曹洞宗 廣蔵山 長泉寺  



山門に声はみ出して燕の子  セツ子

安楽城のわらべうた
安楽城のわらべ唄

《 本 尊 》 
大恩教主本師釈迦牟尼佛(お釈迦さま)
《 長泉寺開山 》
瑞雲院12世天巌詮堯大和尚 《延宝元年12月9日示寂(1673)》
《 長泉寺開基 》
長泉寺殿昌宝広孫大居士《 天正9年4月1日亡佐藤美濃守信種》
《 住 所 》 
999-5521  山形県最上郡真室川町大字大沢岩麓13 
《 住 職 》 
広蔵山長泉寺20世   矢口隆博 


ようこそご覧いただきまして有難うございます

 葬祭儀礼は近年益々価値観の多様化がみられます。良い方向への多様化ならば結構なんですが、ある寺院広報誌に、「これでいいのでしょうか」と次のような事例が掲載されていました。
 
『ある小学校の給食の時間に、みんな揃って手を合わせ「いただきます」と言って食べていた。ところがPTAから「学校で宗教教育をするとはけしからん」といって反対の声があがった。そこで先生方が相談したが結論が出ず、町の教育委員会にまで問題が持ち込まれた。結果、「いただきます。」を取りやめ、「ピ−」という笛の合図で一斉に食事を始めることにした −−』 他にも、ある県の小中学校では全県下、「いただきます、ごちそうさま」と合掌して唱えていたそうです。ところが、「給食費は払っているのになんで拝ますのか」と抗議があり、教員会議から町の教育委員会、そこでも結論がでなくて県の教育委員会で議論され、県議会にも諮られて、ついに「いただきます」と「合掌」は廃止されることになったというのです。拙僧にとっては驚愕の記事でありました。このHPはそのショックがきっかけとなり、多くの「いのち」をいただいて生きていながら、そのいのちを見失っている人への提言のつもりで始めました。
 近年では「近所住民からのうるさいというクレームで、除夜の鐘をとりやめにしたというお寺のニュースもありました。鐘の音も騒音と判断して排除しようとする偏った心。経済も低迷するなかで「こころ」の不調を訴える人は増加しています。昔から、人は生活が苦しければ仁を忘れ、人は困窮すれば平気で悪いことをするようになるとも言われます。けれども、困窮すれば誰でも悪いことをするかと言えばそんなことはありません。むしろ、宗教が無いから平気で嘘をつき、宗教がないから「いただきます」の心を失い、趣を理解できないから感謝の心が薄れ、法事やお葬式の心情も薄れるのではないかと思います。宗とは「一番大事なこと」ということです。人生とは何をなしたかというより、どのように生きたかということが大事なはず、生きていく上で何を「宗」とするかが「人格」の根本ともいえるのです。

 ところで、一般の方が禅や仏教に関心をもったとしても、いきなりお寺を尋ねて道を問うということはほとんどないでしょう。関心をもったなら先ずは本などから概念を得ようとするでしょう。そんな折、インタ−ネット初期活用としてはどんなものかと試作で始めたHPです。
 実を言えば、宗門では「潜行密用は愚の如く魯の如く、只よく相続するを主中の主と名く」が宗旨です。自戒も含めて言えば、しっかりしたようなことを書いたつもりであっても、観念の中の扱いであっては説教になってしまうのです。在家出家にかかわらず説教師は嫌われます。如来(仏)の定義の一つに、「説いたとおりに行う、行ったとおりに説く」「行ったことを説く、説いているとおりに行う」という言葉があります。自分が寝ていて他人に起きなさいというのではお節介なる説教です。「不立文字」とは、文字や言葉の中にあるのではなく自己の参究をこそ示すものですから「行」がなければ得られるものではありません。
 越後の良寛さんは得法の禅師ですが「羞恥の人」と呼ばれます。羞恥の心とは自己への不断の省察から表れる心です。良寛さんが人に向かって法を説くことがなかったのは、深く「羞を知る」人だったからでしょう。それに、本当に禅に熟達された方とは仏法臭さは感じないものですが未熟な者はどうしても匂ってしまいます。よくよく心しなければならないところです。
 けれども、布教とは「仏法」を何とかわかってもらおうとする仏行であると思っています。
 こんなことがありました。80に近い俳句の選者大先生が雑談で曰く、「達磨さまは悟っていない!」・・と。そんな誤見解の基たるものは何なのか、後日、再度問うと、「悟っている人は怒らないものだ。達磨画を見ればすべて怒っているではないか」とのこと。−− 仏祖の厳しさや憤怒の形相とは、煩悩や心の魔を降伏せんが為なるにもかかわらず、歳を重ねた知識人、文化人と言われるお方でもなかなか理解の難しい世界なのでしょう。
 私は、人に教える自信などはありませんが、仏教精神にいささかでも触れたものとして「これによって自分は救われた」と感得したものは少しでも伝えたいと思います。
 しかしながら、
『説以一物即不中』【一物を説以すれば即ち中(あた)らず。正法とは真如そのものですから「これが正法、これが真実だ」というものは簡単に示せるものではありません。少しでも相対的な分別をはたらかせて注釈しようとすると、ごたごたともつれて本義を失ってしまうということを示唆した名句です。浅学非才の田舎和尚のやることですから、教義の解釈、表現の未熟な点はご寛容願います。
 
追記
 人権にかかわるような表現記述、或いは教義解釈の不適切に気付かれました方は是非ともご教示のほどお願い致します。

 
                    長泉寺住職   矢口隆博 合掌


中央は元安楽城小学校のあさひ小学校、右上方林の中央に当寺があります

   しあわせ地蔵尊へ  
   仏事と葬儀へ          
   室内      
 


H13/2/13日設定