道元禅師は弁道話の中で「それ修証はひとつにあらずとおもえる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。」と示されています。修証とは修行と証果(さとり)のことであり、「修証一如」「修証一等」といって、修(修行)と証(さとり)は別のものではないと示されます。
 一般的には、修行を積んで、やがて悟りという目標を達成するように思われています。しかしながら、新米の修行僧と古参の修行僧では仕事をこなす能力や貫禄、いわゆる能力に差はありますが、修行そのことについては同等であるということです。すなわち、悟りを期待する修行であってはならない、悟りの自覚のうえで無所得の行を修するのが真の修行であるとされるのです。

 「修証義」は正しい仏教の信仰を得るために「受戒」を中心としてわかりやすく説かれている曹洞宗の経典です。この「戒」とは一般的には大乗戒、菩薩戒、仏戒などといわれ、曹洞宗では「禅戒」といって只管打坐の禅の境地と異なるものではないという「禅戒一如」の立場を示されます。




第一章(総序)
 生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
□ 第一節  仏教のねらい 
 人生とはどうゆうことか、死とはどうゆうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切な根本的問題なのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。



  人身(にんしん)得(う)ること難(かた)し仏法値(お)うこと希なり、今我等宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非(あら)ず、遭い難き仏法に値(あ)い奉れり、 生死の中の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生なるべし最勝の善身を徒(いたづら)にして 露命(ろめい)を無常(むじょう)の風に任(まか)すること勿(なか)れ。
□ 第二節 善生最勝のいのち 
 人間として生まれてくるということは、まことにふしぎなことであり、きわめて難値難遇なことなのです。まして、人間として仏の真実の教えと出会える縁は得難く希有なことなのです。けれどもいま、われわれは、自分では気づかなかった前世からのふしぎな善縁にめぐまれて、尊いこのいのちをいただいただけでなく、あいがたい仏の教えという尊いご縁に、出会うことができました。それゆえに、生まれては死ぬ存在の人間としてのいのちというものは、もっともめぐまれた生涯であり、何ものにもかえがたいもっともすぐれたいのちであります。この善縁のいのちをむなしく過ごして、草の葉に宿る露のようにはかないいのちを、いたずらに吹く無常の風にまかせてしまってはならないのです。



 無常憑(たの)み難し、知らず露命(ろめい)いかなる 道の草にか落ちん、身已(すで)に私(わたくし)に非ず、命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し、紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢(お)うべからざる多し、無常忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親昵(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり己(おのれ)に随(したが)い行くは只是れ善悪業等(ごっとう)のみなり。
  □ 第三節  朝露のようなはかないいのち  
 世の中は無常そのものであり、死はいつやってくるかもしれません。われわれのいのちも朝露のようなものであり、いつ無常の風に消え落ちるかわからないのです。このいのちは因縁和合でできているものであって、自分の意志で勝手にできるものではないのです。このいのちは時の流れにながされて、いっときもとどまってはいません。また、かつての若さに輝いた顔はおもかげはどこにいったのでしょう。探し求めようとしても、あとかたもありません。よくよく考えてみると、過ぎ去ったことは二度とふたたび戻らないものだということがわかります。まさに無常の風が突然やってくるときには、国王たる権力者であっても政治の力も、また親しい友人も忠実に働いてくれた部下であっても、妻や子の力であっても、金銀財宝も、手を貸してはくれません。すべて何の力にもならないのです。ただ自分一人だけが黄泉(あの世)にゆくだけなのです。自分についてくるものは、自分が生存中に作った善業(よいこと)と悪行(わるいこと)の事実だけなのです。



今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世(さんぜ)を知らず善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし、造悪(ぞうあく)の者は堕ち、修善(しゅぜん)の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、 若し因果亡(ぼうじて)虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべからず。
□ 第四節  因果業報の教え
 今、この世に生まれながら、心と行為が原因となり結果となることを知らず、善業・悪業にはその行ないの結果のあることを知らない人、また人間のいのちは過去現在未来に存続しているという意味に気づかず、善と悪を判断することがでないような間違った見方の人々に親しんではなりません。善因楽果、悪因苦果の因果業報の真理は、はっきりとしていて、人間の意志や都合でごまかすことのできない歴然たる普遍性をもつものです。 悪を造るものは堕落し、善事を修するものは良い報いを受けるという因果の道理には、毛すじほどのわずかなくるいもありません。もしも、原因と結果の関係もなく因果業報の教えがなかったならば、諸仏がこの世に出現されるということもなく、苦しむ人々を救う必要はないはずです。また達磨大師が命がけで、西のインドから苦難を越えてはるばる東の中国に仏法を伝える意味はなくなってしまいます。



  善悪の報(ほう)に三時(さんじ)あり、一者(ひとつには)順現報受(ほうじゅ)、二者(ふたつには)順次生受(しょうじゅ)三者(みつには)順後次受(じじゅ)、これを三時という、仏祖の道を修習(しゅじゅう)するには、 其の最初よりこの三時の業報(ごっぽう)の理を効(なら)い験(あき)らむるなり、爾(しか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕つるなり。但(ただ)邪見に堕つるのみに非(あら)ず、悪道に堕ちて長時(ちょうじ)の苦を受く。
□ 総序、第五節   〇〇〇〇〇〇〇〇
  〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。さもないと、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。 

《善悪の業》 (法句経119.120)
悪人も又、悪が熟さざる間は福善に遭う
されど
悪が熟する時、その時は不幸に遭う
善人も又、善が熟さざる間は不幸に遭う
されど
善が熟する時、その時は福善に遭う



 当に知るべし 今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し、三つ無し、 徒(いたず)らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得(かんとく)せん惜(おし)からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて悪の報(ほう)を感得(かんとく)せざるには非(あら)ず。

□ 第六節  〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇
 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。しかし、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇、〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇。




 大法隆博訳 転載