(1)新しい自然観
@ 物事の本質はなかなか見えない。
物事は言葉や形だけが先行してしまい、本当に意味するものや中身,本質が置き忘れられ
てしまうことが多くある。
例えば、塗り箸の使用が薦められている。熱帯雨林破壊が叫ばれる昨今、割り箸の使用を
止めることで、少しでもその破壊を止めることが目的である。しかし、割り箸の多くは間伐
材を使っているので、その使用の中止は林業を圧迫し、林地の荒廃を招く恐れがある。また
割り箸の原料としての間伐材はほんの一部であって、大部分は輸入材であるという意見もあ
る。さらに、塗り箸等の使用は、それを洗うための水需要の増加と洗剤の使用による汚染と
いう新しい問題も生じる。
物事は、関係する事柄が多岐にわたることが多く、さまざまな問題を内蔵し、簡単には甲
乙がつけられない。本質はなかなか見えないものである。
A 生態系管理の失敗は取り返しがつかない。
『自然保護とは自然の放置ではない』とよくいわれる。地球上での人類の繁栄は、原始的
生態系の変革に負うところが大きい。しかし、生態系管理の失敗例は成功例と同様に数限り
なく見られる。
アメリカの森林で、シカの数を増やそうと思って、その捕食者であるオオカミを退治した
ところ、シカの数が増え続け、やがて食物が不足して飢えるものが続出し、ついにはオオカ
ミがいた時よりもシカが減ってしまったという例が高校の教科書等によく引用されている。
ある目的のため生態系に手を加えたことが、期待に反して思わぬ結果を招いた例が多い。
科学や技術の発展は失敗の連続であり、失敗を恐れては何もできないという主張もある。し
かし、相手が自然に関することとなると、一度の失敗が取り返しのつかいない結果を招くこ
とになりかねない。自然に関する事柄では、やってみなければ分からないという場合は、何
もせずに分かるまで待つ、あるいは昔からの方法に従うべきであろう。
B 人類発展の方向は『環境を変える』から『人間が変わる』へ。
ファッションがそうであるように、人々の環境を評価するものさしは時の流れとともに変
化していく。“好ましいもの”の基準が変化すれば、従来好ましかったものも、そうではな
くなる。
植林地が人手不足などで長期間放置され、下草や雑木が生い茂ってくれば、“山は荒れて
いる”としばしば表現される。森林を木材資源の生産の場として利用する立場では正当な主
張であろうが、生物的自然の立場からすれば、長年放置された自然林は荒廃からもっとも遠
いところにある理想的な森林である。
いままでは『環境を変える』方法が、当たり前のように行われてきた。しかし、生物的自
然の法則性を無視して、生態系をさまざまに変化させ、その結果大きな損失を生じた事例が
あまりにも多い。人類は21世紀に入って、従来からの発展の方向に疑問符を付けようとして
ている。『人間が変わる』方法、つまり新しい価値観を持って地球の使い方、地球での住み
方を変えていく必要があると世界中の人々が感じ始めている。
上記は、トマトはなぜ赤い−生態学入門 三島次郎著を、引用し改変したものである。
木材資源の話を農作物に置き換えた場合、生物的自然の観点からすれば棚田は「荒廃して山
林になってもよい」、「休耕田は、草地や林地に戻ってもよい」ということになる。
農業は昔から自然に手を加えて、生態系を管理または改造して行われてきた。
近年、食料増産の目的で化学肥料や農薬や農作業機械を使うようになり、重労働からは解
放された。昭和35年の水稲作1戸当り年間労働時間は951時間であったが、平成7年では323時
間である。田んぼで働く時間は約1/3になった。ところが田んぼで働く時間を大幅に短縮し
たことがきっかけとなって、農業の生態系が急激に変化してしまった。
今後は、農業の環境を変えることに対して、もっと慎重にならなければならない。そのた
めには自然に対する見方や考え方、その本質について真正面から学ぶ必要があるだろう。
私たちは環境を変えることの重大さに気づいた。しかし、生態系に対する新しい価値観の
形成や保全生態学の研究は端緒についたばかりである。従来からの『古い自然観』から環境
価値を重視した『新しい自然観』をもつ人間社会へ早急に移行しなければならない。取り返
しのつかない環境破壊が起こらないうちに。
新しい自然観と科学技術