お地蔵さまのお話


 地蔵菩薩の「地蔵」というのは、サンスクリット(梵語)の「クシティ・ガルバ」ということばを漢訳したものです。
 クシティは「大地」の意で、ガルバは「胎」とか「蔵」と訳されています。つまり、「大地の母胎」ということを意味しているのです。この地蔵菩薩は、インドの大地の神の一種で、財宝をつかさどる神であったというのが定説です。
 地蔵菩薩について辞書を引くと、「釈尊が入滅されてから、弥勒菩薩が下生して仏になるまでの間、無仏の世界に住んで六道の衆生を救済する菩薩」と説明されています。
 菩薩とは道を求めて修行中の身をさすことばですから、厳密な意味では、お地蔵さまや観音さまは仏ではありません。しかし、広い意味では、菩薩、明王、如来などをまとめて仏ととらえていますから、お地蔵さまを仏と呼んでもいっこうにさしつかえありません。
 さて、地蔵菩薩がこれほど人々のあいだでもてはやされてきたのには、大きなわけがあります。それは、現世利益と深く結びついた仏さまだったからです。菩薩の中でも、地蔵菩薩は先に示しましたように、弥勒菩薩が仏になるまでのこの沙婆世界で、仏になり代って人々を救ってくれるといわれ、いろいろなものに姿を変えて八面六臂の大活躍をするというのです。ですから、人々は、長寿息災、子育て、五穀豊穣、戦さに勝つことまでお地蔵さまにお願いしたのです。こうして現在に至るまで、地蔵菩薩は、子守り歌、昔話、童謡、はては 「これこれ石の地蔵さん・・・」 と流行歌にまで登場している特異な存在です。
 異名地蔵の中でもっとも多いのが、子安地蔵ですが、次いで一般的なのは、身代り地蔵です。「代受苦」ということばがあるように、災難にあった人の苦しみを地蔵菩薩が身代わりになって引き受ようとされるのです、何ともありがたいことです。お地蔵さまは慈悲深い尊容に描かれたり刻まれたりしますが、その背後にある「代受苦」の決然とした誓願を忘れてはならないのです。「慈悲」とは、普通、慈しみやあわれみと解釈されていますが、古代インドの原語では「マイトリー」「カルナ」という言葉を合わせた漢語です。原語の意味は「友情・同志」、カルナは「うめき声」という意味だとされています。つまり、誰かが苦しみにうめいているのを見ると、同じように自分も悲しみ苦しくなるということです。このことから、慈悲とは「同悲・与楽抜苦」の心であると示されてきました。
 そのお地蔵さまのイメージは、頭を丸め、衣を身にまとっています。こうした姿を声聞形(しょうもんぎょう)とか比丘形(びくぎょう)といいます。これは、衆生の救済の為に沙門(しゃもん)のままの姿で急いで六道にやってきたからだといわれるのです。手には左に宝珠、右に錫杖を持っている形が多く、手のかたちは施無畏印か与願印がふつうですが、現世利益を願って与願印の方が多くなっています。しあわせ地蔵菩薩は施無畏の印といって右手を前方にかざしています。施無畏の印とは衆生のさまざまな恐怖を取り去って救うことの意を示す印であります。又、お坊さんのかっこうをしていても、胸にきらびやかなようらく(ネックレスの類)がさがっているのは宝珠と同様、財宝を司どる菩薩として又冥福供養が主たる建立発願でないという意味です。
 人間はだれでも、本来、仏性(仏さまと同じ本性)という宝に恵まれています。これが仏教の根本の教えです。しかし、現実の生活のなかで、私たちは、つい、その大切な宝物を見失ってしまいます。お地蔵さまの左手の如意宝珠は、私たち人間だれもが天賦の仏性という宝をもっていることを、その持物で教えているのです。 そして、お地蔵さまは、この人間の本質を自覚させるのにけっして急がせたり、自分の考えを押しつけたりはしません。衆生を導くとき、その人の能力や個性に応じて育み、救っていこうとするのがお地蔵さまの心なのです。

 本来、地蔵菩薩の活動範囲は六道能化の地蔵尊といわれるように、天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という、あらゆる世界すべてに及んでいます。 六道という六つの世界とは、老病死を忌み自己満足で舞い上がる天上界、苦楽相半ばの人間界、他を責め自分を守ろうとする修羅界、本能むき出しの畜生界、飽くなき欲望に身を焦がす餓鬼界、自らの貪り怒り愚痴により希望を失って呻吟する出口の見えない地獄界とされています。
 観音さまが三十三の変化身を持つといわれるように、お地蔵さまもさまざまに姿を変えるのですが、その数はずっと多いのです。地蔵菩薩の変化身を仏典の中から拾ってみると、お地蔵さまは、男になって現れたほうが衆生を教化しやすい場合は男になって導き、女になったほうがよい場合は女になって教えます。また天人でも龍神でも、あるいは鬼神のような恐ろしい姿にも、それが衆生を導くためならば、その姿に変化して衆生の前に現れます。 『地蔵菩薩本願経』によると、お地蔵さまは、衆生を救うために十の誓いを立てています。

1.土地が豊穣で作物に恵まれる
2.家内が安全である
3.亡くなったら天国に生まれかわる
4.現世ではできるだけ長生きできる
5.願いごとがよくかなう
6.水火の災難がない
7.過ちやさわりを除く
8.悪い夢を見ることがない
9.旅行しても無事である
10.仏にめぐり会うことができる


 これを見ると、お地蔵さまは墓地や災害現場、水子の供養などで建立されてはいますが、庶民の心をよく酌みとってくれる現世利益の仏さまであることがわかります。

 お地蔵さまは不思議な仏さまで、じっと向き合っていても少しもこわくない。頭をなでても肩をたたいても怒りそうもないあたたかさを感じます。道端の石仏などは、いっしょに並んでぼんやりと空でもながめている姿は絵になるようです。しかし、ありがたい仏さまには違いないのですから、お参りする時には、それなりの作法をもって祈念したいものです。いちぱん簡単なのは、「オンカカカビサンマエイソワカ」という真言をお唱えします。「類いまれな尊いお地蔵さま」という意味です。両手を合わせてくりかえしくりかえし唱えるのです。

 「オン」は「帰命・供養」などの意味があり、神聖な語として、インドでは宗教的なことばの初めにおかれています。帰命とは、命の帰着点とすることですから、さきほどの「南無」と同じような意味になります。「カカ」というのは、「呵々大笑」の「呵呵」で笑い声をあらわしています。日本で昔から呼び親しまれている「カカさま」という母への呼び名もここからきているそうで、「カカ」とは、つまり微笑みをたやさないお地蔵さまのことです。仏さまにそれぞれ種子あるいは種字といって、その仏さまを表わす文字がきめられています。「カ」はお地蔵さまの種子であります。したがって「カカカ」というのは、「お地蔵さん、お地蔵さん、お地蔵さん」と一生懸命お地蔵さまを呼ぶのです。「カビサンマエイ」とば「希有」の意味だといわれますから「類いまれな尊いおかた」というようなお地蔵さまへの讃歎の気持を表わしたものと受取ればよいでしょう。「ソワカ」は、神聖なことばの最後につけてその言葉の完成成就を願う気持をあらわします。
 その心を意訳して「おんにこにこはらたてまいぞやそわか」と教わりましたが、なるほどという解釈であります。