文字を弄するものではなく、最後の最後のところは文字を超越するということになります。
たとえば、「甘い」ということを伝えるときに、いくら口で表現してもわからない。同じ砂糖の甘さでも白砂糖の甘さと黒砂糖の甘さは違うし、果物でもイチゴの甘さと柿の甘さは違います。この甘さを本当に知るには自分が味わってみる以外にはわかりようがない。これを「冷煖自知」とか「言詮不及、意路不到」ともいいます。
修行といえば、世の中の人はすぐ難行苦行というように考えがちですが、釈尊は難行苦行だけでは解決しないとされた上で菩提樹下の瞑想(禅定)をして悟りを開かれた。釈尊は難行を6年間も積んだのに結局それだけでは無理と悟られます。苦行の否定とは人間の欲望には際限がないからです。その欲望を消すための修行であれば、苦行もまた際限のないものになってしまうのです。
 |
本題になりますが、禅の根本指導は「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」の四つの言葉に示されます。その大意は、「法(真理)とは、万物は法によって生かされておるところのものであるから、経典などによって説かれた言葉に真理があるのではなく、今、この自分が生かされているということを自覚すること。悉有仏性の真実を自覚したなら今、生きている事実に無量の感謝が自覚できる」というようなところでしょうか。しかしながら、先に申しましたように真理というものは、文字や言葉だけでは、どうにも伝えきれないものがあるのです。
野球の打撃で例えれば、長島さんは「要はバットのシンでボ−ルを当て、遠くへ飛ばせばいい。その為にはボ−ルをよく見て強く振ればいい、それだけ!」。盗塁のコツを聞かれた広瀬選手は「盗塁ちゅうのはなあ、こうリ−ドをとるやろ。ピッチャ−がセットに入るやろ。投げたと思ったら、ぱ−と行けばいいんや」です。突き詰めると単純になるものです。しかし、走る決断と脚力などの要は努力や精進がなければどうにもなりません。禅も同じです。経典や祖師の著書を読めば、何となくつかめたような感じにはなっても心底のうなずき体解とはいかない。坐禅とは「行」ですから、坐禅をしない宗教評論家の本をいくら読んでも「冷暖自知」の世界は解るものではありません。「教外別伝」の「伝」と言うことは「伝とは覚なり」の世界ですから、文字を越えたところの「仏心」を示すものなのです。
中国唐の時代、雲厳という僧が百丈禅師を訪ねた時、雲厳は「老師は毎日、せっせといったい誰のために働かれるのですか」と問いました。百丈は「一人それが必要な者があってね」と答えたので、雲厳が「どうしてその人にさせないのですか」と聞くと、百丈は「それ自身では人生修行がたてられないのだ」と答えられたと言います。百丈のいう「一人」とはだれのことでしょうか?
その言葉の世界ではない「不立文字」の世界にあえて少し足を踏み入れてみましょう。
古代の中国禅宗において尊重されたお経の一つに「維摩経」(ゆいまぎょう)があります。このお経は「不二の法門」(二つのものの区別や対立のない教え)を説いています。
おおまかな内容を説明します −−
維摩は在家の仏教信者でしたが深く禅の真理に通じていました。
ある時、この維摩が病気になります。これを聞いたお釈迦さまは弟子達をお見舞いに行かせようとしました。そこで、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)を呼んで、そのことを頼みますが舎利弗は次のようなことをいいます。
「私(舎利弗)は維摩を見舞いにいくことは辞退したい。というのは、私が坐禅しているある時に維摩居士がやってきてこう言ったのです。『あなたは一生懸命坐禅していてたいへん結構なことですが、あなたの坐禅の仕方はまちがっていませんか。坐禅というのは、煩悩を断ずることなく涅槃に入ることをいうのです。心の落ち着きを得たままで、しかも実際に立ったり坐ったり歩いたりする行動をいうのです。さまざまな煩悩をいだいたままで、悟りを得ることをいうのです。坐禅とはこのような仕方で行うべきものです』 維摩にこういわれて、私はその意味が理解できず何とも答えられませんでした。ですから、深い知慧を持つ維摩が恐ろしくて彼の見舞いに行くことはできないのです」と答えた。
逸れますが、その舎利弗をご紹介をしておきましょう。お釈迦さまの率いる仏教教団には、聖者の最高位(阿羅漢)の悟りを開いた弟子が500人いました。その中でも「10大弟子」と呼ばれる人達が中核となって教団を支えますが、10大弟子の中でも、特にお釈迦さまの信頼の高かったのがこの舎利弗(シャーリープトラ)です。舎利弗はお釈迦さまに代わって教えを説くほどでした。その舎利弗が釈尊の弟子となった経緯を説明します。
真理を求めて、さまざまな師を尋ね歩いた舎利弗は、あるとき立派な僧に出会います。その姿から悟りを開かれた僧であろうと、彼は懇願してその教えを尋ねました。この僧こそ、お釈迦さまが最初に教えを説いた五人の比丘のひとりアッサジです。アッサジは弟子入りして間もないが・・と断って、次のような詩を聞かせた。「諸法は因より生ず 如来は其の因を説きたまう 諸法の滅も亦畢竟空なり 大沙門は此の如く説きたまふ」 縁起の教えを偈にしたこの四句を聞いただけで、舎利弗はたちまち釈尊の教えを理解し、悟りの最初の段階に達することができたという。智慧第一といわれる所以です。
‥‥ 維摩の云う「煩悩を断ずることなく涅槃に入る」とは「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といわれる禅の極意にあたります。菩提とか涅槃は悟りの世界です。しかし、煩悩を捨てて菩提を得ようとするのは二つを区別し、分別する執着にとらわれていると禅では示すのです。禅の真理は、二つのものの区別や対立のないところにあり、それを維摩経では「不二」として示しています。
お釈迦さまは次に神通力第一といわれた目蓮(もくれん)尊者に依頼しますが目蓮も次のように言ってこれを辞退するのです。「あるとき私が在家の人々に説法をしていると維摩がやってきてこう言ったのです。『目蓮さん、あなたの説法は間違っていませんか。法というものは一切の相(すがた)を離れたものです。一切のすがたを離れているからこそ、法は説くことも示すこともできません。つまり、法は一切の言葉を離れ言語を絶しているのです。もしも説法するなら、法は説くことができないということを理解してから法を説かなければならないのです。』 維摩にこう言われて、私は理解できず何とも答えられませんでした。ですから、深い智慧を持つ維摩がこわくて彼の見舞いに行くことはできないのです」と答えました。
‥‥ ここでも、維摩の深い教説が示されています。禅でいう「法」とは真理のことです。真理というのは一つです。故に唯一無二であるとすれば、それは言葉で表現することはできないのです。なぜならば、言葉というものは「大小」「善悪」「苦楽」「生死」「神仏」というように分別の世界の表現ですから、真理を言葉で表現することはできないというのです。そして、この言葉で表現できない真理をどうしたら説くことができるかというのが「維摩経」のテーマになります。
さて舎利弗と目蓮の二大弟子に断られたお釈迦さまは他の仏弟子にも頼みますが、かれらもすべて維摩にやりこめられたことがあり誰しもが行くことを断ります。しかし、最後に、文殊菩薩さまが仏陀の頼みを聞き入れ、維摩を見舞うことになります。
文殊菩薩が維摩の邸宅を訪ね居室に入るとベッド以外は何もありません。文殊菩薩が「どうしてお部屋に何もないのですか」と尋ねますと、維摩は「一切は空だからです」と答えます。さらに文殊菩薩は維摩になぜ病気になったのかを聞きます。それに対して「一切衆生病むをもって、この故に我れ病む」と答えるのです。維摩経は「空」の教えと、慈悲、利他行の精神も巧みに表現されています。その後経典は多くの菩薩が「不二の法門」についていろいろと説かれる所に至ってクライマックスに達します。そして、最後に「不二の法門」について文殊菩薩が次のように言います。 「皆さんの語ったところは、確かに一応は正しいが、しかし、やはり二つのものの範囲、分別や戯論の世界に属するもので充分とはいえません。いかなる言葉も説かず、語らず、示さないならば、これこそが本当に不二の法門に入るということなのです」
文殊菩薩は最後に維摩にも「不二の法門」について説いてもらいたいと頼みます。この時、維摩は口をとざして一言も語らなかったのです。これを『維摩の一黙』というのです。この維摩の一黙ということは、真理は言葉で表現できず、教えに依らずして心から心に直接伝えられるという「不立文字教外別伝」「以心伝心」という禅の基本的な考え方に連なっていきます。
余談ですが、仏教評論家には、この維摩居士信奉者が多いですね・・ 。その理由は「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りが開けるという教えを垂れてはいるが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に悟りを開く人もいる。その一番いい例が維摩居士である」という独自論です。「きびしい修行を積み最高の段階に達した十大弟子も頭の良い維摩居士には遠く及ばない」、「きびしい修行をしなければ悟りに至れないというわけでは決してない」と言いたいのでしょうが、真の理解はできていないように思われる。
釈尊が明星の輝くのを見て大悟されたとき、「有情非情、同時成道、草木国土、悉皆成仏」(うじょうひじょう、どうじじょうどう、そうもくこくど、しっかいじょうぶつ)と示されたその真髄、あるいは、「天上天下、唯我独尊」(釈尊誕生偈)の悟りとは、声聞や縁覚の開悟の及ぶところではないと思うのです。
『維摩の一黙』の話を続けます。「維摩の一黙」つまり「維摩」の考えが絶対的に正しいといえるかどうかということです。どういうことなのかというと、道元禅師の「正法眼蔵」三十七品菩提分法の巻に維摩の一黙に対する指摘箇所があるのです。そこでは『如来の一黙と維摩の一黙と、相似の比論にすらおよぶべからず』と示されます。そして「言語動容(ごんごどうよう)はこれ仮法(けほう)なり、寂黙凝念(じゃくもくぎょうねん)はこれ真実なり」(言葉で表現されるものは仮の姿で、真実は不可説であり、沈黙である)という考え方に対して、道元禅師は「仏法にあらず」としりぞけられるのです。「維摩経」にもとづく考え方と道元禅師の禅とは相違があると考えなければならないでしょう。
言葉で表現されるものは仮の姿というのは一面を表してはいますが、「仮の姿」と断言するところにまた落とし穴があります。お釈迦さま以来多くの祖師方が法を伝え、正しい人生のありかたを伝えてきたものは言葉でもあります。《修証義》には「怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝(きも)に銘じ魂(たましい)に銘ず」 とたった一言が人を救い、たった一言で迷いがはれるということも真実であり、念仏も経典読誦も言葉でありながら「言葉は仮の姿」を超えるのです。肝(きも)に銘ずるとは「心に深くきざみつけるように記憶して忘れない」、別の言葉で言えば言霊(ことだま)です。言葉には威力があります。あたたかい一言に励まされて絶望の淵からはい上がることもできます。大衆に歌が愛され、詩人が敬慕される所以です。それと反対に、心悪しき言葉には、自他を傷つけ、落胆させ、命さえも奪うこともあります。仏教では「真実の霊力のある言葉」を「真言」あるいは「陀羅尼」と呼んでいるのです。
道元禅師は真理のお示しとして『正法眼蔵』を著されました。曹洞宗の経典には「正法眼蔵」からの編纂である修証義という主経典があり、正法眼蔵の具現として「只管打坐」を示され、日常の具現として「威儀即仏法・作法是宗旨」として相承されているのです。
・・・ わかりましたか?
わからない! ・・・。
「只管打坐」とは法の具現です。小さな己の我を捨てて大我に帰る。自己を否定して、更に自己を肯定する「行」です。 「放下著(ほうげじゃく)」という禅語がありますが、欲張らないで手放しなさい、自分と他人を比較することをやめなさいということです。有頂天になる自我、ああだこうだという自我を放下し、線香を真っ直ぐ一本立てて身を正して呼吸を整えて坐る。『威儀即仏法・作法是宗旨』の威とは、威力・威光・威徳を養うこと。儀とは態なりともいい態度や姿勢のことですから仏の威儀を修証するということになります。
・・・ わかりましたか?
・・・ わからない人は、はじめに戻って研鑽し直してください。
老婆親切も過ぎれば薬弊になりますが、最後に良寛さまの詩を道しるべとします。、
花無心招蝶 花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 花開くとき蝶来たり
蝶来時花開 蝶来たるとき花開く
吾亦不知人 吾また人を知らず
人亦不知吾 人また吾を知らず
不知従帝則 知らず 帝の則に従う
|

H16年秋鳥海山にて撮影 |
ビデオ《坐禅》 頒価3990円 送料450円(二本以上実費)
時間 20分
監修 大本山総持寺 045-573-7782
Fax045-575-9707
◇◇◇電話かFAX・総持寺ホ-ムペ-ジから申し込んでください◇◇ |
|