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葬祭儀礼は近年益々価値観の多様化がみられます。良い方向への多様化ならば結構なんですが、ある寺院広報誌に、「これでいいのでしょうか」と次のような事例が掲載されていました。
『ある小学校の給食の時間に、みんな揃って手を合わせ「いただきます」と言って食べていた。ところがPTAから「学校で宗教教育をするとはけしからん」といって反対の声があがった。そこで先生方が相談したが結論が出ず、町の教育委員会にまで問題が持ち込まれた。結果、「いただきます。」を取りやめ、「ピ−」という笛の合図で一斉に食事を始めることにした
−−』 他にも、ある県の小中学校では全県下、「いただきます、ごちそうさま」と合掌して唱えていたそうです。ところが、「給食費は払っているのになんで拝ますのか」と抗議があり、教員会議から町の教育委員会、そこでも結論がでなくて県の教育委員会で議論され、県議会にも諮られて、ついに「いただきます」と「合掌」は廃止されることになったというのです。拙僧にとってはショックを受けた記事でした。このHPはそのショックがきっかけとなり、多くの「いのち」をいただいて生きていながら、そのいのちを見失っている人への提言のつもりで始めました。
科学文明は確かに役にたっています。しかし、我々の精神文化に関しては祖先が得ていたそれより以上に得ているといえるでしょうか。経済も低迷するなかで「こころ」の不調を訴える人は増加しています。昔から、人は生活が苦しければ仁を忘れ、人は困窮すれば平気で悪いことをするようになるとも言われます。けれども、困窮すれば誰でも悪いことをするかと言えばそんなことはありません。むしろ、宗教が無いから平気で嘘をつき、宗教がないから「いただきます」の心を失い、感謝の心が薄れるから法事やお葬式の心情も薄れるのではないかと思います。宗とは「一番大事なこと」ということです。人生とは何をなしたかというより、どのように生きたかということが大事なはずです。生きていく上で何を「宗」とするかが「人格」ともなるでしょうから、「無宗教」の人が増えるということは困ったことでもあるのです。
ところで、一般の方が禅や仏教に関心をもったとしても、いきなりお寺を尋ねて道を問うということはほとんどないでしょう。関心をもったなら先ずは本などから概念を得ようとするでしょう。そんな折、インタ−ネット活用はどうかとの試作で始めたHPです。
ところで、宗門は「潜行密用は愚の如く魯の如く、只よく相続するを主中の主と名く」が宗旨です。自戒も含めて言えば、しっかりしたようなことを書いたつもりであっても、観念の中の扱いであっては説教になってしうのです。在家出家にかかわらず、説教師は嫌われます。如来(仏)の定義の一つに、「説いたとおりに行う、行ったとおりに説く」「行ったことを説く、説いているとおりに行う」という言葉があります。自分が寝ていて他人に起きなさいというのは、ただの説教です。「不立文字」の教えとは、文字や言葉の中にあるのではなく自己の参究をこそ示すものですから「行」がなければ得られるものではありません。
越後の良寛さんは得法の禅師ですが「羞恥の人」と呼ばれます。羞恥の心とは自己への不断の省察から表れる心です。良寛さんが人に向かって法を説くことがなかったのは、深く「羞を知る」人だったからでしょう。それに、本当に禅に熟達された方とは仏法臭さは感じないものですが未熟な者はどうしても匂ってしまいます。よくよく心しなければならないところです。
けれども、布教とは「仏法」を何とかわかってもらおうとする仏行であると思っています。
こんなことがありました。80に近い俳句の選者大先生が雑談で曰く、「達磨さまは悟っていない!」・・と。そんな誤見解の基たるものは何なのか、後日、再度問うと、「悟っている人は怒らないものだ。達磨画を見ればすべて怒っているではないか」とのこと。−− 仏祖の厳しさや憤怒の形相とは、煩悩や心の魔を降伏せんが為なるにもかかわらず、歳を重ねた知識人、文化人と言われるお方でもなかなか理解の難しい世界なのでしょう。
私は、人に教える自信などはありませんが、仏教精神にいささかでも触れたものとして「これによって自分は救われた」と感得したものは少しでも伝えたいと思います。
しかしながら、『説以一物即不中』【一物を説以すれば即ち中(あた)らず】。正法とは真如そのものですから「これが正法、これが真実だ」というものは簡単に示せるものではありません。少しでも相対的な分別をはたらかせて注釈しようとすると、ごたごたともつれて本義を失ってしまうということを示唆した名句です。浅学非才の田舎和尚のやることですから、教義の解釈、表現の未熟な点はご寛容願います。
追記
人権にかかわるような表現記述、或いは教義解釈の不適切に気付かれました方は是非ともご教示のほどお願い致します。
長泉寺住職 矢口隆博 合掌
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