ジム継続の断念
このコーナーも今回で30回目ですな。まあ、良く書いた方だとおもう。今回は我がジム、リバーサイドジム
の前身大崎クラブの解散の話でもしてみようかとおもいます。
平成6年に元ボクサーの友人と、田舎にボクシングのクラブを作ろうと、うなぎ屋で突然思い付いてど田舎
宮城県小牛田町に「大崎ボクシングクラブ」を設立しました。開設2ヶ月間は全然、練習生が集まらず、誰も
いない練習会場に2人で通う毎日でした。ようやくに練習生が現われたが、試合を目指すといいながら、ろくに
練習もせず、あげくの果てにアウトファイターまで出現してしまった。翌年には佐藤直之(現・プロ新日本木村)
も排出したが、続く練習生は現われず、苦難の毎日だった。練習生の不真面目、やる気の無さに、私はノイローゼ
となる常態だった。
私のボクシングのやり方はこうだった。どんなに才能が無くても、情熱と努力があれば誰でもやって行ける
しかし、練習生は情熱と単なるあこがれを勘違いし、努力なんて無かった。期待しても裏切られる。我がジムは
5年の間、150人の練習生が門を叩いたが、試合をしたのは事実上6人に過ぎなかった。当日の大崎クラブ
時代は2人のみだ。練習生のボクシングに対する冒涜は凄く、私はノイローゼとなってしまった。やがて佐藤が
プロ転向。唯一、試合するだろう中学生はいたが高校で部活でボクシング部に入ったため、今後、期待できる
選手はいなかった。私はボクシングクラブをやる事が苦痛でした。選手一人を育てる事がどれほど難しい事か
このとき知りました。平成8年4月、クラブは解散する事にしました。
私は後悔と未練は残りました。せっかく始めたのに選手をろくに育てられず、投げ出してしまった事に・・。
すぐさま隣り町に古川リバーサイドジムを設立したのは、あと1年だけという思いでした。1年経ってたった
一人でも頑張ってくれる選手が現われれば私の心は救われると思いました。このままでは自分の気持ちが傷ついた
ままで終わってしまう。どれだけ真剣になっても決して練習生は動かない。今の私は事実上、一人で運営する
代表にしかすぎませんが、一人になって気軽なところもあります。ようやくに最近はまじめにやろう、言った事に
対して受け止めてくれる練習生が多く現われました。苦しいけど、そんな時に嬉しさを感じます。私は一日でも
長く続けようとおもいます。失ったものは大きいです。得たものはほんのわずか。自分が選手なら100努力
したら最悪でも20か30は帰ってくるとおもいます。しかし、今は100頑張って1か2が精いっぱいです。
でもそれがボクシングなのかもしれません。何かを犠牲にしなければ何かを得られない。ほんのわずかにしろ
得られたものがある事にしあわせを覚えます。
ああ・・世界チャンビオンはいつ出来るのか・・。後50年はかかるかな?よぼよぼ爺さんやんけ。いつまでも
夢は夢で終わる事を続けていては行けないかもしれませんが、何故か夢を見ていたいとおもいます。
やったるでぇぇぇぇ。オラは世界チャンプのセコンドだぁぁ。って、いつか威張ってやる!(アホか・・)
(3月27日更新)
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