![]() |
![]() |
| 人生はまことに無常迅速、「光陰矢の如し」とか「光陰惜しむべし、時人を待たず」といわれるが如く、うっかりしているとあっという間に人生の決着の時がやってくる。人生は無常であるが故に「今」を切に生きるに放逸(怠惰)であってはならない」と強く戒められるのです。 時計とは今の時刻を計るものであって「今」を観るものではありません。私たちは時間の流れの中に生きていると思っていますが、仏教では私たちの存在が時間であると示唆します。時計は同じ文字盤の上をクルクル回り同じ数字を繰り返しますから無常で二度と繰り返すことのできない人生を考えれば、「今」という本質の思い違いをさせるものかもしれません。時間の本質を慮るという面では、時と共に減っていく燻る線香のほうが「今」を見つめるには合っています。放逸にして嘆くのはこの「諸行無常」に気づかぬ証拠です。この無常のいのちを認識すると、誰しもが本気になり人としての納得できる生き方を求めるようになるでしょう。この無常の世界にあって確かなるものを求める心を起こすことを発心(発無上心)といい、この発心をもって菩提心を発すことを「発菩提心」と示されるのです。 |
![]() ![]() 町内の栗谷沢にて撮影 |
紀元前2世紀頃、インド北方の王、ミリンダに対し、学僧ナーガセナとの問答は、ミリンダ王の問として伝えられています。 「大王よ、たとえば蓮華は水中に生じ、水中に生長するが、泥水に汚染されないごとく、仏道修行者は布施をする家、修行者の群れ、利得、名声、尊敬、崇拝そして愛用する必需用具においても、全ての物において、汚染されずにあるべきです。大王よ、これが把握すべき蓮華の第一の徳分である。 大王よ、更に又蓮華は水面から出て立つが如く、仏道修行者はすべての世間に打ち勝ち、越え出て、出世間のことがらにおいて安立すべきです。これが把握すべき第二の徳分である。 大王よ、更に又蓮華は微風によっても揺れ動く如く、仏道修行者はわずかな煩悩においても制御をなすべきでありわずかな罪過においても畏怖をみて安立すべきです。これが把握すべき蓮華の第三の徳分である。世の中や人の心が汚泥であっても、蓮華の如く清浄無垢であり、しかもその状態を崩さない。大王よ、これらの徳分が必要なのだ、と言ったと伝えられています。 蓮の花は決して清潔な陸地や水の中では咲きません。泥田にあってあの美しい清らかな花を咲かせるゆえに尊ばれているのです。また、普通の植物は花が咲き終わってから実ができるのに、蓮華は花が咲くと同時にその中に果ができています。どんな人間でも仏性をもっているのに仏の実をむすばせることは難しい。けれども蓮の花は一つ残らず実をならせます。百八煩悩とか八万四千の煩悩などといわれるように煩悩には限りがありませんが、この煩悩をしっかり見据えるところに「煩悩即菩提」の仏道への道になります。こんなところから蓮華は仏教の象徴とされる花になったのでしょう。 |
|