尾花沢スイカの発展過程(荻袋開拓における)
日本一!尾花沢スイカのはじまり〜

1.第一期(夜明け前)
 開墾当初からの自家用、地場消費用として作っていた終戦直後から、昭和28年福原農協が仙台市場へ出荷、未熟果の出荷で総スカンをくった事。
 昭和35年には売るスイカを目指して、荻袋で生産組合が相次いで作られた。

2.第二期(新技術導入期)昭和39年〜41年
 30年の後半に入って、外国アメリカ、カナダ等から油料原料がどんどん輸入される。
 前期末に導入され始めた新技術がいよいよ一般化し、接木苗によるマルチ(小型小型マルチ45cm〜50cm角)パラピンキャップ⇒ポキャップ九尺(3m)×(2m)150株/10a当たり、無製枝栽培であった。
 共同出荷も昭和39年に10,000袋を超え、3年後の41年には20,000袋を越えた。

3.第三期(技術革新期)昭和42年〜45年
 まず、この次期の特色は、いよいよ密植栽培十二尺(4m)×三尺(1m)300株/10a当たりが一般化し、同時に親ヅル、子ヅル4〜5体整枝、連続マルチとポリキャップ、更にミツバチ利用によるポリネーションも試みられた。
 この時期は、前期にも増して面積の増大が大きく、(昭和42年180ha→46年315ha)これは又、ナタネに続いて大豆もお前か、、と言うように急激に減少した。(昭和41年290ha⇒45年1.35ha)それは前期の確信技術を背景に大豆畑を止めた後にスイカが入ったものとみられる。

農協も昭和41年合併と共に出荷地域も拡大、共販数量も42年の30,000袋から45年の140,000袋に飛躍的に増加した。
 46年以降、毎年スイカにとって良い天候ではなく、収量は多少低下し、栽培にも着果不良、ツルボケ、連作障害等の解決が迫れれている。
 ただ、これらの障害に会いながらも、市場では花笠スイカ、紅花スイカとして評価を得て、価格も安定し採鉱の評価を受けている。又、農家は更にスイカ栽培が次の飛躍のために、技術革新を目指し、トンネル栽培による一斉着果、ハウス栽培などが試みられている。

どこの畑作地帯もたどったと同じように、食糧の増産、次いでナタネ、大豆などの原料生産、これが外国農産物の影響を受けて壊滅的打撃を受けて無くなり、変わって今、盛夏の清涼食品としてのスイカが定着し、技術的には連作障害など一連の障害を乗り越え、生産組織的にも市内各地域に結成されたスイカ生産組合連絡協議会が農協を中心として昭和45年に結成されて、共選、統一銘柄としての花笠スイカの生産が順調に伸び、本来は、16万ケース、2億5,000万となり、多年の懸案であった産地育苗も順次スイカ栽培農家の中から始められ、46年には尾花沢スイカ接木苗生生産組合が結成され、昭和48年は36万本、必要苗数の60%を地元で生産することができるまでになった。

昭和50年頃から市内全域で栽培されるようになり、現在では、作付面積約400ha、総収穫量も2万tを超え、米に次ぐ尾花沢市の主要作物にまで成長しました。「尾花沢スイカ」の名で関東、関西方面などの都市郡に出荷され、大変人気を呼んでいます。

ところで、なぜ尾花沢スイカがおいしいのでしょうか。それには大きく二つの理由があります。
一つは、尾花沢の気候風土がスイカの栽培に最適な恵まれた環境にあること。山形県の北東部に位置する尾花沢市は、東部に奥羽山脈、南部に柴倉山から甑岳に連なる標高1,000m級の山稜に囲まれた盆地で、スイカの原産地アフリカの気象条件と似て昼夜の寒暖の差が大きく、これが糖度12〜13度の甘味をつくるといわれています。
 また、尾花沢スイカがおいしいもう一つの理由には、スイカ選果場での厳しい品質管理があげられます。平成2年夏に導入されたスイカの選果機は、搬入から出荷までフルオートメーション化が進み、一日当たり25,000箱(50,000玉)の処理が可能で大幅な省力化を実現しています。
 また、厳重なチェックにより、品質の統一が図られ、全国にスイカの特産地・尾花沢の名を位置づけました。