つわものどもが ゆめのあと
         −−山形県最上郡大蔵村 旧永松鉱山−−
                  2001年3月 山形応用地質誌
            松田 博之(山形県庁商工政策課)

  

 最上郡大蔵村には銅山川という川があり、烏川とも呼ばれていますが、
その上流、肘折温泉のずっと奥に、遠く江戸時代以前から300年以上も
稼働し続け、つい最近の?昭和36年(1961)まで、主として銅(Cu)を
産出する全国に名だたる鉱山が栄えておりました。
 山形から国道112号を西へ庄内方面に向かっていくと、寒河江市白岩地区を
過ぎる頃、睦合の手前で右手より寒河江に合流する熊野川(ゆうのがわ)が流れ
ています。
 この熊野川と平行する国道458号を北上して、幸生(さちう)集落を通り過ぎ
約10数Kmで郡界の十部一峠に達します。そのまま真っ直ぐ行くと大蔵村肘折温泉に
着きますが、この峠から左手の林道に降りて行くとかつての永松鉱山跡にたどり着き
ます。
 標高880mの峠を400mほど降りて、銅山川の辺に立つと、秋の陽光を浴びて
黒光りするカラミ(製錬滓)山が目に入ってきます。
これは鉱石から有用な鉱物を抽出するために熔錬過程で排出した、
いわゆるスラグで、これ自身も極めて重量があるものです。永松鉱山では、このカラ
ミを焼き固め、レンガ状のブロック建材として旧選鉱場や旧製錬所の土台等に使用し
ており、今も風雨に耐えて強固に残っております。
 むかし、この鉱山には数千人が働いていたこともあり、まさに山中に忽然と現れた
一大産業集落だったのです。
 開発に当たっては、有名な延沢銀山が比較的近くに在った関係で、加賀国から来た
鉱山師の力も借りたようですが、その隆盛時には、山腹に寺院が3つも有り、人口は
3千人を超えたと言われています。その後、幕末までは、幾多の変遷を経て、衰退期や
再興期を繰り返したようです。
 近代になってからは、明治政府により岩崎弥之助らの手を経て、当時隣接している
幸生鉱山を経営していた古河市兵衛の手に移り、明治25年(1892)には大富鉱
体に当たりました。
翌年には精錬所が出来て、明治後半には永松〜幸生間に索道が架設されました。
大正時代始めには、自家発電所や機械選鉱場が出来て第一次世界大戦の影響を受けた
好況期の大正4年(1915)には、精錬所の大拡張をして、従業員も1200人を
越えたといいますから、家族も含めるとかなりの人々がこの地に住んでいたことにな
ります。

 産銅量も百万斤(600t)に達したそうでその頃には、幸生〜白岩間の索道も
開通し、鉱石や物資の運搬に飛躍的な発展が有りました。
 以後、第二次世界大戦を経て、段々と鉱山活動も衰微して、昭和36年3月に
至り休山してししまい、10年後の昭和46年には鉱業権も放棄されました。
 さて、歴史の古いこの鉱山には色々の逸話が残っております。なかでも旧幕時代に
戸澤藩主自らが鉱山視察をした話とか、明治のころ、時の鉱山主の古河市兵衛が
女連れで駕籠に乗り、鉱山を訪れ権勢を誇った話等が面白いですが、現代になって
からの話としては、選挙にまつわる話が興味を引きます。
 永松鉱山は行政的には大蔵村に属しますが、村役場のある清水からはかなり遠く、
肘折温泉から奥はまともな道もなく、まして冬になると全くの交通途絶状態となり
ます。
 しかし、その期間に選挙があると大変で、役場の職員は投票箱を背負い、新庄で
汽車に乗り、寒河江経由の大回りで熊野川をさかのぼってやっと現地にたどり着き、
何泊かを費やして、その役目を果たしたのだそうです。
 当時の鉱山には郵便局や学校もあったといいますから人口的にも参政権を無視す
ることなどは到底出来なかったのでしょう。
 当時、永松から白岩までは索道や道路があり、専ら西村山側の経済圏に入ってい
たので仕方のない話ですが、少なからず鉱産税は大蔵村に入っていたわけですね。
 かつての山道も20数年前、峠から肘折まで自衛隊が道路を改修した後、
県道となり、ごく最近になって国道昇格を果たし、僅かづつではありますが通行し
やすくなっています。
 今では、新緑や紅葉の季節は行楽のマイカーが数多く通るようになりましたが、
十部一峠から永松林道を降りて鉱山跡地を訪れる行楽客はあまりないようです。
銅山川の右岸山腹に至ると、夏には草木の陰で見え隠れしていた旧選鉱場や
旧製錬所の朽ちた姿が、木々の枯れ葉、落ち葉とともにその全容を顕わしてきます。
まさに、その風景は西部劇に出てくるゴーストタウンそのままで、規模が大きいだけ、
それなりの迫力を訪れた者に印象づけます。
 一方、この鉱山(やま)で働いていた人や生まれ育った人達の集まりが今も健在
らしく、所々にある入山者に対しての環境保護の呼びかけの立て札から、この地を
愛し、大切にする心をくみ取ることが出来ます。
これから世の中がどのように変わるかは分かりませんが、長い間、我が国産業の
中核を担い、経済発展の一助となってきたに違いないこの鉱山跡に立つと、形容し
難い感慨に打たれることも事実です。
                     (一部「山形県鉱山誌)より引用)
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