我が国の自殺数は、平成7年は22,000人台、8年は23,000人台、そして平成12年度はなんと31,957人、13年度は31,042人と年間の自殺者が4年連続で3万人を記録しています。一日におきかえれば100人に近い人達が自ら命を絶っているのです。とりわけ不況によるリストラ、倒産を背景に中高年の自殺が増えており交通事故での年間死亡者をはるかに上回ります。また、自殺未遂者の数はその10倍を数えるともいわれていますから、一日に1000人前後の人達がつらく悲しい絶望にくれている人達がいる・・亡くなる人も、或いは未遂で一命をとりとめてた人であっても、その後、本人はもとより家族や知人も共に苦しみに苛まれることになることを思うとたまらなく胸が痛みます。
しかし、この考えに近い知識人は多いようです。 文壇中枢にあって、晩年には文芸家協会理事も務めた江藤淳氏の死もさまざまな観点の議論がなされたようです。自他に生きることを説いてきた氏ではありましたが、妻慶子をがんで失って8ケ月後、66歳で自ら命を絶つ。公表された遺書には「心身の不自由は進み、病苦は耐え難し、去る6月10日、脳梗塞の発作に遇いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ずから処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」。江藤氏の自殺に対し、中には「背信」の批判もあるようでしたが、識者といわれる人達の中には「自殺」を「諒」としたような報道がありました。 江藤淳氏告別式の時には−−− 『奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい。・・・美しい限りで、それは我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で充分にあがなってくれるはずではないか。彼から、「諸君よ、これを諒とせられよ」と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことができるだろうか』 或いは 「彼の強さが単なる自殺ではなく、矜持を保ったままの自決を選ばせたが、その本質は、限りない優しさによる、妻への殉死だと思う」 などです。 氏の著書「妻と私」には沢山の共感の手紙もよせられたようです。愛する妻に先立たれ、子もなく、自らも病気というのであれば底知れぬ寂しさは他人にはうかがいしれないものがあるでしょう。最大のストレスは「配偶者の死」というのは世界共通です。それに、誰にでも「逃げたい」と思う気持ちはあるはずですから、「死にたい」と思うのを責めることはできません。 けれども、「諒」と美化するだけでは「自殺」と「夫婦愛」を混同していると指摘されても仕方ありません。「諒」と受けとめることは「やさしさ」故という考えもありましょうが、遺族や知人の悲嘆も現実のことです。申すまでもなく、自殺は恥ずかしいことだとか、弱い人間だというのであっては偏見であり差別です。けれども、「夫婦愛の最後の究極の愛」として「諒」とし「美化」することは了解できない。「美化」どころか、していい自殺などはない、「死にたい奴は死ねばいい」というのも間違っています。 又、「自殺予防を考える」教化フォ−ラムの医学部助教授の著述に、−− 配偶者が病気になり、いのちは助かったものの生活の目処が立たず困惑している方が「助からないであのまま死んでくれていたら良かったのに」と言ったことがあった。(中略)その話を聞いた人は、誰一人その人を責めなかった。むしろ共感をもって理解していた。私はその話を聞いて心が悲しさで一杯になり涙が出そうになった。自分の夫の死を願い淡々と話す奥さんが一番悲しい思いをしていたのであろう。−−と。 私はこの文を見て胸が一杯になり涙が出そうになった・・・。 確かに、介護する側にたてば、病院や老人保健施設は三ケ月以上継続して面倒を見てくれない、そして特別養護老人ホ−ムはどこも入所希望者の書類が山と積まれている社会背景もあるかもしれない。 しかし、そんな社会システムの問題点はまず脇に置いておきます。 一番悲しい思いをしているのは本当に奥さんなのでしょうか。夫の死を願い打ちあける心が「やさしさ」「慈悲」なのでしょうか・・。介護する側は「大変、大変」と被害者のように言いますが、悲しみの傍らに寄り添うことを忘れた介護であれば、介護されるほうでは自分の心を素直に打ちあけることもできずに悲しみにくれるばかりでしょう。だから、絶望の果てに決断する老人も少なくないと思うのです。 仏教の教えは「諸行無常」です。すべてのものは移り変わる意です。仕事一筋で家庭のことは省みず妻にまかせっきりだった為に、妻がいなければ日常生活さえままならない。自分の居場所の定まりも悪く孤独感は強いのに周りに素直に協力も頼むことができない。夜も寝られず、ただただ大きな悲しみが押し寄せて来て生きる力を失いそうになる−− こともあるでしょう。 ・・・ けれども、懸命に生き抜いた愛する人の生き方を想いだし、「愛する人を失うのはあなただけじゃない。しっかりしてね」との声なき声に励まされ、「そうだな・・恥ずかしくない生き方をしなきゃあな」「あなた、よくがんばったわね」といわれるように、多くの人が一生懸命がんばって生きているのではないですか。「外に出て仲間を作るのが上手な人は介護の悩みなども友だちに話してうまく発散できるが、そうでない人はプライドが邪魔をして内に向かってしまう。本当の友人には心を開いて心中を話す。素直に心を開き素直に涙することができれば生きる力も沸いてくるものです。案外、その時をはずせばあとは気楽そうに生きられるかもしれません。自殺したくなるのは自分の本心ではなく病気が時にそうさせるのです。 病気が治ればほほえむことができます。最愛の人であったしても7回忌ともなれば泣かないで話ができるようにもなります。13回忌にもなれば・・つい、命日をつい忘れてしまったり、23回忌にもなれば孫や曾孫たちが集まってきて賑やかになりめでたい感じにさえなるものです。時が治してくれる、どんなつらい出来事でもだんだん苦しみが薄れ忘れていくということは神仏の恩寵です。
真面目な人はいい加減に生きることができないというところがあります。けれども、真面目なだけでは活力あるエネルギ−は生まれない。かくあるべしという理念に執着すれば、言葉の美しさや背景となるものの美しさを求める人にとっては、自己の末期の姿が醜くなるのを拒んでしまうこともあるのでしょう。 正義や真理を感情で出す人は、自分の心の怒りや憎しみの発露であるがごとく、他を批判しているつもりでも自分も又その矛盾や偽善性を持っていることに気づいた時、自分にもその矛先を向けざるを得ず自己欺瞞にもおちいるものです。その結果、考えても仕方のないことをいろいろ考え、思いはつぎつぎに思いを呼び、堂々巡りをしてしまったあげくに疲れ果ててしまうということは考えられます。 ・・・ 追いつめられ、生きることに疲れると、こころは生と死の間を根無し草のように揺れ動きます。そんな時には信じる人に苦しさを打ちあけることです。「死にたいほど悩んでいるならそのことを誰かに話すことです。信じるに足る人ならば「馬鹿なこと言うなよ!」とか「絶対だめよ!」「こうすれば」「ああすれば」と責めることはしないでしょう。「死にたいほどつらいことって何なの・・」と性急に聞きくこともなく、寄り添い自分の呼吸を感じ取ってくれるでしょう。本当に案じ聴いてくれる人、苦しみを理解してくれる人が一人でもいれば自殺は思いとどまれるものと思います。 総持寺前貫首板橋興宗禅師は著書の中で「犬や猫は自殺しません。(中略) 思い悩んで青い顔しているのは人間だけですね、しかも勝手に自分の頭のなかだけで迷っているのです」と説示されるように、過去を思いわずらって体調をこわす犬や、未来を不安に思って寝込む猫などいません。想像力を持つ人間故の悩みともいえますが、この解決法を示すのが仏教です。明日何が起こるか確実なところは誰にもわからないことですから、「ぼんやりとした不安」は「ぼんやりとした不安」のままでかまわないと思うのです。ぼんやりとした不安にとらわれるのではなく、具体的な課題を適切に処理すればいいのです。具体的でない不安にとらわれることはやめるべきでしょう。解決策とは、問題が具体的なときだけなのですから。 うつ病や自殺が増えているのは、「南無」や「平常心」といった心が養われていない為に、自己の観念であえぎ、もがく状態に見えるのです。「悲しくてやりきれない」となげきながら「あのすばらしい愛をもう一度」と念願する人間性の本質を観ないと正見を妨げるのです。世間では「分別がある」のは良いこととされていますが、仏教ではこの分別が迷いの根源と示すのです。 パソコンでしんしんと打つと心身となりますが、道元禅師は身心と示される。「心身」ではなく「身心」と示されるところを真摯に見直したいと思うのです。自己の幸せを外に向かって求めていくのではなく、自分自身に目を向けなさいと示されるのです。とらわれが無くなれば、有り難さに気づき別なる世界が展開するでしょう。元気で暮らして世話をかけずにコロリと逝きたいのは誰しも同じですが、「まだ生かされている、ありがたし」と手を合わせ、ヨロヨロ暮らしてヨロヨロ逝くのも自然体というものです。 趙州和尚は「世人は12時に使われ、我は12時を使う」と言っておられますが、内山興正老師も最晩年、見舞いに行ったお弟子さんに老師は「〇〇さん、年を取るということは良いことだよ。今まで自由に動いていた手足がなかなか言うことを聞いてくれなくなるし、耳も聞こえなくなるけれど、これでちゃんと生きているってことがよく実感できるんだよ」と語ってくれたそうです。まさに「この生死は仏の御いのちなり」を全身で行じられているお言葉です。「生死は仏家の調度なり」という言葉もあります。人生には平穏な時もあればそうでないこともある。喜怒哀楽の人生が何とも言えない綾模様となる。それはまた天地のいのちの飾りであるという意味になるでしょう。都合が悪くても仕方がない。これはかなわんと思って怒ってみても仕方がない。どんなに楽しいことでも途中で時間切れになっても「あっそう」と未練を残さない人とは「今」を大切に生きている人でしょう。仏教の中でも行を中心にしての思想は「禅」の特徴です。殊に道元禅師の示された教えというのは「仏教」ではなく「仏道」なのです。 道元禅師の仏法を慕う良寛さんの五合庵に泥棒が入った。何も盗るものがないので泥棒は困った。そこで良寛さんは掛けている布団から寝返りを打って自分の布団を持っていきなさいと思っている人です。クシャミをしたいが、あまりに早くクシャミをして泥棒を驚かせてしまってもいかん。そこで遠くに行ってからクシャミをした。とか・・ その時の良寛さんの句に 「盗人に取り残されし窓の月」 −− 少しもとらわれていないようです。 その良寛さんが地震の災難に遭っていた時、親類の者に災難逃れの法はないかと聞かれたのに対し 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是はこれ災難を逃がるる妙法にて候。」と示されました。地震にせよ、台風にせよ、火山の噴火や津波にしろ、有史以来起こっていますが、人間がいない限りは単なる自然現象です。人間がいるからこそ災害となることを考えれば、災害時には天を恨まず、災難にも耐え、そしてお互い助け合って生きるということになるでしょう。 良寛さんのこんなに霊験あらたかなお示しの呪文はありません。
|