2O23年に慶応義塾高校は甲子園出場し優勝した。

   監修者の祖父の名前は「大道寺進」である
祖父の進は大正時代の後半に
慶応義塾高校の「電気科」へ入学した。
戦前の学制は複雑に分類され、現在の慶応義塾大学に当たるかは不明だが、祖父は
強電の技術と他に野球の文化も弘前市に持ってきたようである。


 
①強電の技術は「弘前電灯会社」の起業
  卒業後は弘前市に戻って、
大道寺繫禎の命を受けて
  「弘前電灯会社」を大正13年に起業し社長となった。
  弘前電灯会社は市内のみならず津軽地方の全体的に電灯を付けて回った。
  偶然、祖父の死後に自分も同じ道に進んだ。
  昭和34年の時だったので、父の転勤先は現在の
  岩手県八幡平市の安代町田山中学校を卒業した。
  大道寺家の本籍地だった弘前市の技術系に進学を決めた。

  弘前工業高校が存在し強電の「電気科」もあって
  祖父の経歴など知らず受験し進学した。

  高校の2年の時に研修旅行があり、青森市のアナログ放送の
  鷹森山送信所や十和田湖へ行く入口付近の蔦温泉の山にある

  蔦湖の発電所
や八戸市の工業地帯の見学が目的であった。

  アントニオ猪木が生前に病気療養の為に長期滞在した温泉だ。
  蔦温泉や蔦湖のニュースは秋の紅葉時期に頻繫に放送される。
  特に蔦湖の紅葉時は大勢で駐車場はどこに留めるのか心配するくらいだ。
  昭和時代に東北電力に吸収合併されて現状は不明である。
  高2の研修旅行の時は発電所の説明は皆無であれば質問も考えたと思うが
  引率教員自体が理解できなかったと思う。
  この旅行が功を奏した事は「青森市のアナログ放送の鷹森山送信所」に見学した事だ。

  ③ 監修者の私は1972年に三鷹市から青森市に移住した
  実は1972年に青森市の青森放送に入社するために移住したのである

    入社後は鷹森山のテレビの送信所と
      隣の女蛇山のラジオ送信所の機械保守を4年行なった。

  三鷹市には昭和37年に弘前工業高校を卒業時に就職試験を受けた。
  学業成績の優秀者は「日立製作所」か「東芝」へ優先的に受験出来た。
  今思うに原子力発電所の作業員の募集のように思う。

  残ったのは、日本電気と日本無線くらいだった。
  元々強電の企業はさけていた。

  幸い日本無線が全国から600人の募集あって、三鷹市の工場へ就職出来た。
  夜間大学の東京電機大学の2部へ入学した。
  大学の歴史も古く他の「東海大学」や「工学院大学」の5年間に比べて
  東京電機大学は4年間で卒業できた。
  会社も普通17時退社を16時半の通学時間の援助をする会社で
  上京から6年で東京電機大学の卒業を機に
    青森市へ移住し両親の体調を気にしながら
        青森放送に再就職でき父は70歳未満で母は93歳まで生きた。

 私は、父も祖父も亡くなった後の2006年に「霊巌夜話」を
    編纂するタイミングで先祖の歴史を研究を始めた。
    祖父が死亡したのは、小学校6年生の頃で自分は電気も歴史も無知だった。
    しかし、祖父の経歴を調査し推察は出来る。

  蔦湖の発電所がまさか祖父の大道寺進の設計・建設した産物とは思いもしなかった。

   建設した場所にはダムもなければ発電所の局舎など見あたらなかった。
   蔦湖の高さを利用して谷方向に流動管を配置して下の谷側に発電機を設置して
   送電線を利用して弘前市まで配送したものと想像される。

 祖父の「大道寺進」には4人の男子がいた。
 長男・恵市 二男・良市 3男・友市(早世) 4男・光市である。
 恵市は弘前電灯会社の後継者として電気工事士として頑張っていたが高圧線で感電死した。
 残った良市と光市は全く電気に無関係に戦前に満洲に渡って
    
良市は満州鉄道へ入社、光市は吉林省の役所へ入社した。
    親善試合のために読売巨人が満州鉄道と親善試合をしたと聴いたことがあった。
    良市は弘前東奥義塾高校の捕手、光市は弘前朝陽小学校でサードやショートの内野手をし
    全国大会を2度出場したと自慢話を父光市から聴いた。
    少年野球大会は京都で行っていた。
    付き添いの校長先生は京都内で人身事故で亡くなったそうで
    お盆の墓参りの時、宗徳寺の隣りの寺の校長先生の墓へ2年続けて参拝した。
     ジャンボジェットが墜落事故の頃を思い出す。
    父光市は戦後に満洲から引き揚げ青森林友からスカウトされた。
     金木営林署、深浦営林署、田山営林署その他
     宮古・花巻・川内へ転勤し林友チームを結成した。
     深浦営林署の時、仙台市で都市対抗野球が行われ、準優勝した。 

     私は弘前工業高校の野球選手に入部したが
      練習場がなく無惨な結果的に終わった。
      就職先はそのような環境もなく子供や孫も縁遠い。

      私がは弘前工業高校へ入学する直前に
       弘前城公園の中に「市民会館」を建設した。
       建設中に外堀の水が枯れ、それの改修工事も出来ず
       弘前工業高校の電気科の校舎の敷地になっている状態だ。
       その枯れた堀の場所でキャッチボールするのが精一杯の練習だった。

       市役所からは築城当時の縄張設計図の提出要求されたが
       大道寺繫禎は亡くなって暗渠利用の経路等は不明である。
       弘前城公園の中に「市民会館」と「弘前工業高校」は外堀で隔ていたのだ。
       ちょっと離れた場所の西堀公園の水を暗渠利用して引いて上げてものを
        「市民会館」の上下水道工事により切断されたのだ。
       暗渠は木材や銅管などはせず表面張力で玉砂利などを利用しており
       表面には露出する事はない。

      祖父の野球文化の続きである。
        伯父良市の息子達は2代目3代目と見事に甲子園出場し
        面目を果たしてくれた。
       2023年に良市の妻が98歳で亡くなった。
        葬儀で孫たちにも会えた。NTTの実業団の試合に出場し
        大阪に住んでいる。

           慶応義塾高校の文化も生きている
           

 イメージ賀状図 令和3年




 
賀状昔ばなし

  


  




<令和3年・昔ばなし>

大道寺繫禎(しげよし・はんてい)は明治に渋沢栄一の指導で青森県の産業を起業

 

①この写真は明治時代に建立された五九銀行本店である。
         (現・青森銀行記念館)

   幕末の津軽藩の財産資金をあて、産業の基礎なる銀行の起業だ
   
      監修者の私は2009年に機会があってこの建物へ入館した。
     120年以上を経ても、しっかりとした作りで関心した。
     弘前城の作りを真似たのかと思ったくらいだった。
     弘前城の天守閣には弘前工業高校在学中に入館料200円を
     払い見学した。
     52年前の事である。
   城も記念館も建てた業者は「堀江組の宮大工」の集団によるものだろう。
   弘前城は津軽為信が堀越城から移行する為に大道寺隼人直英に
     築城を命じた。

 津軽藩主2代目の信枚と、徳川家康の姪の満天姫(まてひめ)の婚姻記念の
   築城でもあった。
 満天姫は秀吉の家臣である福島正則の孫の岩見を連れ添っていた。
   岩見は隼人直英の養子とし、大道寺岩見を名乗った。

 1991年のりんご台風によって弘前市大圓寺の五重塔は被害を受けた。
 重心の芯が変形した。
 この時も堀江組は五重塔の修理を手掛けている。



②渋沢栄一の指導で全国の農産物の大量栽培を進めて
         飢饉対策と気候にあった特産物化を諮った。
         日本刀の鍛冶から鍬や釜の量産を
         進めるため農具店の角弘を創立

③ 監修者の私は1972年に三鷹市から青森市に移住した


    それまでは弘前市の「ねぷた祭り」は観覧した経験はあったが
    青森市の「ねぶた祭り」は参加したことがなかった。
    たった1字が、しかも「ぷ」と「ぶ」の違いで
    中身は全く別の祭りなんだと気が付いた。
    もう一つびっくりした事であった。
    「ねぷた祭り」のお土産だ。 
    「ねぶた祭り」の期間は8月2~7日の5日だけだ。
     毎年のように来客の接待し青森駅まで見送りした。
     帰りは「ねぶた祭りの
「ハネト用の花笠
       竹籠入りの
「大中のりんご」の土産が人気があり
       列車内は甘いリンゴ香りと派手な花笠で満席だった。

     文末の写真のようなりんごを大中と呼び青森県人なら
       誰でも知っていた。

     現在は10~12月に出荷する、「とき」と「ふじ」と「王林」が
       主流で贈答用に出ないので「
大中」は
       幻のりんごとなってしまった。
       正式名が「大道寺中て」で弘前市の
       りんご公園(旧大道寺農園)で明治から昭和まで
       栽培されたりんごである。
       現在では7位の人気りんごにランクされている。

       
大道寺家の元祖りんごなのだ。
       しかも早生で八月中に出荷するので
       正
(まさ)しくネブタ用りんごだったのだ。
         青々とした綺麗な緑色だが柔らかく甘い。
         同じ早生の「つがる」よりは、はるかに美味しい。
         りんごは赤色イメージの方が県外で好まれ
         薄い赤色の「つがる」は県外では売れるようだ。
         
         名前も「祝(いわい)」と変えられ県人にとって
         知名度同様に作付も少なく自分の首を締め
         口にする機会も失い非常に残念でこの上ない。

    

 sub90_020.html

  令和  3年

  sub90_21.html    令和  4年
  sub90_22.html    令和  5年
 sub90_23.html   令和  6年
  sub90_24.html   令和  7年

 

       起業の実績内容

  ①五九銀行の創立

  ②
農具店の角弘を創立

 

  ③農牧社のりんご農園を経営



  ④
弘前電灯会社を創立

 
 
 

賀状令和の目次

令和3年 大道寺繫禎の起業

         大道寺繫禎の起業
          
          sub90_20.html