諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう) あらゆる悪をなすことなく、善いことを行い 己を主張する我執を浄めること。これが諸佛のみ教えなり。 |
| 毘婆尸仏(びばしぶつ) 忍辱為第一 仏説無為最 不以剃鬚髪 害他為沙門 (忍辱を第一と為す 仏は無為を最上と説く 鬚髪を剃り他を害するをもって沙門とするにあらず) 尸棄仏(しきぶつ) 若眼見非邪 慧者護不著 棄捐於衆悪 在世為黠慧 (若し眼に非と邪を見ては智慧者は護って著せず 衆悪を棄捐して世に在るを黠慧と為す) 毘舎浮仏(びしゃふぶつ) 不害亦不非 奉行於大戒 於食知止足 牀座亦復然 執志為専一 是則諸仏教 (害せず亦非をせず大戒を奉行せよ 食において止足を知れ牀座も亦然なり 志を執ること専一たるべし これ則ち諸仏の教なり) 拘留孫仏(くるそんぶつ) 譬如蜂採華 其色甚香潔 以味恵施佗 道士遊聚落 不誹謗於人 亦不観是非 但自観身行 諦観正不正 (譬えば蜂の華を採るが如く其の色甚だ香潔にして味を以って佗に恵施す 道士聚落に遊んで人を誹謗せざれ 亦是非を観ぜざれ 但だ自ら身行を観じて諦かに正、不正を観ぜよ) 拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ) 執志莫軽戯 当学尊寂道 賢者無愁憂 常滅志所念 (志を執って軽戯すること莫れ 当に尊寂の道を学すべし 賢者は愁憂すること無く常に志の所念を滅すべし) 迦葉仏(かしょうぶつ) 一切悪莫作 当奉行其善 自淨其志意 是則諸仏教 (一切の悪を作すこと莫れ まさに其の善を奉行すべし 自ずからその志意を淨めよ是則ち諸仏の教えなり) 我今仏(がこんぶつ) 護口意清浄 身行亦清浄 淨此三行迹 脩行仙人道 (口と意を護って清浄なるべし 身行も亦清浄なるべし 此の三つの行迹を淨め仙人の道を脩行せよ) |
ところで、この「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」は一般的には「七仏通戒の偈」と云われていますが、七仏おのおのに禁戒の偈があるのです。この四句の偈は迦葉仏の偈であります。 道元禅師はこの「諸悪莫作」についても教示されています。 『正当恁麼(!)時の正当恁麼(!)人は、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじわるににたりといえども、諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量現成するゆへに。諸悪みづから諸悪と道著せず、諸悪にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正当恁麼(!)時、即ち、悪の人をおかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる』 現代語にて概略を説明しますと−− 《注》麼の字がちょっと違いますのでご注意願います。 「まさに仏道の覚者といわれる人は、たとえ色々な悪(あく)を行いやすい縁があっても、悪(あく)を行いやすい友にまじわるように見えても、いろいろな悪を為すことはないのである。なぜならば、悪を為すことのない力量、悪に染まらない力量がそなわっているからである。諸々の悪それ自身に悪という力があるというようにとらえてもいけないし、諸悪がすべての人を悪に誘うというものでもない。浄心なる人の前では悪も姿を消し、悪を否定などせずとも自然に悪がつかないという道理なのである。覚者はその時、諸悪が浄心の人を犯さない道理を会得し、また、浄心の人は悪を為すことがない道理を明らかにできるものである」 悪を為さず善を求めるというこには異を唱える人はいないでしょう。どんな人でもできることなら善い人生をいきたいと思っているはずです。しかし、それでは何が善で何が悪かということはなかなか容易な問題ではないのです。私たちが普段考える善とは、他と比較する相対的善であり、その善に対する結果として何らかの代償を期待してしまうところに問題があります。悪に対しても同じで、自分は刑務所に入っているような人とは違って自分は善い人間の側にいると見ているわけです。これは倫理、道徳という物差しで判定した善ということになるのです。「陰徳を積む」という言葉がありますが、他人の目を意識して為される善からは本当の功徳は生じません。善という意識の根本にある「我所」から解放された時に真の「善」と「徳」が現われるのでしょう。 一般的には「自らその意を清くする」とは、煩悩によってよって心が曇っているから払い浄めなさいと理解されていますが、もっと深い視点からの教であると思うのです。つまり、苦の原因は「我執」「我見」ですから、有我見を空じ無くすることを教示していると思います。この浄心に目覚めた真人には「悪」はもう為すことができない、善は自ずから実行せずにはおれない。という本来清浄な心(仏性)に目覚めて生きていくことが誓願の生活であり、これが諸仏の教えであるということになるでしょうか。更に深く参究すべきところです。 |
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